弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年7月 1日

福岡県弁護士会報(第30号)

司法


(霧山昴)
著者 会報編集室 、 出版 福岡県弁護士会

今回は、裁判官制度改革はどこまですすんだか、を紹介します。
裁判所は果たして日常的な紛争の解決、権利の救済の場として市民から信頼され、期待されているだろうか。裁判件数は過払金請求事件の時期を除いて一貫して微増程度で推移してきた。これには、いくつもの原因・理由が考えられるが、裁判を実際に利用した人の18%しか今の裁判制度に満足していていないという調査結果は、裁判官による現状の訴訟運営について利用者たる市民の多くが納得していないということを意味しているのではないだろうか。
このリード文が論稿の基調になっています。
弁護士任官の厳しい実情
裁判所に新しい血を送り込もうということで始まった弁護士任官システムが、実は、うまくいっていません。
1992(平成4)年から2018(平成30)年10月期までの弁護士任官者の合計は、119人である。もっとも、2003(平成15)年の年間10人をピークとして、翌年は8人に上ったが、その後は減少し、2009(平成21)年から2018(平成30)年10月期までの常勤裁判官への任官は、合計33人に留まっている。
弁護士任官適格者として弁護士会としての所定の手続によって推薦したにもかかわらず、40%もの弁護士が不適とされたり、心ならずも任官申し込みを取り下げるという事態が生まれていた。これは「40%」問題と言われていました。
ところが、ごく最近(2020(令和2)年12月時点)では、「40%」が、実は、任官希望者の40%しか任官できない状況になっている。比率が逆転してしまったのです。困った状況です。
事件処理は質より量
キャリア裁判官の世界では、「できる」、「できない」という言葉が日常的に使われている。裁判所内では、この「できる」、「できない」という言葉はかなり特殊な意味であり、できるかどうかの判定は、事件の処理件数にかかわっている。月々30件の訴訟事件(新件)が来るとすれば、出来ばえはともかくとして、30件を来た分だけこなすという裁判官がとにかく断然「できる」とされる。丁寧な審理をして、いい判決を出したところで、月25件しか処理できず、決まって赤字になる裁判官は、全然「できない」と評価されても仕方がないと思われている。
裁判官の世界では「あの人は良くできる」というとき、事務処理能力の優れた、判決が手早く書けるという人という意味であり、あの裁判官は優しい人とか親切な人とか思いやりのある人という評価は重視されない。
このように、判決内容より要領よく事件処理することに一生懸命で、そういう人の方が恵まれた道を歩いていて、そんな現実を目の当たりにすると、来た仕事に全力投球する気にはなれないのも当然のこと。
そのため、本人尋問や証人尋問をしない裁判が増え、検証と鑑定は10年間で約3分の1に激減している。そこで、訴訟代理人から、「裁判所が証人調べをしない、強引な和解がある、判決の理由が乏しくなっている、高裁の1回結審が増えている」などの不満が出ている。
その結果、裁判利用者で今の訴訟制度に満足した人は、わずか18%しかいない。
判決に事実認定の緻密さが欠けてきているという批判を裁判官経験者がしている。
裁判官の3つのタイプの割合
刑事裁判官を3つのタイプに分類してみると...。
①迷信型(捜査官は嘘をつかないが被告人は嘘をつくと思い込んでいるタイプ)が3割、②優柔不断・右顧左眄型(真面目にやろうという気がないわけではないが、迷ったり右顧左眄するタイプ)が6割、③熟慮断行型(被告人のために熟慮し、正しく決断することができるタイプ)が1割。
民事裁判官には、①当事者の言い分をよく聞いて真実を見極めようという姿勢で丁寧に審理するタイプ、②とにかく一丁上がり方式にどんどん処理していくというタイプ、③真面目に取り組むつもりがなくて杜撰な処理をするタイプ、この3つに分かれる。
このうち、③のタイプは1割にも満たない、②のタイプは恐らく5~6割で、残りの3~4割が①のタイプに該当する。これに対して、いやいや、③のタイプは、もっと多い。①のタイプの裁判官は、1割にも満たないという印象だ。刑事にしても民事にしても、きちんと事案に則して物事の真実―正義の観点から考えて判断する姿勢のある裁判官は、本当に少ない。私も後者の意見と同じです。
裁判官の統制が強まっている
裁判官の統制には、いろいろな手法が駆使されている。
重要な事件については、全国の担当裁判官を集めて意見を交換させ、最後に最高裁当局が見解を示すという裁判官会同や裁判官協議会という手法により、裁判内容に対する直接的な介入も行われている。恣意的・差別的な人事運用の下で、最高裁当局の見解を示されると、素直に従ってしまう。善意からであってもその方針を既定のこととしてそのままに踏襲し、あるいは周囲の人々にもそれを求めるような感性が、生まれてきたのではないか...。
最高裁事務局は自民党の政治的意向をよく理解している。そして事務総局は、配置転換や昇進の制度を用い、自民党の意向に従う裁判官に利益を与え、その意向に反する裁判官に不利益を与えることによって、自民党の無言の命令を実現する。その結果、この動機づけの枠組みが、裁判官に対して政治的圧力をかけることになる。沖縄における辺野古新基地建設をめぐる一連の判決が、その典型例ですよね。
裁判官の人事評価とアンケート
5段階評価とあわせて個別意見を付すことができるアンケートに当会は長年とりくんでいる。ところが、弁護士のなかには裁判官に自分が情報提供したと分かると気まずくなることを心配する声も依然としてあり、消極的な弁護士が少なくない。
ペーパー回答として最多だったのは2006(平成18)年の251通で、回答者の割合が37.1%だった。その後は、回答者数が200通に達せず、回答者の割合は20%を下回り、2018(平成30)年には9.9%となった。しかし、2019(令和元)年度は、強力な働きかけの成果があり、回答数が476通(回収率36%)と飛躍的に増加した。そのなかでも、筑後部会だけは5割近い回答率を誇っています。
弁護士の裁判所依存
みずから適正な訴訟活動をしないで、真実を発見して判決したいと考えている裁判官の思いに乗っかって、報酬を稼ぐ弁護士。判事室では、この種の弁護士の話が満ちあふれている。さらに言うと、「裁判官おまかせ主義」の弁護士が少なくない。これは耳の痛い指摘です。
最後に、長く裁判官をやって今は弁護士をしている人の指摘を紹介します。
「裁判官が記録をきちっと読んで、身を乗りだして当事者の言い分に耳に傾け、洞察力をもって、事案を的確に把握し、できるだけ当事者に負担をかけないような合理的な審理を謀り、解明すべき点についての必要十分な資料の提出を当事者双方に均衡に配慮して促し、適時の和解勧告をして公正な判決を図り、鑑定が必要な場合でも鑑定人に丸投げせず、自らの頭で洞察力を働かせて推理し、的確な推認による批判に耐えうる事実認定をする方向で、謙虚に審理を進めてくれれば、医療関係訴訟は迅速適正な解決に向かうはず。しかし、そのような審理のできる裁判官は少なくないことがわかってきた。そうであるなら、訴訟進行を裁判官に委ねることなく、当事者の方でイニシアチブをとって、裁判官を育てるつもりで、裁判官に積極的に働きかけ、私たちが求める方向で審理を動かしていくしかないとの思いを強くしている。
ぜひ、会報の本文をお読みください。
(2021年3月刊。非売品)

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2021年7月 2日

シルクロード全史(下)

ヨーロッパ


(霧山昴)
著者 ピーター・フランコパン 、 出版 河出書房新社

17世紀から18世紀にかけてイギリスは最大級の成功をおさめたが、その理由はいくつもある。ほかのヨーロッパ諸国に比べて社会や経済の不平等が少なかったこと、最下層の労働者たちのカロリー摂取量が大陸と比べてはるかに多かったこと、経済成長にともなって労働の効率が格段に上がったこと、生活様式の変化も重要だった。
イギリスには、独創性に富む人材が多く存在した。出生率がヨーロッパの大半の国よりも低かったのは、一人あたりの収入に重大な影響を与えた。大陸に比べて、少ない人数で資源や資産を分けることができた。そして最強の切り札は、海に取り囲まれているという地理的条件。守るべき陸上の国境がないため、イギリス軍事費は、大陸の国々に比べて非常に低く抑えることができた。
第二次世界大戦の前、イギリスは戦争という脅しでドイツを牽制し、東の隣国への攻撃をふみとどまらせようとした。ところが、ヒトラーは、最強の手札が配られたと瞬時に判断した。それは並はずれた度胸が必要なゲームだった。
1932年に、ソ連の輸入品の50%近くがドイツからだった。それが6年後には、5%以下にまで落ち込んだ。スターリンとヒトラーの利害が一致したのは、ポーランドを分けあうということだった。スターリンは、すでに「ポーランド軍事組織のスパイ網の一掃」を名目に、ポーランドの内政に干渉し、数万人を逮捕し、5分の4以上は銃殺していた。
ソ連社会は、スターリンの圧制の下、数年間にわたって自滅の道を突きすすんでいた。
1917年の革命の英雄たちをはじめとする大勢の人々が、ヴィシンスキー検察官の下で、ファシストの犬、テロリスト、ならず者、害虫などと罵(ののし)られ、そして殺された。知識人や文化人が虐(しいた)げられた。101人の軍高官のうち、10人を残して全員が逮捕された。91人のうち9人以外は銃殺された。このなかには5人の元帥のうちの3人、大将2人、空軍幹部全員、各軍管区のすべての長、ほぼすべての師団長が含まれていた。赤軍は崩壊した。この状況のなかでスターリンには一息つく時間が必要だった。ヒトラー・ドイツの不可侵条約の提案は天の恵みだった。
なあるほど、そういうことだったのですか...。
一方のヒトラーにとって、最大の弱みは国内の農業だった。ドイツは食糧自給ができないため、輸入に大きく頼っていた。餓死する国民をひとりも出さないためには、ウクライナの穀倉地帯が「必要」なのだ。ロシア南部とウクライナの農業は、急成長していた。
ヘルベルト・バッケはヒトラーに対して、カギはウクライナにあると強調した。ゲッペルスも、ソ連を攻撃する狙いが小麦とその他の穀物を中心とする資源であると理解していた。戦争の開始は、穀物とパンのためであり、豊富な朝食と昼食、夕食のためだと明言した。目ざすべきは、ドイツとヨーロッパのすべての人々を養ってあまりまるほどの、黄金の小麦がゆらめく東の広大な農地の占領だった。
切迫した現実があった。ドイツでは、食糧をはじめとする必需品が急激に不足していた。ソ連からの穀物輸送だけでは、慢性的な供給不足を解消できなかった。1941年の夏には、ベルリンの店は品薄で、野菜が売られている店はめったに見かけないとゲッペルスは日記に書いた。ドイツ民族が食べていくためには、数百万人が餓死することは避けられない。次のようにナチスの内部文書に明記された。
「すべてはソ連南部の小麦畑の獲得にかかっている」
ソ連侵略の前に出された、ヒトラー・ナチスの軍隊の内部指令は次のとおりだった。
「完膚なきまでに、敵を全滅させる。あらゆる行動において、鉄の意思をもって、無慈悲かつ徹底的であらねばならない」
スラブ民族への侮蔑、ポルシェビズム(共産主義)への憎悪、そして反ユダヤ主義で一貫していた。
ヒトラー・ナチスがソ連領内に進攻する徴候はたくさんあり、スターリンに届いていた。しかし、スターリンは、まだヒトラーが牙をむく段階には至っていないと、ひとり合点していた。
チモシェンコ元帥(国防人民委員)、ジューコフ将軍(ノモンハン事件のときのソ連軍最高司令官)の二人が、ドイツへの先制攻撃を提案したとき、スターリンは、「頭がおかしくなったのか」と言ってとりあわなかった。
ドイツ軍はソ連領土内に侵攻して華々しい成果をあげた。しかし、それも束の間、今では必要な量の食糧すら確保できなくなっていた。
大量のロシア人捕虜が餓死したのは、ナチス・ドイツの自国民優先(ファースト)からだった。
スターリンのソ連には、やがて、ロンドンとワシントンから、戦車や航空機、兵器そして物資が投入されるようになった。流れが決定的に変わったのは、1942年の夏、ドイツ軍のロンメルが、アフリカ北部のエル・アラメインで大敗したこと。スターリングラードでも、1942年秋にはドイツ軍が苦境に立たされていた。
イランの共産化を阻止するため、アメリカのCIAは、イランの各方面に気前よく大金をばらまいた。イランの武器のほとんどは、アメリカの防衛産業から購入されている。まさしく、他人の殺しを金もうけのために利用しているわけ...。ああ、嫌ですね、嫌です。よく調べてあることに驚嘆しました。大変勉強になりました。
(2020年11月刊。税込3960円)

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2021年7月 3日

戦場の漂流者1200分の1の二等兵

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 半田 正夫 、稲垣 尚友 、 出版 弦書房

語り手は1922(大正11)円12月に大牟田市で生まれ、小学校から与論島で育った。そして、神戸で働くうちに兵隊にとられて、船舶工兵として、海軍ではなく帝国陸軍に入営。
フィリピンに運ばれる途中、乗っていた8万5千トンの輸送船がアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈される。3千5百人の同乗兵が海のもくずとなって戦死。海を票流中に偶然に駆逐艦に助けられ、別の船に移って島へ行く途中、再び魚雷に沈められた。それでも、著者はしぶとく生き残った。同期の船舶工兵1200人のうち唯一生き残ったことから、上官から「1200分の1」と呼ばれるようになった。それで、金鵄(きんし)勲章をもらうことになった。
いま横浜港につながれている氷川丸は病院船としても活躍しましたが、実は、兵器輸送船として活用されていたというのを初めて知りました。制空権も制海権もアメリカ軍に奪われてしまった日本軍はインチキをしていたのです。病院船は赤十字をマークを大きくつけているので、敵から攻撃されることがない。そこで、日本軍は、弾薬、鉄砲、機関銃を氷川丸に積み込んで運んでいた。そして、多くの人が白衣を着ていた。
語り部(半田氏)は、戦場のむごい実際を包み隠さず語っています。戦場で死ぬかどうかというのは、まさに偶然。運が悪ければ、むなしく死んでいくことになりますし、大半の人が、そうやって戦病死していったわけです。そこには英雄的行為はありません。そんな力を発揮する前に亡くなっていったのです。本当に本人も残念無念だったことと思います。
フィリピンの山中にいて、しばらくアメリカ軍による攻撃に対抗していった。フィリピンのアメリカ軍収容所に入れられたあと、日本に帰ってきた。こんな日本人もいたのですね...。みんながみんな、語り部のような強運の持ち主だということはありえません。
(2021年2月刊。税込1980円)

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2021年7月 4日

天才 富永仲基

江戸


(霧山昴)
著者  釈 徹宗 、 出版  新潮新書

 江戸時代の中期に31歳の若さで亡くなった町人学者の話です。仏教について、まったく分からないままの私ですが、仏教経典を読破して、成立過程を明らかにして、仏教思想を解明した若き町人学者がいたというのですから、驚きます。20歳までに仲基は仏典をほぼ読破していたというのも信じられません...。
阿含(あごん)経典類は、釈迦滅像200年から300年たって現在の形にととのえられたもの。大乗経典は、仏滅後500年もたってから現われはじめたもの。般若経典や法華経は1~2世紀に成立し、華巌経は4世紀に成立した。大乗経典は、小乗経典成立後に編纂され、大乗経典を低く評価することで、自説の優位性を主張している。
 仲基はこう言った。インドの俗は幻を好む(神秘主義的傾向が強い)、中国は文を好む(レトリックを重視する傾向が強い)。日本は秘を好む(隠蔽する傾向が強い)。
 仏教経典が文字化されたのは釈迦滅後、2~300年してからのこと。それまでは口伝だった。初期の教えを伝えているパーリ語経典や阿含経典は、紀元前3世紀から紀元後5世紀までに編纂され体系化されていった。
 法華経や般若心経など日本によく知られている経典の大半は大乗仏教の経典である。その大乗経典は、大乗仏教の展開にともなって制作された。
 釈迦には3人の妻がいた。もともとの仏教では、肉食に対して、それほど厳格ではなかった。知らないことばかりでした。
 20歳までに仏教の経典をあらかた読み終えたなんて、とても信じられません。
(2020年9月刊。税込880円)

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2021年7月 5日

かぐや姫は、どうやって月に帰ったの?

宇宙


(霧山昴)
著者 寺田 健太郎・いぬいまやこ 、 出版 大阪大学出版会

「かぐや姫は、満月の夜におじいさんとおばあさんに見送られて月に帰っていきました...」
実際、満月のとき地球から月に吹く風に乗れば、30分で月に着くというのです。ええっ、本当でしょうか...。
地球と月とは、38万キロも離れている。これは、地球を30個ならべた距離。飛行機で休まずに飛ぶと、20日間、車で走り続けると6ヵ月、歩いたら10年かかる。
太陽風(ふう)は、大阪から東京まで1秒で着くくらいの速さ。これに対して台風だと、木の葉が運動場の端から端まで1秒で飛んでいく速さ。
地球上の表面では、空気でいちばん多い粒は、窒素。宇宙に近づくと、バラバラの酸素が多くなる。
満月のときは、太陽と地球と月が一直線に並ぶ。そして、満月のときには、太陽風に吹き飛ばされた地球の酸素が月に届いている。この地球からの酸素の風は、1秒間に200キロ進むほどの速さ。30分で月にたどり着く。
月は、地球の4分の1もある大きな衛星、こんな大きな衛星が地球のまわりをまわっているから、地球の軸はふらふらしないで、毎年、安定して春夏秋冬という四季を過すことができる。
大阪大学の寺田博士が、月に地球の酸素が届いていることを発見したのをご本人が分かりやすいマンガ(絵はいぬいまやこ)で紹介している楽しい本です。学者の本も、ここまでくると、本物です。子どもたちに、なんとか難しいことをやさしく伝えたいという気持ちが伝わってきます。子どもと一緒に読んでみてください。
(2020年10月刊。税込1870円)

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2021年7月 6日

百年戦争

フランス・イギリス


(霧山昴)
著者 佐藤 猛 、 出版 中公新書

ジャンヌ・ダルクが活躍したのは百年戦争のとき。
この戦争は14世紀(1337年)から15世紀(1453年)まで続いた。日本でいうと足利尊氏が室町幕府を開くころからの100年になる。
前半はイングランド軍が圧勝し、後半はジャンヌ・ダルクの活躍によりフランス軍が最終的に勝利した。戦乱のなかで、イギリスとフランスの貴族が没落し、教会は権威を喪失して、やがて宗教改革の嵐が到来する。百年戦争を通じて、中世という時代が終わった。
イギリスとフランスの両王家は婚姻関係でつながっていた。
当時のヨーロッパでは、識字率は低く、支配階級でも少なかった。
百年戦争は、フランス王国の支配をめぐる戦いであると同時に、地方の独立をめぐる戦いでもあった。百年戦争は、1337年、イングランド王エドワード3世がフランス王フィリップの王位継承に異議を唱えて始まった。当時のフランス王家には、日本の皇族典範のような法典も、明確な王位継承順位もなかった。百年戦争は、決して「イギリス人とフランス人」のあいだの戦争ではない。百年戦争の根本原因は、イギリス大陸をめぐる積年の封建的主従関係の存在だと考えられている。フランス王の王位継承というのは開戦の口実にすぎなかった。
百年戦争は、ヴァロワ王権に対するフランス地方貴族の大反乱を有していた。
終結したのは1453年。フランス軍はイギリス軍からボルドーを取り戻し、イングランド軍は大陸から全面撤退した。
このころ、イングランド王国の人口は500万人。フランス王国は1700万人。約3倍の国力があった。イングランドの3倍の人口をもち、2倍の兵力を有するフランスがなぜイングランドに連敗したのか...。
フランスでは、統一国家と言える状況にはなかった。
戦争のさなかの1348年にはペストが大流行した。人口が増加し、食糧不足のもとでのペスト流行だった。ペストは、パリの人口の4分の1を、ブリテン島では人口の4分の1から5分の2を奪った。
教皇庁は、ローマからアヴィニヨンに逃れていて、教会は大分裂の時代だった。
英仏のあいだで休戦が成立すると、兵士たちは報酬がもらえないので、より一層、略奪に明け暮れた。
フランス王は、軍資金を調達するため、聖職者・貴族・平民と言う三つの身分代表を集めた三部会を招集して、課税の承認を求めた。
1355年、パリの三部会は、3万人の兵士を雇うため3.3%の消費税と増税を承認した。
中世ヨーロッパの戦争では、敵軍兵士の殺害よりも、捕虜をとることが優先された。身代金が目的だ。身分の高い者の身代金は高額だった。ジャン2世の身代金は300万金エキュ、うち60万金エキュの支払いによってジャンの身柄は釈放される。そのあと、毎年40万金エキュの分割払いとする。完済まで、フランスから王権が人質としてイギリスに渡る。
ジャンヌ・ダルクの登場は、1429年なので、百年戦争終結(1453年)直前になります。1431年に異端審問の末、処刑されたのでした。
百年戦争を概観できる手頃の解説書です。
(2020年4月刊。税込1012円)

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2021年7月 7日

自由法曹団物語

司法


(霧山昴)
著者 自由法曹団 、 出版 日本評論社

先日、「時の行路」という映画(神山征二郎監督)を福岡・赤坂でみました。2008年9月、リーマンショックを口実に日本の自動車メーカーは一斉に非正規労働者を「派遣切り」しましたが、このとき、トラックメーカーのいすずも栃木工場と藤沢工場で812人の派遣社員全員を首切りしました。いすずは派遣会社との労働者派遣契約を契約期間の途中で解約し、それを受けて派遣会社が派遣社員を解雇したのです。11月14日に解雇して、年末までに寮からの退去も求めました。もちろん、いすずだけではなかった。トヨタは7800人、日産1500人、マツダ1300人、スズキ600人、日野自動車500人という大量の首切りでした。
これに対して、いすずでは労働組合JMIUの支部が4人の派遣社員で結成されていて、会社(いすず)とのたたかいが始まったのです。自由法曹団の弁護士たちが組合を応援しました。
この2008年12月末には、東京・日比谷公園で年越し派遣村が取り組まれ、マスコミも大々的に報道しました。自由法曹団の弁護士たちも派遣村運営の実行委員となって連日泊まり込みをして支えました。この派遣村については大々的に報道されたこともあって、多くの人が関東周辺から歩いて日比谷公園までやってきて救いを求め、また救われたのでした。それでも27歳の男性が所持金2200円となり、JRに飛び込み自殺するという悲しい事件も起きてしまいました。
いすずで結成された労働組合支部は雇い止めの不当性を訴えて裁判に踏み切りました。ところが、東京地裁(渡辺弘裁判長)は、会社側の主張を全面的に認め、雇い止めを有効と判断したのです。もちろん、ただちに控訴しましたが、東京高裁は、社長などの証人申請を全部却下して、控訴棄却。最高裁も上告を受けつけなかったのでした。
映画「時の行路」はハッピーエンドの話ではありません。日本の司法が大企業に有利で、労働者に対してあまりに冷たいという現実をありありと示しています。ところが、負けても主人公の表情は、人としてやるべきことをやったという明るい表情を最後まで崩しませんので、その意味では暗い、悲惨な結末ではありませんから、救われます。
そして、現実にも労働組合JMIUはいすずと交渉して争議を全面解決させ、主人公のモデルは市会議員としての活動に転じたというのです。捨てるカミあれば、拾う神もあるということなのでしょうね。
大企業の自分勝手な使い捨てを許さないという闘いが今もあること、そして、それを自由法曹団の弁護士たちが支えていることが、よく分かる本です。ぜひ、ご一読ください。
(2021年5月刊。税込2530円)

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2021年7月 8日

一度きりの大泉の話

人間


(霧山昴)
著者 萩尾 望都 、 出版 河出書房新社

1970年から2年間ほど、東京都練馬区大泉の2階家で竹宮恵子と共同生活していたころのことを振り返った本です。
大泉の共同生活を解散したあと、著者は竹宮恵子とはまったく没交渉となり、その作品も全然よんでいないとのこと。なぜか...。
「あなたは、私の作品を盗作したのではないのか?」
「あなたは男子寄宿舎ものを描いているが、少年愛を知らないあなたの作品は偽物(ニセモノ)だ。偽物を見せられると、気分が悪くてザワザワするの」
「書棚の本を読んでほしくない」
「スケッチブックを見てほしくない」
そして、3日後...。
「このあいだの話はすべて忘れてほしい。全部、何も、なかったことにしてほしい」
なるほど、こう言われてしまったら、もう竹宮恵子の作品は読まないという著者の決断は理解できますよね。
この話は、前提として、竹宮恵子は少年愛、つまり少年同士の同性愛に関心があり、それを題材にしたマンガを描いていたことにありますが、これに対して、著者は、少年愛は理解できず、テーマとしていないのです。
著者は、両親とのあいだで激しい葛藤をかかえていました。
「あんたは買い物もできないの」
「あんたはダメ」
これは母親のコトバ。父親は「女には学問はいらない。生意気になるから」と言った。
大牟田で三井の社員だったようです。両親は、マンガを描く仕事をくだらない、恥ずかしいものと思っていた。著者が親と一緒に生活していたときは、親の機嫌をうかがいながら、ビクビクしてマンガを描いていた。何かで親の機嫌を損ねると、親は怒りに血相を変えてすぐにマンガ禁止を言い出した。
著者は大牟田出身。三川鉱大災害が起きた1963(昭和38)年11月9日は、船津中学(「舟」ではありません。14頁)校の2年生で文化祭の準備をしていた。私は、隣の延命中学校3年生でした。土曜日の午後でしたが、何かテストを受けていた記憶があります。ドーンという大音響がしたので3階から外を見ると校舎の遠くに黒煙が見えました。
実は、私の母と著者の母親は福岡女専の同窓生で、著者の母親は我が家によく顔を出していました。私が小学生のころだと思います。なんので、よく顔を覚えていました。大人になった著者の顔写真を見て、「あれっ、お母さん、そっくりだ...」と、つい叫んでしまったほどでした。
竹宮恵子は1950年生まれ、著者は1949年生まれ。同じ学年です。でも、竹宮恵子は先にマンガ家として活躍していました。
著者は竹宮恵子の才能を認めていて、高く評価しています。
青空のような明るさ、いつも前向き、心が伸びやか。
竹宮恵子は著者に嫉妬したのではないか...。そこには排他的独占愛があったのでは...。
著者は無自覚に、無神経に竹宮恵子を苦しめていた...。なので、思い出したくない、忘れて封印しておきたい。
いやあ、才能ある人々の人間関係というのも大変なんですよね...。思わず引き込まれた本でした。
(2021年5月刊。税込1980円)

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2021年7月 9日

帝国大学の朝鮮人

朝鮮(韓国)


(霧山昴)
著者 鄭 鍾賢 、 出版 慶應義塾大学出版界会

植民地朝鮮から日本の帝国大学に留学した青年たちのその後をたどった本です。人数にして1000人もいた彼らの多くは、日本の植民地支配機構にエリートとして組み込まれていったようです。
彼らは長い日本における留学生活を通して、日本式の近代化の理念を内面化して帰国し、植民地朝鮮と戦後の南北朝鮮で社会の中枢となった。
帝国大学の教授陣のなかにも、朝鮮留学生に厚意を示した良心的な知識人もいた。たとえば、吉野作造、河合栄治郎、河上肇、そして藤波鑑(私は、この人を知りません。すみません)。
植民地朝鮮にも1926年に開校した京城帝国大学があった。ところが、この京城帝大には日本人学生が多数であり、朝鮮人入学者が半数をこえたことはなかった。そもそも、この京城帝大は、当時の朝鮮人たちが自力で民立大学を建てようとするのを阻止する手段でもあった。
玄界灘を渡って日本へ行った青年たちは、「志士か、出世か?」の問いが投げかけられた。そして、帝国大学の卒業生は結果として、多数が「出世」を選択した。多くの学生が、日本での留学期間に、帝国日本が先に成し遂げた文明に圧倒されてしまった。
しかし、帝大出身のなかには、反日運動を展開し、労働運動を指導した青年たちも少なからずいた。その青年たちは検挙され、拷問を受け、そして獄死する人がいた。
京城帝大を卒業した朝鮮人青年は629人だったのに対して、日本内地の7つの帝国大学を卒業した朝鮮人留学生は784人、途中放棄などをふくめると1000人をはるかにこえる青年が帝国大学で教育を受けた。
これらの帝国大学の留学生は、朝鮮総督府の植民地統治を維持する官僚となり、官立・公立・私立の教育機関、植民地の言論、出版、そして経済界で中心的に活動した主要人物だった。そして、解放後には、南北朝鮮の国家建設の重要な人的資源となった。このように、帝国大学は、日本本土だけでなく、植民地および南北朝鮮においても国家のエリート育成装置だった。
東京帝大の朝鮮人留学生のなかには、日本帝国の民間有力者たちが設立した「自彊(じきょう)会」から奨学金をもらった人たちがいた。いわば「アカの正体を隠して」奨学金を「タダ乗り」でもらっていた。
帝国の奨学生のなかの少なからぬ人々が、解放後の南北朝鮮で、自らが習得した知識で各自の共同体に貢献する生涯を生きた。
河上肇は、自宅で毎週木曜日、雑誌「社会問題研究」を中心とするセミナーを行ったが、これには、日本人8人と韓国人学生3人が参加していた。
藤波鑑教授は京都帝大医学部の教授であり、朝鮮人留学生(尹 日善)の授業料を出してやったりした。藤波教授は、毎週水曜日の昼は、学生と一緒に昼食をとって歓談した。
うむむ、これはすごい教授ですね・・・。
ニックネームが「熊」だった朴英出は京都帝大経済学部で学ぶなかで反日運動の闘士となり、警察に逮捕された。知力も体力も強かったのに、激しい拷問にあって、その後遺症として4年の刑期を待たずして獄死した。
大変な労作です。少なくない前途有為な、志の高い青年たちが日本の特高警察による残忍な拷問で殺されてしまったことを知ると、同じ日本人の一人として大変申し訳なく思います。これらの人々が解放後に平和裡に個性を発揮したらどんなに素晴らしかったことでしょう...。もっとも、本人が一番残念だったでしょうね。
(2021年4月刊。税込3740円)

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2021年7月10日

「敦煌」と日本人

中国


(霧山昴)
著者 榎本 泰子 、 出版 中央公論新社

私は幸いにも敦煌に行ったことがあります。莫高窟(ばっこうくつ)にも中に入って見学しました。すごいところです。井上靖の『敦煌』は読みました。残念なことに映画『敦煌』は見ていません。そのうちDVDを借りてみてみたいものです。
井上靖は戦前の1932年に京都帝大に入学し、哲学科で美学を専攻していた。そして30歳のとき日中戦争にも駆り出されている(病気のため、すぐに帰国)。知りませんでした。戦争の愚かさも身をもって体験していたのですね...。
敦煌は、中国の西端にあるオアシス都市で、漢代より漢民族が西方に進出する際の拠点として栄えた。遠くローマに至るシルクロードにはいくつかのパートがあるが、それらが交差する交通の要衝(ようしょう)が敦煌。中国の絹はここを通って西方へ運ばれ、西方からは、玉や宝石やガラス製品がもたらされた。敦煌は東西の文化の行きかう場所だった。
敦煌の南東20キロの砂漠の中に4世紀の僧によって開闢(かいびゃく)された莫高窟がある。鳴沙(めいさ)山の断崖に穿(うが)たれた500あまりの石窟には、千年以上の長きにわたって各時代の人々によって製作された仏教壁画や仏像が遺されている。
1900年、ここで暮らしていた道士(道教の僧侶)が、偶然、大量の古文書を発見した。その後、日本からは西本願寺の大谷光瑞の主宰する探検隊が活躍した。
砂漠のなか、大谷探検隊のラクダ隊が収集品を運んでいる写真があります。私も鳴沙山でラクダに乗りましたが、意外に高くて、怖さのあまり顔がひきつってしまいました。
井上靖の『敦煌』は、行ったこともないのに、同世代の学者だった藤枝晃から資料をもらい、教わりながら、5年かけて執筆されたもの。歴史学と文学の幸福な出会いのなかに生まれた小説だ。すごい想像力ですね。戦後、井上靖は、亡くなるまで26回も中国を訪問した。これまた、とてもすごいことですよね...。
NHKテレビが1980年4月から「シルクロード」を月1回、12回にわたって放送したのが大反響を呼びました。毎回20%もの視聴率を記録するという大ヒット作品でした。石坂浩二のナレーション、喜多郎のシンセサイザーの前奏も印象に残ります。井上靖も案内人として登場します。さらに平山郁夫の絵がまたすばらしい。
この本では、日本人のあいだにシルクロードのイメージを広め、ブームを定着させた最大の功労者は平山郁夫としています。なるほど、そうかもしれないと思います。やはり、絵の訴求力は偉大です。
西安の兵馬俑と敦煌は、コロナ禍が収束したら、ぜひ再訪してみたいところです。もし、あなたが行っていなかったとしたら、ぜひ行ってみてください。現地に行って実物を見たときの感動は何とも言えないものが、きっとあります。
(2021年3月刊。税込2090円)

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2021年7月11日

明治14年の政変

日本史(明治)


(霧山昴)
著者 久保田 哲 、 出版 インターナショナル新書

1877(明治10)年の西南戦争は、近代日本における最大かつ最後の内戦だった。4年後の1881(明治14)年10月、近代日本を方向づける政変が起きた。
明治10年代、議会開設要求が高まり、政府内部でも将来的な議会開設に肯定的になっていった。そして、明治14年3月、参議の大隈重信が即時の議会開設を求める意見書を提出した。
同年7月、北海道開拓使の官有物を破格の安値で五代友厚(黒田清隆と同郷)へ破格の安値で払い下げられるとスクープ報道がなされた。これは肥前出身の大隈重信が情報をメディアにリークした、大隈は薩長政府の打倒を企てているという陰謀論が広まった。
そして、同年10月、御前会議が開かれて、大隈を政府から追放すること、開拓使による官有物の払い下げが中止となった。また、国会開設の勅諭が出され、9年後の議会開設が宣言された。
明治維新の三傑とは、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通。木戸孝允は明治10年5月、43歳で病死した。西郷隆盛は同年9月、城山で死んだ。大久保利通は明治11年5月、暗殺された。
大隈重信は、明治14年に43歳だった。伊藤博文は、同じく40歳。井上馨は45歳。黒田清隆は40歳。岩倉具視は56歳。井上毅は政変のフィクサーと評されるが、37歳だった。福沢諭吉は46歳。
私は、最近、歴史を語るとき、その人が、そのときに何歳だったか絶えず注意しておくべきだと考えるようになりました。年齢は、発想とか行動力に深くかかわるものだからです。
明治14年ころ、天皇親政の実現を企図する宮中グループなるものが存在していたのですね...。もちろん、薩摩グループがあることは、初歩的知識として知っています。それでも、そのなかで、どれほどの力をもっているかについてまで詳しくは知りませんでした。
明治14年5月、政変の前の参議は、薩摩4人で、長州と肥前が各2人だった。
伊藤博文の最大の関心は薩長の連携による政府の基盤強化だった。宮中グループが政治に関与しようと画策しており、在野では自由民権グループが言論による政府打倒を目ざしていた。
明治11年8月、竹橋事件が勃発した。近衛砲兵大隊の兵士が反乱を起こしたのだ。その日のうちに鎮圧され、翌年までに55人が処刑された。
福沢諭吉は政治に無関心ではなく、政府内の人間と積極的に交流していた、そして慶應義塾は、明治11、12年ころ、学生数の減少により深刻な経営危機に陥っていた。明治12年7月、福沢が国会開設を求める本を刊行すると、すさまじい反響があった。福沢の想像以上に、「大騒ぎ」となってしまった。
開拓使官有物の払い下げ批判は薩長藩閥政府批判となり、議会開設・憲法制定要求へと展開していった。
三菱という資金面での後ろ盾、福沢という理論面での後ろ盾を得た大隈が、自由民権グループと連携して薩長藩閥を打倒し、イギリス流議会を開設することで政府の実権を握ろうとしているという陰謀論が流布していった。このとき明治天皇は、それまでの大隈の努力に同情する気持ちがあり、罷免の強行ではなく、辞任するという形をとって、大隈の名誉を守ろうと配慮した。
明治14年の政変によって、政府を去ったのは、大隈重信だけでなく、大勢いた。ただし、政府にとどまった人も少なくはなかった。
明治時代の政府部内の微妙な力関係の変化は理解するのが、なかなか困難ですね...。
(2021年2月刊。税込1012円)

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2021年7月12日

カラスをだます


(霧山昴)
著者 塚原 直樹 、 出版 NHK出版新書

カラスの鳴き声を研究している第一人者による本です。カラスの群れを音声だけで別の地点へ誘導するのに成功したそうです。さすがです。といっても、カラス同士の音声の会話を解読したとまでは言えないとのこと。残念です...。
カラスのねぐらと巣は違う。ねぐらは、文字どおり寝るところ。巣は、卵を産んで育てる繁殖の場。子育てのあいだ、カラスはねぐらには帰らない。この間、ねぐらは、独身カラスと卵を産まないペアだけになる。
カラスはマヨラー。マヨネーズが大好き。脂(あぶら)が好きなのだ。
カラスは鼻がきかない。カラスにとって紫外線が決定的に重要。舌もきいていない。カラスは超音波も聞こえない。
カラスは遊ぶ。電線でさかさまにぶらさがって遊んでいる。
カラスの体は黒いとも言えない。カラスの羽は構造色。青や紫の艶もある。見る角度によって玉名のように艶が変化する。
カラスは外見だけではオスかメスか分かりにくい。しかし、カラス同士では互いの性は分かっている。
カラスの一生がどれくらいなのか、実は判明していない。カラスは、2歳以上になると、年齢不詳になる。2歳までは口のなかをのぞくと0歳、1歳、2歳以上というのが分かる。それ以上になると無理。野生だとおそらく10年くらいだろう...ということ。
カラスが人間を襲うのは、子育て中、子どもを守るため。まず、予告する。警戒の鳴き声は、「アッアッアッ」と、短く強い繰り返し。警戒の度合いが増すと、「アッ」の1回が短くなって、回数が増える。警告は、威嚇だ。「ガーガー」という長めの濁った低い声。「それ以上、近づくな」というメッセージ。攻撃は、人間の後頭部への蹴り。死角から飛来する。カラスは人間が怖いのだ。カラスは、うしろから人間の死角で、後頭部に蹴りを入れようとするので、バンザイのポーズ、両手をまっすぐ上にあげると、カラスは襲ってこなくなる。
カラス肉を食べさせてくれるフランス料理店が長野にあるそうです。カラスの肉は、高タンパク、低脂肪、低コレステロールのうえ、鉄分とタウリンが豊富。これほど栄養価の高い肉はない。それでも...、私は、なんだか食べたくはありません。ところが、日本でも昔はカラスを食べていたそうです。韓国ではカラスは滋養強壮の漢方薬の原料にしているとのこと。ふうん、薬ですか...。
カラスは悪賢い鳥だという定評がありますが、この本によると、カラスにも当然ながら個性があって、みんながみんな悪賢いわけでもないそうです。経験と警戒心のないカラスだっている。
ともかく集団で攻撃されないように早めに対処することを著者は勧めています。
その対処法は、一つの方法は効果がなくなったら、そのまま放置せずに引っ込めて、代わりの新手をやってみること。それを繰り返すことだそうです。あきらめてはいけないのです。そして、この本は、今のところ、永久的に効果のあるカラス撃退法は見つかっていないということです。それでも一定期間は有効なカラス対処法は試みられていて、それなりに効果をあげているというのです。
カラスをワナで捕まえるのは難しいし、山中ならともかく都会で銃砲をぶっ放して退治することはできません。アメリカでは、その点、カラス対策の点で日本よりすすんでいるようです。
カラス対策には今のところ絶対という策はない。手を替え品を替え、次から次へ、多種多様に、刺激を提示すること。カラスが慣れてしまって効果のなくなったグッズは、さっさと撤去してしまうこと。カラスは、ともかく人間の視線を気にしている。
カラスのペアは、1年に3~5個の卵を産む。そして、無事に巣立つのは2.5羽ほど。
ヒトがカラスを養っているのも同然。農作物の「残渣」と、残飯と生ゴミ。
カーと澄んだ声で鳴くのはハシブトカラス。ガーと濁った音を聴けるのはハシボソガラス。
ゴミ袋を黒く塗ったくらいでは、紫外線を認識できるカラスをだませない。
カラス除けに超音波は使えない。
カラスは、とてもきれい好き。
カラスの生態、鳴き声、カラス除けの方法の発明...。いろんなことが書かれている、カラスをめぐる楽しい新書です。
(2021年2月刊。税込935円)

 6月に受験したフランス語検定試験(1級)の結果を知らせるハガキが届きました。どうせ不合格なのですが、恐る恐るのぞいてみると、なんと47点。ショックでした。自己採点では55点だったのです。この差8点は、仏作文の不出来と、文章読解についての大甘な自己採点によるものでしょう。それでもめげずに毎朝、NHKのラジオ講座を聞き、CDで書きとりをしています。そして最近は、毎週1本の仏作文に挑戦中です。これをフランス人の先生に採点してもらいます。今度のテーマは、超富豪の宇宙旅行です。がんばります。

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2021年7月13日

推古天皇

日本史(古代)


(霧山昴)
著者 義江 明子 、 出版 ミネルヴァ書房

古代日本では、倭王は天皇と呼ばれず、大王であった。6~7世紀の大王たちは40歳以上で即位するものが多い。推古39歳、天武43歳、持統46歳。奈良時代の人々の死亡平均年齢は40歳。40歳まで生きのびた人間は「老(おとな)」であり、長寿の祝いの対象となった。馬子78歳、推古75歳、斉明68歳。みんな長生きしたというわけです。
大王は世襲されたが、継承順位は明確に定まっておらず、群臣(有力豪族)の支持を得た者が倭王になった。
推古は蘇我馬子(そがのうまこ)と叔父-姪の関係。といっても、二人は年齢的にはごく近い。馬子が76歳で亡くなった3年後に推古も死んだ。二人は同世代の政治的同志だったと考えられる。
推古の父は欽明、母は蘇我稲目(いなめ)の娘・堅塩(きたし)。
推古にとって、王権の強化と蘇我氏の繁栄は何ら矛盾するものではなかった。
推古は額田部(ぬかたべ)王。豊御食炊屋(とよみかしきや)姫ともいう。推古というのは、のちの奈良時代になってつけられた漢風の諡号(しごう)である。ということは、当時の呼び名ではなかったというのです。36年間にわたって馬子とともに国政を担ってきたわけで、お飾りなんかでは決してありません。
古代(5~7世紀)の王権は、群臣が治天下大王を選出し、大王は群臣の地位を任命・確認するという相互補完システムだった。
5世紀末までの倭王は、血縁による継承が自明の原則とはなっていなかった。首長連合の盟主たる地位で実力で勝ち得た者が、他の有力首長たちに王として認められ、王を出すことのできる複数の地域勢力が並立する状況にあった。連合の盟主となったものは中国に遣使し、中国の皇帝から「倭王」の称号を得て王としての地位を確かなものにした。継体大王の選出も、このような従来のシステムにそってなされた。しかし、継体以降は、子孫による血縁継承が続いて、世襲王権が形成されていく。
欽明のあとは、母の異なる4人の男女子、つまり敏達、用明、崇峻そして推古が次々に即位した。欽明につづく男女子4人の即位という事実の積み重ねによって、結果的に世襲王権は、成立した。
弥生後期から古墳時代前期まで、地域の盟主たる大首長もふくめて、男女の首長がほぼ半々の割合で存在した。
欽明は即位したとき31歳だったが、まだ「幼年」で、国政を担うには未熟だとみなされていた。
世襲王権は、蘇我氏の強力な支えのもと、欽明と稲目の子孫よりなる王権として成立した。
額田部(推古)は、18歳で異母兄・敏達の妃となった。異母兄との婚姻は、当時において珍しいことではなかった。6~7世紀の大王と周辺の王族は、極端な近親婚を何世代にもわたって繰り返した。そうやって自分たちの権力を守ろうとしたのでしょうね。
崇峻は蘇我馬子と離反したことから、馬子の配下によって殺され、群臣の支持を得て額田部(推古)が即位した。崇峻殺しは、単に馬子の横暴ではなく、足かけ5年の治世をみてきた群臣が、王を見放したことにもとづく。つまり、王としての資質に欠ける崇峻が馬子によって暴力的に排除され、そのあと安定した政治を回復し、統率力ある執政者として額田部を群臣は切望した。額田部は、まさしく蘇我氏と一体の大王として、蘇我氏の本拠地で即位した。
聖徳太子として有名な厩戸(うまやど)は、32歳ころから20年間、推古の下で働いていた。聖徳太子の実像が、この本でもあまり紹介されていません。誰か、古代の歴史のなかでの、推古と厩戸の関係をふくめて具体的に教えてください。
(2020年12月刊。税込3300円)

 庭にブルーベリーが実っています。孫たちと一緒に実を採ります。わが家のブルーベリーは少し酸っぱくて、孫たちはパクパク食べますが、家人には人気がありません。
 実は隣の人からも同じようにブルーベリーをたくさんもらったのですが、そちらは少し大きくて甘味があるのです。品種が違うのでしょうか...。

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2021年7月14日

どうしても頑張れない人たち

人間


(霧山昴)
著者 宮口 幸治 、 出版 新潮新書

「がんばれ。がんばれば、きっと報われる」
よく聞くセリフですよね。私も言った、いえ言っていたかもしれません。
でも、世の中には、そもそもがんばれない人たち、怠けてしまう人たちがいる。その現実をきちんとみて、そんな言葉を切り捨ててしまうのではなく、本当の支援、手を差しのべる必要があるのではないか...、本書で著者の言いたいことは、ここにあります。
子どものころから、何度も何度も挫折を味わい、既にやる気を失っていて、もうがんばれない、そんな人は少なくない。がんばれないのは認知機能の弱さだけが理由ではない。
4つの欲求。生理的欲求、安全の欲求、社会的欲求ないし所属と愛の欲求、承認の欲求。この上に最終段階である自己実現の欲求がある。非行少年たちの家庭環境は恵まれていないことが多く、これら4つの欲求の土台が満たされていないことはしばしばだ。
がんばってもできない人、がんばれない人に「やればできる」と声をかけるだけなら、彼らの心を傷つけるだけのことではないか...。「もし、あなたが頑張ったら応援します」
これは、あなたががんばらないのなら支援はしない、支援金○○円を差し上げることはない。本当にそれでいいのか...。がんばらないとがんばれないの違いは大きい。でも、外見から判断できないことも少なくない。
本当に支援な人たちとは、実は、私たちがあまり支援したくないと感じる人たち。
では、「がんばらなくてもいいんだよ」と誘いかける行為はどうだろうか...。しかし、安易な言葉かけは、場合によっては無責任であり、課題を先送りさせ、教員を困らせてしまうかもしれない...。誰だって、みんなと同じようにできるようにはなりたい...。中途半端な声かけは、逆に彼らを追い詰めてしまうことがある。
がんばる、がんばれるを支える3つの基本がある。その一は、安心の土台、その二は伴走者、第三のチャレンジできる環境とは、自己評価を上げるには、他者から評価されることが絶対に必要。達成感も自信も、成し遂げたことへの周囲からの承認があってはじめて成り立つ。決して成し遂げたこと自体からではない。しっかり承認の言葉をかけてやる。それが、やる気につながっていく。
何でもないことをいくらほめても非行少年たちの心には響かない。しかし、彼らが一生懸命やったことに対しては、心からの感謝の一言だけで響く。
子どもたちが求めているのは、生きづらく困っているときに支えてくれる「安心の土台」、「チャレンジしたい時代に守ってくれる伴走者」なのだ。
支援者には笑顔とホスピタリティが求められる。
『ケーキの切れない非行少年たち』の続編のつもりのようです。いま、しっかり読むべき本だと思いました。
(2021年5月刊。税込792円)

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2021年7月15日

JUSTICE、中国人補償裁判の記録

中国・日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 、 出版 高文研

裁判の記録というタイトルから、なんとなく無味乾燥な記録ものというイメージをもって読みはじめました。すると、たちまち、そのイメージはぶっ飛び、いろんな意味で大変困難な課題に若き日本人弁護士たちが中国そして日本で苦闘し、少しずつ成果を勝ちとっていったという、人情味いっぱい、血わき肉踊るとまではいきませんが、日本と中国の関係を下から何とかいい方向に変えようとがんばった苦労を、ともに味わっている気分にさせてくれる本でした。その意味で、タイトルをもっと今どきの若者向きに、読んでみようと思わせるものにしてほしかったです。しかも、製本まで固くて、これでいったい日本の若者は手にとって読んでみようと思うのかしらんと、不安に駆られてしまいました。
 いえ、内容はすばらしいし、若手弁護士の大変な苦労が報われていく過程が見事に語られていて、読ませるのです。なので、タイトル・体裁に少し注文をつけてみたということです。ご容赦ください。
日本人(日本軍)が中国で信じがたい残虐な行為を大々的にしたことは消すことのできない歴史的事実です。ところが、多くの日本兵は中国での自らの残虐な行為について、日本に戻ってからは沈黙し、ほとんど語ることがなかった(軍当局は語らせなかった)ことから、良き父、善良な夫が残虐な加害行為なんかした(する)はずもないと内地の日本人は思い込んでいったのでした。ところが、この本には、自ら残虐行為をしたことを認め、犠牲者の遺族に謝罪した勇敢な元日本人兵士も登場します。
加害者は加害行為を忘れようとし、忘れたふりをして沈黙できます。ところが、被害者は忘れようがないのです。自分の母親が目の前で日本兵によって殺されたことを打合せ段階では日本人弁護士にも告げず、法廷でいきなり語ったという場面も紹介されています。
そして、日本人弁護士との打合せのときには適当なつくりごとを言っていたという話も出てきます。手弁当でやってきた日本の弁護士を、現地の人々は当初は信頼できなかったということです。
東京地裁で請求棄却の敗訴判決を受けて中国に説明に出かけた泉澤章弁護士は、中国側の激しい非難・攻撃を一身に受けることになった。いわば当然の状況ですが、それでも、中国人原告のなかに泉澤弁護士をかばってくれる人がいたことも紹介されています。
国家無答責の法理というものがあり、日本の裁判所の多くが、これに乗って原告らの請求を棄却した。この法理は、国の権力的行為によって生じた損害について、国は賠償責任を負わないとする考え方をいう。戦後、国の責任を認める国家賠償法が制定されるまで、国の賠償責任は否定されていた。ところが、この法理は、実は確固不動の法理ではなく、明治憲法下の判例の積み重ねによって徐々に形成されたものにすぎない。明治憲法ではなく、日本国憲法の下では、戦前の判例に絶対的に拘束されるのはおかしい。
芝池義一・京都大学教授の明快な意見書は、まったくもって、そのとおりです。
そして、もうひとつの壁は、「時の壁」。つまり「除斥」(じょせき)。これは、20年たっているから、もうダメだというもの。でも、裁判を起こしたくても起こせないような人たちに、「20年たったからもうダメ」と切って捨てるのは、あまり酷すぎる。これを打ち破るには、被害者・遺族・原告の置かれている実情を丁寧に聴きとる必要がある。
ところが、言葉の壁もあった。それは、中国の方言を北京語の通訳すら分からず、家族に言い換えてもらって、ようやく理解することになるので、実は日本人弁護士が正確に理解しているという保証はなかった。
それにしても日本の裁判官はひどいですね。国家無答責の法理で簡単に請求を棄却したり、請求権を認めると、「紛争の火種を残すに等しく、将来の紛争を防止するという観点からして有害無益」とした裁判官がいるというのです。呆れた裁判官です。この本の欠点は、そんな裁判官たちの名前が書かれていないことです。
そして、最後にもう一つ。小野寺利孝弁護士は、弁護団に加入するよう呼びかけたとき、「経済的負担はかけない」と保証したとのこと。実際には、どうだったのでしょうか...。請求棄却が相次いでいますから、国から費用をもらえたとも思えません。その点についてどうだったのか、カンパを集めてまかなったというのなら、そのことにも触れてほしいと思いました。
いろいろ注文もつけましたが、大変貴重な労作です。318頁、2500円という、ずっしり重たい本ではありますが、日本の若き弁護士たちが勇敢にも現実と取り組んだことを知って、勇気が湧いてくる本です。法曹を志す若い人たちに広く読まれることを心から願います。
(2021年1月刊。税込2750円)

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2021年7月16日

喰うか喰われるか

社会


(霧山昴)
著者 溝口 敦 、 出版 講談社

山口組との取材つきあい50年の著者、本人も息子さんも山口組から刺されたこともある著者の半生(半世紀)を振り返った本です。
裁判の合い間、待ち時間にカバンから取り出したら、あまりの面白さに、裁判なんてそっちのけにしたいくらいになりました(もちろん、ちゃんと応答はしました。メシのタネですから...)。結局、何件かの裁判の合い間と終了後に読みふけり、ついには自宅に持ち帰って食後、一風呂あびて汗を流してさっぱりしたところで、結末まで読み通しました。
著者は山口組だけでなく、細木数子の正体を暴く連載記事も書いているそうです。細木数子については、本人自身がヤクザな人間であり、著者の取材を止めるため、現職の暴力団幹部2人を使い、それに失敗すると、6億円もの損害賠償請求を著者にではなく、講談社のみを被告として提訴してきたのでした。著者は、やむなく訴訟参加して、細木数子に逐一、詳細な反論をしたのです。すると、結局、細木数子は訴を取り下げざるをえませんでした。
著者の山口組の取材は、警察情報ではなく、幹部から直接聞き込みをしています。ですから取材源は絶対秘匿です。著者の口が固いことを見込んで、話してくれる幹部があちらこちらにいたのでした。
それにしても、この本のなかに大牟田を基盤としている九州誠道会(今は浪川会)のトップ、浪川政浩会長の名前を見たときには驚きました。山健組の意向を受けて著者と山健組との裁判の和解に向けた動きの仲介に乗り出したという話です。もちろん浪川政浩本人が出てくるのではなく、その意を受けた事業家が表に出てきてのことです。浪川は山健組の井上邦雄組長と非公表の兄弟分だというのでした。ただ、この和解はまとまりませんでした。そして、著者は井上邦雄組長について、何回も「男になれるチャンス」に出くわしながら、一度として腹を括った行動に出れなかった人間として鋭く批判しています。すべて御身大事の、その場しのぎの保身だったという手厳しい批判です。なので、井上邦雄をトップとする神戸山口組から「任侠山口組」が分裂していったと解説されています。
著者は取材の過程で、カネと性サービスは受けとったことがないそうです。それは、先輩からの「受けとったら記事が書けなくなる」というアドバイスを守っているのでした。
ノンフィクションの書き手として、一番大事なのは、事実に対するまじめさだ。なーるほどですね。ただし、著者は飲食の接待は受けています。これは、なるべく「お返し」する、おごったこともあったようですが、バランスを欠いた接待もあったのでした。なにしろ、銀座で1晩に200万円は暴力団幹部が使っただろうという接待も受けた場面が紹介されています。
そして、取材し、連載途中で、脅迫を受けています。そんなときには、自分一人で動いているわけではない、編集部で決めることと言って逃げることもあったとのこと。
著者の母親(故人)は共産党員で、目立ちたがり屋の面白がり屋で、葬式には日本共産党地区委員会から花輪が届けられた(この花輪の代金は実は母親が出していた)。そして、著者が山健組から刺されたとき、「溝口は共産党員だ。あの事件は迷宮入り」と公安ルートが放言して、まともに捜査しなかったとのこと。ひどい話です(著者は共産党員ではありません)。
渡辺芳則(山口組五代目組長)は組長の器ではなかった、殺された宅見勝が山口組を仕切っていたという内幕話も興味深いものでした。
まあ、ともかく並大抵の、生半可な度胸では山口組のノンフィクションなんて書けないと実感させられた本でした。著者のますますの健筆を大いに期待しています。
(2021年5月刊。税込1980円)

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2021年7月17日

よみかき心得帖

人間


(霧山昴)
著者 平井 久義 、 出版 (有)知可舎

モノカキを自称する私ですが、日本語の文章は主語のないのを特徴とすると教えられたのは、今から30年ほど前のことでした。弁護士になって十数年たっていましたし、準備書面をはじめとして文章を書くことは多かったわけですが、文章というのは主語があって述語があって論理的に書くものだと思い込んでいました。なので文章を書くときには真っ先に主語を明らかにするのは当然のことでした。ところが、古来より、日本の文章は主語がなく、その主語を忖度(そんたく)しながら読み解いていくことに面白みと深みがあるというのです。
なので、私は、裁判官に向けた準備書面では必ず主語を明記しますが、その他のレポートや紀行文などでは極力、主語を省略するようになりました(省略しています)。では、本書です。
行きつけの飲食店の看板に「定休日は月曜日です」と書いてあると、むむむ、なんか変だと思う。ところが、店内に入ってお品書きの脇に「定休日は月曜日です」と書いてあったら、違和感がない。この違いは何か、どこから来るものなのか...。この店に入ったこともない、通りがかりの人にとって、「は」というのは抵抗がある。そうでなくて、すでに店内に足を踏み込んだ客にとっては、また来ようかなという気があれば、休みはいつなのか知りたくなる。そんなときは「定休日は...」と書かれていると、気持ちにぴったりくる。ふむふむ、なるほど、ですね。
文章はつないで読むものである。文章は、すべてを言い尽くすことはできない。書き手が省(はぶ)いているところがある。このときは、書き手の意識にそいながら読み手は想像力を働かせて補(おぎな)いながら読まなければいけない。これを「潜在判断を補う」という。
題述関係とは何か...。
「オレは女だ」
「ワタシは男よ」
この二つの文章は、一見すると奇妙だが、「キミの子どもは男か女か」と問われたときの答えだったら、文法的にも正しく、まちがってはいない。つまり、「オレは」、「ワタシは」は、主語ではなく、題目。さきほどの短文は、「オレ」と「ワタシ」に限って、主語のようであって、いわゆる述語ではないので、題目と答えの関係で題述関係と名づけている。
「雪が溶けたら、何になる?」
このなぞなぞの答えは、「春になる」。これも「雪が溶けたら」までは題目。
2017年10月、同じ中学校(岡大付属中)の卒業生(1977年卒29期)が、国語科の恩師・平井久義先生による特別授業を受けました。参加者13人で、3時間の授業。この授業での教師と生徒(卒表性)の問答のさわりが再現されています。このとき平井先生は81歳で、生徒たちは55歳前後。生徒の一人に則武透弁護士(現在の岡山弁護士会長で、中学校時代には生徒会長をつとめた)がいます。
平井先生は、重層構造図なるものを編み出し、授業で展開した。
重層構造図とは何か...。時間的、線条的に進行する一次元的表現を空間的、絵画的に展開する二次元的表現に移しかえた構造体であり、その構成要素は、段落ごとにまとめらえた「問いと答え」からなる要旨である。
「問いは何ですか」、「答えは何ですか」、「答えの中のどの言葉から次の問いが生まれますか」と言葉で表す。言葉で表さなくては文脈はとらえられない。
重層構造図のメリットは、正しく読んでいるかどうかが検証できる点にある。
生徒の一人は、こう喝破した。「重層構造図とは、文章の設計図なんだ」。平井先生は、文章は、有機的重層的構造をなすものであって、重層構造図化することができるという。
中学教師が生徒たちに情熱をもって国語教育をすると、それは大人になった生徒たちの心と頭、そして文章を紡ぎ出す手を豊かなものにしてくれるということを実証した本だと思いました。
文章を分かりやすく書くための二つの心得。その一は、言葉の順序を意識する。その二は、長い文は分割する。
このような素晴らしい本にめぐりあうことができたことをモノカキの一人として大変うれしく思いました。則武先生、ありがとうございました。
(2019年7月刊。非売品)

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2021年7月18日

消えた依頼人

司法


(霧山昴)
著者 田村 和大 、 出版 PHP

NHK報道記者から弁護士になった著者によるミステリー小説。ぐいぐいと引きずり込まれ、最後まで読ませる迫力があります。ミステリー小説なので、読んでいない人には、ネタバレにならず、読んでみようかなと思わせるほどに紹介してみたいと思います。うまくいくかな...。
「俺」は東京の弁護士で、事務所は地下鉄丸の内線の新中野駅の近くのビルの4階にある。大学の先輩にあたる女性弁護士と2人だけの共同事務所。
「俺」は25歳で弁護士になり、「ブティック」に類型化される法律事務所に5年間つとめていた。ボス弁は、株主総会対策で名を上げていて企業法務の世界に橋頭堡を築き、今や数十の上場企業を顧問先にかかえる。ええっ、これって、なんだか有名な久保利弁護士を連想させますよね。ところが、ボス弁は、大変なパワハラ弁護士で、事務所の弁護士30人は、常に変動していた。ええっ、そ、そうなると、違うかな...。それはともかく、この元ボス弁が、この本では悪しきキーパーソンになっています。
私選の刑事弁護費用について、「俺」が被疑者に提示する金額を紹介します。
まず、初めに100万円。死体遺棄や殺人で再逮捕されるごとに30万円を追加。ここまでが着手金で、最大160万円。逮捕された全部の罪について起訴されなかったら、成功報酬として100万円。どれか一つでも起訴されたら、その段階での成功報酬はなく、追加着手金をもらう。殺人が含まれていなければ50万円。含まれていたら100万円。裁判員裁判は手間がかかるから...。そして、裁判で無罪になれば成功報酬として200万円。つまり、殺人で起訴されて無罪になったら、弁護士費用の合計は最大で460万円になる。
「俺」は、国選弁護人に頼んだらどうかと被疑者にすすめています。国選弁護人も裁判員裁判で無罪を主張して争ったら、コピー代請求できるうえ、あまり変わらない金額を弁護士報酬としてもらえることがあります。しかも、この場合、決められた金額をもらえないという心配は無用です。私選弁護人は、報酬のとりっぱぐれのリスクをいつだって覚悟しておく必要があります。そこが決定的に違います。
そして、弁護人は、依頼人との関係で微妙なことがしばしばあります。私は、一般に、すぐに返金できる金額しか着手金をもらわないようにしています。嫌な依頼人だと思ったら、すぐ全額返金して縁を切って、せいせいしたいのです。
この本では、その点がもう少し深刻です。それがタイトルにもなっています。
この本には福岡高裁判事の妻がストーカー行為をしていて、県警が摘発しようとしたら、地検が地裁と一緒になって握りつぶそうとした福岡事件が久しぶりに登場します。
そして、高裁判事のなかには、裁判長は別格だが、左か右陪席には、能力あるいは素行に問題のある中堅の裁判官を氷漬けする部署だということがある。これは、私も福岡で何回か実際に見聞しました。高裁は、いわば教育・反省の場なのです。この機会を逸したら、再任は望めません。
問題裁判官を異動させ、代理人弁護士との取引に応じる役割を最高裁事務総局秘書課がするというストーリーですが、これは本当なんでしょうか...。でも、実際、これくらいのこと、ありそうですよね。というわけで、ええっ、こんなこと本当にありうるのかな...と、首をかしげながらも、結末を知りたくて珍しく自宅に持ち帰って最後まで読了しました。
巻末の著者略歴で、「このミステリーがすごい」大賞、優秀賞を受賞したほか、いくつも小説をかいていることを初めて知りました。失礼しました。今は福岡で活躍中の弁護士です。
(2021年3月刊。税込1870円)

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2021年7月19日

連星からみた宇宙

宇宙


(霧山昴)
著者 鳴沢 真也 、 出版 講談社ブルーバックス新書

事件のことや事務所運営で悩みをかかえているときには、宇宙の話に没入するのが一番です。そこには、何十年とかいう単位はありません。はじめから何万光年の世界です。もちろん個々の私たちがそんなに長く生きられるはずもありません。すべては脳内の、いわば妄想に等しい世界です。
さてさて、連星って何...。宇宙に存在する星々の、およそ半数は連星。連星は、ありふれた存在。星の質量が分かるのは連星のおかげ。連星になっていると、2つの星の質量を知る方法がある。また、ブラックホールの存在も連星によって確認できた。
連星とは、重心のまわりを公転しあう星。連星とは、あくまで2つの恒星が回りあっているもの。
シリウスのような1等星は、全天に21ある。このうち6つが連星。春の1等星である、おとめ座の「スピカ」、夏の夜空の、さそり座の「アンタレス」が連星。北極星は、三重連星。冬の代表的な星座であるオリオン座の1等星「リゲル」は4重連星。現時点で判明している最多の多重連星は7重連星。さそり座とカシオペア座にある。
星は、人間よりも、双子で生まれる確率が圧倒的に高い。連星は分裂してできたわけではない。生まれたときから連星だった。
太陽にしても、かつて兄弟の星がいたかも...。太陽から110光年先にある7等星は、年齢、質量、半径、表面温度、そして科学組成が太陽とほぼ同じ。だったら、地球に似た惑星があって、生命体がいたりして...。
太陽系は銀河の中心を2億年かけて1周する公転をしていて、太陽はすでに20回以上も公転している。
全天の肉眼で見える星の11%が二重星か、3つ以上の星が近寄っている。
太陽の寿命は100億年。現在、46億歳なので、一生の半分を終えたところ...。なんと、なんと、人間の100年の寿命とかいうのは、これに比べると、あっというま...でもありませんよね。
連星は、謎のX線源をつくり、通常ならけっして姿を見せないブラックホールの姿を暴き出す役割を果たした。連星がなかったら、人間は存在していない可能性がある。たとえば、硫黄、カルシウム、鉄などは、超新星爆発のときに合成される。
著者は断言する。もしも宇宙に連星がなかったら...、宇宙はかなりつまらない。
なーるほど、そうかも、いや、そうだろうと私も思いました。
(2020年12月刊。税込1100円)

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2021年7月20日

ある北朝鮮テロリストの生と死

朝鮮


(霧山昴)
著者 羅 鍾一 、 出版 集英社新書

1983年10月9日、ビルマ(ミャンマー)の首都ラングーンにある国立墓地アウンサン廟を韓国の全斗煥大統領が訪問することになっていた。全斗煥大統領がビルマ側の都合から泊まっていた迎賓館を出発するのが4分ほど遅れた。先発の黒塗りのベンツが駐ビルマ韓国大使を乗せてアウンサン廟に到着し、行事の開始を告げるラッパの音が響いたとき、現場一帯に閃光が走り、すさまじい爆発音とともに猛烈な爆風に包まれた。
このラングーン事件によって、韓国政府の副総理、外相、商工相、動力資源相という4人の主要閣僚、大統領秘書室長、また報道関係者17人が亡くなった。ビルマ側も同じく4人の主要閣僚が亡くなった。負傷者は両国あわせて46人。
犯人は北朝鮮の特殊任務を遂行する偵察局に所属する精鋭部隊であるカン・チャンス部隊。3人組のテロリストは、ジン・モ(キム・ジンス)少佐をトップとし、シン・キチョル(キム・チオ)大尉とカン・ミンチョル(カン・ヨンチョル)大尉の3人。
ジン・モは事件後に逃亡するなかで腕を切断し、失明したがビルマで死刑に処せられた。
シン・キチョルは逃亡中に射殺された。残るカン・ミンチョルはビルマの刑務所で獄死した。
使われた爆弾は、対人地雷(クレイモア)2個と焼夷弾の3個。うち対人地雷の1個は不発で残り、ビルマ捜査当局に回収された。焼夷弾は、現場における証拠隠滅のためのもの。
この本を読んで、ひどいと思ったのは、北朝鮮は3人の特殊工作員を工作船でビルマに派遣しながら、この3人を安全に脱出させ保護することをまったく考えていなかったということです。
3人組は、自分たちが北朝鮮から乗ってきた工作船に戻るつもりで、そのために快走艇が川まで迎えに来るはずだった。ところが、工作船はビルマ政府から上陸・接岸を認められず、インドに向かっていたのです。なので、迎えの快走艇なるものも来るはずがありません。それで、3人は、バラバラと見知らぬ土地でビルマ語も話せずに、川の茂みに隠れて快走艇を求めているうちに捜索隊に見つかり銃撃戦を演じ、負傷して捕まったのでした。
北朝鮮の工作というのは、失敗したら自己責任、死ぬしかないのですね。まさしく、かつての日本帝国の軍隊と同じ体質としか言いようがありません。人命尊重なんて、カケラもないのです。ひどすぎますよね...。
そして、カン・ミンチョルは、ビルマの刑務所で25年間、じっとすごして、ついに2008年5月に病死してしまったのです。
この本の著者は学者出身で、国家情報員の要職にもあった人です。本件も朝鮮半島の分断状況がもたした悲劇の一つです。思い出すべき事件、忘れてはいけない事件だと思いました。
(2021年5月刊。税込968円)

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2021年7月21日

花岡の心を受け継ぐ

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 池田 香代子 、 出版 かもがわ出版

戦争中の1944年から翌年45年にかけて、中国から1000人ほどの中国人が強制連行されて花岡鉱山で働かされるようになった。ところが、激しい労働にもかかわらず食糧事情は劣悪、そして、指導の名のもとに激しい暴行が加えられた。ついに中国人たちは1945年6月30日、蜂起を決意。しかし、実際には蜂起どころか、やっとの思いで集団で脱走。土地勘なく、言葉も話せず、体力のない中国人たちは山中で次々に捕まえられていった。捕まった中国人たちは炎天下の広場に座らされ、次々に死んでいった。このとき100人あまりが亡くなった。これを花岡事件という。
この花岡事件のおきた大館市では1950年から現在まで慰霊祭が行政の主宰でとりおこなわれている。実は、中国人犠牲者の供養は戦中から行われていた。これはすばらしい、すごいことです。
集団脱走して中国人たちは武器は何ももたず、とにかく疲労困憊の状態だったから、山中で捕まるとき、何ら抵抗しなかった、いやできなかった。なので、憲兵も警察も一発も発砲することがなかった。
慰霊碑には429人の中国人の氏名が刻まれている。この花岡鉱山に連れてこられた中国人は総勢1284人なので、3分の1が悲惨な状態で亡くなったことになる。
毎年6月30日に盛大に挙行される慰霊式には、市長、市議会議長をはじめとする市議が半数以上は出席するし、中国大使館からも参加している。何年か前までは生存者(幸存者)も列席していた。
花岡裁判で和解した原告は1000人、西松の広島安野は360人、三菱は376人。
和解も立派な解決法です。ただし、この本には、裁判所が判決で企業の法的責任を認めたら、もっと良かったと書かれています。まったく同感です。
原告側弁護団としてがんばった新美隆弁護士(故人)、そして内田雅敏弁護士の話が紹介されています。さらに和解を提案した裁判官は、退官後、慰霊碑に手を合わせに現地まで足を運んでいます。偉いですね。
インタビュアー(ナビゲーター)の著者の聴き取りによって、花岡事件と慰霊式の全体がすっきり分かりやすく紹介されていて、胸を打つ内容になっています。
この弁護団で活躍した内田雅敏弁護士から贈呈をうけました。ありがとうございます。
保守・革新を問わず、歴代の市長が70年以上も慰霊式を存続・実行しているというのは実にすばらしいことです。心より拍手を送ります。
(2021年7月刊。税込1980円)

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2021年7月22日

鳴かずのカッコウ

社会


(霧山昴)
著者 手嶋 龍一 、 出版 小学館

盲腸のような役所であり、おおっぴらに廃止論が出ていて絶滅寸前だったところをオウム真理教が救ったと言われているのが公安調査庁。その長官は法務省の検察官の指定ポストであり、私の同期も長官になりました。
「オレたちは防衛省の情報部門のように最新鋭の電波傍受装置や大勢の傍受要員は持っとらん。外務省のように何千という海外要員を在外公館に貼り付けることもできん。警察の警備・公安のように全国に厖大な数のアシもない」
「公安調査官には、ヒトもモノもカネも満足にない。いわば三無官庁やな。なによりイギリスのMI6やMI5がイギリス国民からうけているようなリスペクトを受けとらん」
「オレたちは、みな戦後ずっと鳴かずのカッコウとして生きてきた」
これでタイトルの意味がやっと分かりました。公安調査庁の別名なのです。
この本では、「現場での地道な調査を得意とする公安調査庁」として、好意的に紹介されています。本当でしょうか...。
私が司法試験に合格したあと、司法研修所に入所するまでのあいだに、公安調査庁の調査官が私たちの身元調査をしていました。それは家族構成というより、政治的な思想信条の傾向を調べることに主眼があるものです。今は、もうやっていないのでしょうか...。
公安調査官の給与は、一般の行政職より初任給で2万5千円ほど多く、率にして12%も高い。
自分が何者であるが、公にできない職業。その代償として報酬が上乗せされている。
初対面の相手に堂々と身分を名乗れず、所属する組織名を記した名刺も渡せない。
携帯番号からアシがつかないよう、公安調査庁は調査官の身元が割れないよう、安全な携帯電話を確保している。
公安調査官による尾行の様子が次のように紹介されています。
一番手は、マル対(監視対象者)にぴったりと寄り添って尾行する。接近戦を担うものには瞬発力、さらに機敏な判断力が求められる。二番手の尾行者は一番手を常にフォローして、マル対を見逃さないのを主たる役目とする。尾行時間が長くなると、タイミングを計って一番手と交代する。三番手は、現場責任者をつとめる。ゲンセキと呼ばれ、全体の状況を見渡せる場所に身を置いて指揮をとる。プラス・ワンの4番手は、予備要員。前の三人が尾行切りにあったときの切り札だ。
著者は、9.11のとき、NHKワシントン支局長でした。その経験をふまえた、軽くさっと読める小説になっています。でも、公安調査庁って、本当に必要な役所なのでしょうか...。
(2021年3月刊。税込1870円)

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2021年7月23日

あしたの官僚

社会


(霧山昴)
著者 周木 律 、 出版 新潮社

いまどきのキャリア官僚の苦労話を描いた小説です。
20代の若手官僚が次々にドロップアウトしているそうです。忖度(そんたく)させられ、先輩官僚たちのぶざまな国会答弁の様子を直近で見せつけられたら、やってられませんよね。
内閣人事局が官僚の幹部人事を一元管理して支配するようになり、クロをシロと言い替えさせられても、それに抵抗できず、ヘイコラ従うしかないなんて、プライドが許せませんね。
しかも、政権トップが平気でウソをつく(アベ前首相)、まともな日本語で政策を説明できない(スガ首相)の下支えをさせられるのですから、やる気なくしてしまいます。
東大法学部は官僚の一大供給源でした(です)が、今では、官僚志向が急減しているとのこと、当然です。でも、笑ってすませてはおれません。官僚の質が低下したら、日本の政治の質が悪くなる一方ですし、ますます権力的発想ばかりになって苦しめられるのは、私たち一般国民です。
この本の主人公は、厚生労働省の若手キャリア官僚です。
霞ヶ関には、ポンチ絵なる業界用語がある。A4版のペーパー1枚で、図表(マンガイラストとグラフ)と簡潔な文章だけのプレゼン資料のこと。日弁連執行部も、国会議員向けにポンチ絵を作成しています。うまくポンチ絵をつくれる人がいて、何度も驚嘆しました。
霞ヶ関の人間(国家公務員)は、国会答弁より以上に、質問主意書を嫌っている。国会法によって内閣は7日以内に答弁しなければならないと定められているからだ。閣議を通す必要があるので、官僚は大変な作業になる。
日本の政治の劣化はひどいと私は思いますが、それを許しているのは、実は投票所に足を運ばなくなった多くの日本人です。今では投票率は良くて5割前後でしかありません。半分ほどの日本人が、あきらめ、政治に期待せず、投票所に行っていません。それが、今の自民党の金権政治を許していること、庶民いじめの政治を野放しにしていることに気がついていないのです。本当に残念です。
コロナ対策にしても、PCR検査をまともに実施せず、ワクチン接種は遅れ、飲食店に自粛を強要しながら給付金の支給は遅れ、感染しても入院できる病院がない、ホテルも確保されていない。なのに、保健所も病院も削減・減少の方針は堅持し、高齢者の医療費も2割負担となる。とんでもない政治が続いています。オリンピックを強行するのも、どうせ投票所に行かない人が半分以上いるんだからと、権力側はタカをくくって笑っているのです。
投票率が7割以上になれば、もう少し日本もまともになると思うのですが...。
(2021年3月刊。税込2090円)

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2021年7月24日

こう見えて元タカラジェンヌです

人間


(霧山昴)
著者 天真 みちる 、 出版 左右社

タカラヅカの経営術の秘密を暴いた本を先に紹介しましたが、この本は、タカラジェンヌとして活躍した女性による宝塚ライフです。
2006年に宝塚歌劇団に入り、花組では主として「おじさん」役を演じました。また、余興でタンバリン芸ができるそうです。格好いいですね。トップスターにこそなれませんでしたが、舞台で大活躍して、2018年10月に退団し、現在ではフリーとして活躍中とのこと。
抱腹絶倒間違いなし、とオビにありましたが、たしかに笑いながら一気に読みすすめました。ただし、「関わらず」(正しくは、関ではなく拘)とか、適切な編集者がすべきミスが散見されたのは残念でした(私も編集者のハシクレなのです...)。
舞台の上でセリフをド忘れしてしまったことがあるという「告白」には驚きましたが、やっぱりそんなことって、あるんですね...。私が舞台に出て役者を演じたくないのは、まさにそれを心配するからです。大勢の前でマイクをもって話す機会は多いのですが、そして一瞬、頭が真っ白になったことが何度もありましたが、あらかじめ決められたセリフを言うのではありませんので、そのとき頭のなかで天から降っておりてきた言葉を口に出して、しのぎました。ですから、今では話の流れのメモは一応つくりますが、メモを見ながら話すことは、まずありません。そして、時計を見ながら、あと何分というのを計算しながら話すだけの余裕があります。要するに、それだけ場慣れして、度胸がついたということです。35歳のとき、NHKの朝の「おはよう広場」で生放送に出たときは最高に緊張しました。それでも、なんとか乗り切ったことも一つの自信になりました。前日、渋谷のホテルに泊まって、朝早くNHKに行ったときは、足がガチガチ震えていましたが...。
著者は、宝塚音楽学校の受験に1回目は失敗。それでも25時間ぶっ通しで寝続けて失地回復。2回目で運よく合格。ここって、受験は4回できるんだそうです...。
この宝塚音楽学校では、1年に3回も試験がある。
「おはよう。今日もいい天気だね。朝ごはんは何がいい?」
これを正しいセリフで演じることをあきらめ、気持ちを優先に演じる。すると、なんと、50人のうちで3番という成績。ヤッター、やりましたね。
宝塚歌劇団に入る前に、各人は芸名を提出しなければならない。生徒はみな、家族や師匠とともに、丁寧に芸名を考える。著者は、天満バレエ教室の発表会をみに行き、「鉄腕アトム」の天馬博士を思い出して、「テンマみちる」を考えついた。みちるは本名。テンマは天真爛漫の天真。
夢見る受験生時代は、もちろんトップスターを目指していた。しかし、自分がほれぼれしていた格好良さを自分で表現するのはたやすいことではないことを自覚せざるをえなかった...。そして、著者に与えられたのは、「脇役のトップスター」。いやあ、すごいじゃないですか、これって...。
著者は、自分の人柄なんか知らない、初めて見た人を爆笑させることを課題にさせられ、それを心がけたといいます。そして、見事にやりきったのでした。
タカラジェンヌの苦労話を、これほど笑いながら読める本にしたのは、これまたタンバリン芸と同じ、これも芸ですね。読みはじめたら途中で止まらなくなって、バスの中で読了してしまいました。今後ますますの活躍を楽しみにしています。
(2021年5月刊。税込1870円)

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2021年7月25日

アウシュヴィッツの画家の部屋

ドイツ


(霧山昴)
著者 大内田 わこ 、 出版 東銀座出版社

ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅収容所として名高いアウシュヴィッツ強制収容所のなかにポーランド人画家が絵を描く部屋があった。なんて、まったく知りませんでした。音楽隊が組織されていて、ヨーロッパ各地から強制的に連行されてきた人を音楽で出迎えていたことは知っていました(暴動を起こさないように、嘘をつき通す道具として利用されていました)が、画家の部屋なるものは知りませんでした。そして、意外にも絵がいくつも残っているのです。
収容所美術館は、1941年10月から1944年2月まで、アウシュヴィッツ第1収容所24号棟に存在し、画家たちの工房だった「画家の部屋」は、地下にあった。画家たちはSS(ナチス)が発注する作品を描きながら、収容所の状況をひそかにスケッチして、今日に残した。たとえば1947年に収容所の焼却炉の近くで地中に埋められていたビンの中から、MMのイニシャルのついた22枚の小さな鉛筆画とチョーク画が見つかった。収容所の虐殺、虐殺が描かれている。
1941年の半ばごろ、ポーランド人政治犯フランシスチェクタルゴシュは中世の騎馬による戦闘シーンを描いているのをルドルフ・ヘス所長に見つかった。いつもなら、すぐに処刑されるところ、ヘスは三度の食事より馬が好きだったので、馬の絵を描くことで死罪を免れた。
そのタルゴシュは大胆にもヘスに収容所の描いた絵を集めた部屋をつくってはどうかと提案した。ヘスはその場で、この提案を受け入れて、収容所美術館が発足することになった。ええーっ、ウソでしょ...と思わず叫びたくなるような話です。世の中、本当に何が起きるか分かりませんね。
このタルゴシュは美術館の管理をまかされ、収容者の作品の保存につとめた。そして、無事に解放の日を迎え、1979年9月に故郷で亡くなった。うーん、そんな人もいたのですね。まさしく芸は身を助けるというわけです。
コルベ神父は、日本で6年のあいだ布教活動に従事して、ポーランドに帰国して5年後に、カトリック教徒だという理由で逮捕されてアウシュヴィッツ収容所に入れられた。
そして、1人の収容者が脱走した。その報復としてナチスは10人を餓死させることにする。ランダムに選ばれたその10人のうちの1人が泣き叫んだ。
「私は死にたくない。私には妻も子もいる。私は生きていたい」
当然の叫びですよね。この叫びを聞いていたコルベ神父は「私が彼の身代わりに」とすすみ出た。ナチスにとって頭数さえそろっていれば問題はない。このとき47歳のコルベ神父は、見ず知らずの人のために自分の生命を犠牲にしたのだった。
収容所のなかで描かれた絵を外に持ち出すために、大勢の善意の人々が協力した。鉄道の機関士、洗濯場の親子、パン屋の親子などなど...。その活動がナチスに発覚して処刑された親子もいます。収容所の内外がまさしく生命がけの仕事なのです。
人間の狂気は恐ろしいばかりですが、善意のほうも大がかりというより、根強い基盤を持っているように思われます。いいことですよね。人間って、ギリギリ信じられます...。
(2021年4月刊。税込1500円)

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2021年7月26日

交響曲第6番「炭素物語」

地球


(霧山昴)
著者 ロバート・M・ヘイゼン 、 出版 化学同人

炭素は、私たちの身の回り、どこにでもある。人間の身体も同じ。皮膚や毛髪、血液、骨、筋肉、腱は炭素原子からできる。どの細胞も、細胞内の成分も、炭素原子の強い骨格があるので働く。乳児の心臓は、母乳の炭素からできる。
炭素と炭素化合物こそが、かけがえのない物質世界と宇宙の進化を促す。しかし、この平凡な元素には謎が多い。地球に炭素がどれくらいあるかも、深部の炭素がどんな化学形かも、よく分かっていない。人間の体をつくっている炭素原子には、恒星が生んだもののほか、ビッグバンが生んだものも少しある。カール・セーガンは「人体は星の産物」と言ったが、「ビッグバンの産物」でもある。
太陽をふくめ、星はほぼ水素の集まりだ。太陽は水素を「燃やす」核融合でヘリウムに変え、過去45億年、輝度をわずかに変えてきた。水素の大半がヘリウムになったときにヘリウムも燃えはじめ、やがて炭素ができていく。炭素は宇宙で4番目に多い元素だ。
130億年以上も前、宇宙の誕生から数百万年たったころ、岩の惑星も生命も気配すらない宇宙空間で、最初の恒星が輝き始める。今の宇宙には、1000個の水素原子あたり1個の炭素原子がある。宇宙空間に向けた炭素の盛大な「種まき」は、巨星が寿命を終えるときに起こる。並サイズ恒星の太陽で、中心部で生まれる元素の最終産物は炭素になる。
炭素鉱物の種類は多い。400種をこす。しかも炭素鉱物は多彩きわまりない。多種多彩な炭素鉱物と合成品がなければ、今の社会は成り立たない。高圧の深部で生じる炭素鉱物のうち、その筆頭はダイヤモンドだろう。30億歳より古い炭に埋まっていたダイヤモンドもある。ダイヤモンドは、数十億年のうちに地球内部で進んだ変化を語る。ダイヤモンドの内包物は、地球が150億歳のころにプレート運動を始めたことを教えてくれる。
地球の炭素は、みな宇宙空間から飛来してきた。その主な源は3つ。その一は、太陽風に混じった炭素系の気体。二つ目は、炭素質の隕石(いんせき)。3つ目は、一酸化炭素や二酸化炭素に富む彗星(すいせい)。地球の地殻には2兆トンの1万倍の炭素がある。炭素という元素が地球を守ってくれている。
地球上の元素は、みな循環している。炭素も例外ではない。炭素は大気から地球深部へ向かい、また大気に戻る。このサイクルが続く。
炭素と地球、そして私たちの身体とのかかわりを全面的に考えさせてくれる新書でした。
(2020年5月刊。税込2640円)

 大牟田市民を長く苦しめてきた暴力団事務所が解体されました。7月20日にその前を通ったら、大きな重機が2台動いていて、3階建の建物はすでになく、敷地に残骸が残って片付け中でした。
 この3階建の建物には、ひところは「村上一家」という大きな代紋がかかっていたように思いますが、ともかく、公然たる暴力団の事務所が町中(まちなか)の目立つところにあるなんて許せないことだと前から思っていました。「悪」の拠点がなくなったのはいいことだと思いますが、いったい今は、どこで総会などはやっているのでしょうか...。

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2021年7月27日

古代日本の官僚

日本史(古代)


(霧山昴)
著者 虎尾 達哉 、 出版 中公新書

こういう本を読まないと歴史の真相というか実態は分からないものだと、痛感しました。
古代日本の朝廷は、厳粛な規律が守られ、よく統制のとれたものとばかり思い込んでいましたが、実際には、平気で遅刻し、無断欠勤が横行していて、しかもそれを上は黙認というか、放任していたというのです。ええーっ、そ、そんなバカな...、という驚きの事実がオンパレードなのです。
古代日本の官僚機構では、実は官人たち、とくに下級官人たちによる怠業、無断欠勤、無断欠席が横行していた。古代の日本では、律令官人は、規律正しくもなく、勤勉でもなかった。
下級の律令官人は、官僚編成に手こずった、かつての伴造(とものみやつこ)たち、つまり中下級豪族層の末裔(まつえい)だ。冠位十二階は、施行して40年以上たってもなお、中央の上級豪族層と一部の中下級豪族の冠位にとどまった。
聖徳太子の憲法17条は、法ではなく、「官僚の心構え」を説く訓令。
大化の改新のころ、中下級豪族層の官僚化は、はかばかしくすすんではいなかった。
壬申(じんしん)の乱(672年)というクーデターによって誕生した天武天皇(本当は大王。まだ天皇とは呼んでいなかった)のとき、律令官人が大量に生まれた。
天武天皇は、クーデターで挙兵したとき周囲にいた20人ほどの手勢を大舎人(とねり)を天皇の身近に仕えさせ、忠良なる官人に育て、能力に応じた官職につけた。そのころ、下級官人は、冠位(位階)を、あまりありがたがらない、そういう人々だった。
それでも、下級官人は、一般庶民とは違い特権があった。調、庸、雑徭(ぞうよう)が免除された。犯罪でも、救済措置があった。
上級官人は150人前後で、位階が昇進していくと、物理的にも天皇に近づいていく。これに対して、六位以下は儀式に参加することもなく、天皇を見ることもない。そして、下級官人は、儀式に無断欠席するものが多かった。ところが、欠席しても「代返」(だいへん)によって出席したと扱われた。この状況に対して、政府の対応は寛容だった。
8、9世紀の律令時代を返して、六位以下の官人たちは、不断に無断欠席を繰り返していた。そもそも、六位以下は、儀式に出席することを期待されず、また強制されない人々だった。なので、彼らは、したたかに、堂々とサボタージュした。
儀式があるときには、遅刻して参列し、天皇からの下賜品だけはちゃっかりもらうという厚かましさがあった。
「不仕料」(ふしりょう)。これは、各官庁で員数分を請求して得た人件費を精勤者に手当として支出したあと、残った不支給分のこと。官人たちが、怠業・怠慢によって欠勤すると、その分の人件費が浮き、官庁の運営経費が多少とも潤うという仕組みになっていた。
このように古代日本の律令国家は、官人の怠業・怠慢をある程度は織り込みながら、無駄なく効率的なランニングコストで官僚機構を動かしていこうという、合理性を重んじる現実的で、したたかな、専制君主国家だった。
いやはや、なんということでしょう。古代の官僚の世界の実態に大きく目を開かされました。
(2021年3月刊。税込924円)

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2021年7月28日

ノマド

アメリカ


(霧山昴)
著者 ジェシカ・ブルーダー 、 出版 春秋社

映画「ノマドランド」は見ていませんが、その原作本です。
ノマドとは、流浪の民のこと。まさか自分が放浪生活をすることになるとは思いもしなかった人々が、続々と路上に出ている。
彼らをホームレスと呼ぶ人もいるが、現代のノマドは、そう呼ばれるのを嫌う。避難所と移動手段との両方をもつ彼らは、ホームレスではなく、ハウスレスを自称している。
彼らの多くは、遠目には、キャンピングカーを愛好する気楽なリタイヤ組に見える。
しかし、ガソリンタンクとお腹を満たすために、骨の折れる肉体労働に長時間労働している。賃金が上がらず、住宅費が高騰する今の時代に、家賃や住宅ローンのくびきから自由になることで食いつないでいる。彼らは、日々、やっとのことでアメリカを生きのびている。
賃金の上昇率と住居費の上昇率があまりに乖離(かいり)した結果、中流クラスの生活をしたいという夢をかなえるなんて逆立ちしても無理になってしまった人が、続々と増えている。
収入の半分以上を住居費に費やしているアメリカ人家庭の6世帯に1世帯は、待ったなしの状況にある。住居費を支払うと、食料品、医薬品、その他の生活必需品を買うお金がほとんど、あるいはまったく残らない定収入の家庭が少なくない。
キャンピングカーにないのはシャワーとトイレ。トイレはバケツで代用する。そのふたの上に食料品を置く。
アマゾンは、従来型の派遣社員を何千人も採用しているが、配送量が劇的に増える繁忙期、つまり3ヶ月から4か月間続くクリスマスセールの時期には、ノマドを追加投入する。
アリゾナ州では、2000人ほどのノマドを採用した。そして、繁忙期が終わると、用済みとなり、契約は切られる。
かつて年100万ドル以上の暮らしをしていた人が、今や週に75ドル(7500円ほど)で暮らす。中流層の労働者の半数近くは、定年退職のあとは、1日わずか5ドルの食費でやりくりすることになる。公的年金だけでは、あまりにぎりぎりで、やっと食いつなげるかどうかというレベル。これを「定年の消滅」と呼ぶ。
ところが強欲老人というイメージがつくりあげられた。現役世代の血税を飲み干しつつ、ゆたかなレジャーを楽しみながら老後を過ごす、老人病の吸血鬼。これは、ロナルド・レーガンの言った「福祉の女王」と同じもの。
車上生活を安全に過ごすには工夫と注意が必要。日中と夜間で、車の停泊場所は変える。日中は日常の行動がすべて問題なくできる場所を選ぶ。夜間の停泊場所には、暗くなってから移動する。そこは眠るだけの場所なので、朝になったら、すぐにまた移動する。
もう一つ大事なのはカモフラージュ。車は、いつもきれいにしておく。座席に洗濯物などを散らかしておかない。人の興味をひきそうな装飾はしない。ステッカーなんて貼らない。
そして、警官は、避けるに限る。
車上生活者の圧倒的多数は白人。白人であってさえ、アメリカでノマドでいるのは並大抵のことではない。黒人が車上生活するのは、危険すぎる。
アメリカでは、社内泊を禁止する都市が増えている。2011年から2014年まで37から81都市へ43%増えた。ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ワシントン、ホノルルなどで、警察が検挙している。
だけど、ノマド同士の連帯も生まれている。
立派な建物もお風呂もないセンターステージだってありゃしない。だけど、キャンプファイヤーで友情が生まれる。だれもかれも安っぽいつくりだけど同じ人は一人もいない。
現代アメリカの知られざる現実が紹介されています。著者は大学で教えてもいる女性ジャーナリストです。
(2021年5月刊。税込2640円)

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2021年7月29日

約束の地(上)

アメリカ


(霧山昴)
著者 バラク・オバマ 、 出版 集英社

アメリカで170万部も売れたというオバマ元大統領の回顧録です。
正直いってオバマ大統領誕生のニュースを聞いたときには私も少しばかり胸が熱くなりました。これでアメリカも、もう少しまともな国になってくれるのではないか...という期待からです。でもまあ、その後のオバマ大統領の行動をみると、プラハでの演説は素晴らしかったのですが、その後の行動が演説を裏切りました。また、オサマ・ビン・ラディンの強引な暗殺も許せません。アメリカなら、司法を無視して、しかも他国の主権を無視して容疑者を一方的に殺してしまえる。そんなはずはありません。大いに失望させられました。
でもでも、そのあとのトランプ大統領よりは、ましです。というか、トランプのひどさは言葉に言い表せません。だけど、トランプには少なくとも言葉がありました。わがスガ首相には、その言葉すらありません。アベもスガも、知性と教養がないことを売りにしているようです(その点、トランプそっくりです)。でも、政治家がコトバの力を信じなかったら、世の中は闇です。
序文で、オバマがこう書いています。
「私は今でも手で書くことを好んでいる。パソコンを使うと、ひどく乱雑な下書きがあまりに体裁よく見えてしまい、生煮えの構想まで整然と仕上がったように錯覚するからだ」
これには、まったく同感です。モノカキを自称する私は、まったくの手書き派です。パソコンに入力するのは有能な秘書の仕事です。そして、私が赤ペンを2度、3度と入れて完成稿を目ざすのです。この赤ペン入れは私のひそかな楽しみです。
オバマが10歳のとき、父親がケニアからハワイのホノルルまでやってきて、1ヶ月をともに過ごした。それが父親に会った最初で、最後。
10代のころのオバマは、信じられないことに、やる気の感じられない学生だった。バスケットボールには情熱を燃やしていたし、パーティーにはしょっちゅう行っていたが、学生自治会とは縁がなく、議員のインターンとして働いたこともない。
ただ、高校生のオバマは自分の肌の色、そして階級をめぐって疑問を抱いてもいた。そのことを誰に話すこともなく、オバマは本に逃げ込んだ。
読書は、幼いころに母に植えつけられた習慣だった。本が好きだったから、オバマは高校を無事に卒業できた。そして、1979年にカリフォルニア州のオクシデンタル大学に入学した。3年目にコロンビア大学に移った。このコロンビア大学での3年間、オバマは修道士のような日々を送った。ひたすら読み、書き、日記をつけ、学生のパーティーにはほとんど顔を出さず、温かい食事をとることもまれだった。ひたむきで、強情で、ユーモアのない毎日を送った。
1983年に大学を卒業し、シカゴでコミュニティ・オーガナイジングの活動を始めた。地域の課題解決に向けて、ごく普通の人々を連帯させていく草の根活動。ここで、オバマは、頭でっかちな自分から脱却できた。地域に入って、何度も拒絶され、侮辱されたので、拒絶され侮辱されるのを恐れることがなくなった。そして、ユーモアのセンスも取り戻した。
私は、この節を読んで、私が大学1年生のときから3年間ほどかかわったセツルメント活動を思い出しました。川崎市幸区古市場という、大企業から中小企業まで、そこで働く労働者の暮らす下町での若者サークルの一員として活動していました。侮辱されたことはありませんが、拒絶され、また、会社からアカ攻撃を受けていました。少しでも会社の意向に反する言動をしようものなら、「アカ」として排斥される社会的な仕組みがあることを体験したのです。でも、同時に、そこは楽しい場でした。ユーモアのセンスを取り戻すというのではありませんでしたが、心の安まる場であったことは確かです。今、そんな学生セツルメント活動が存在しないのが、残念でなりません。ネットで替えられるものではないのです。
オバマは、この経験を経て、ハーバード大学のロースクールに進んだのです。日本のロースクールの理想もそういうものでした。社会人の経験ある人が弁護士になることを容易にしようというものです。実際に、そういう人たちも少なからずいるわけですが、今では日本のロースクールは失敗だと言いたてる人の声が大きいのが、私としては残念でなりません。
オバマがミシェルに出会ったのは、シカゴの法律事務所でのこと。すでにミシェルは弁護士として働いていて、オバマは、そこへインターンとして通った。ミシェルは、ユーモアがあって、社交的で度量が広く、とてつもなく頭がよかった。なので、オバマは会った瞬間、魅了された。
オバマは政治家になり、ついには上院議員、そして、大統領選挙に挑戦します。勝ちすすむための具体的な心得は、メディアをもっと効果的に活動すること。自分の主張を短く、強い言葉にまとめて広めること。政策文書の作成にばかり時間を費やさず、有権者一人ひとりと直接つながる活動を展開すること、そして活動資金を、それも多額の資金を調達すること。費用のかさむテレビ広告を打って、認知度を上げることが条件だった。
オバマにある人が、こう言った。
「キミが機会を選ぶのではない。機会のほうがキミを選ぶのだ。キミにとって唯一となるかもしれないこの機会をキミ自身の手でつかむか、そうでなければ機会を逃したという思いを一生かかえて過ごすか、そのどちらかだ」
オバマは、まったく同じ話を、まったく同じ話し方で、1日に5回も6回も7回も話さなくてはいけなかった。
私にとって、これは耐えられないことです。1回話したことを、もう1回、同じように話せと言われたら断ります。それを6回も、7回も、だなんて、とんでもありません。政治家なんて、私にはまったく向いていません。
質問の半分は揚げ足とり。その罠にはまってはいけない。どんな質問をされても、まず何かひと言返し、いかにも答えたかのように思わせ、そのうえで、主張したいことを話したらいい。人は事実よりも感情で動く。なので、否定的な感情ではなく、肯定的な感情をかきたてる、演技をしながらも、やはり真実を語る必要がある。
上巻はオバマが大統領になるまでが大半を占めています。一気に舞台を駆けあがっていく様子はアメリカの民主主義の強さを実感させられます。
(2021年2月刊。税込2200円)

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2021年7月30日

中世は核家族だったのか

日本史(中世)


(霧山昴)
著者 西谷 正浩 、 出版 吉川弘文館

この本のタイトルになっている問いかけに対して、本書は繰り返し、そのとおりだと答え、立証につとめています。なるほど、中世の家族というのは、そうだったのか、それは農業生産力の発展段階に見合ったものなのか...、得心がいきました。
中世の村では、おそらく男子も女子も生家を出て新たに世帯を形成する慣習が存在し、核家族が支配的な家族形態だった。
一般に男子は15歳、女子は12歳から14歳で成人した。男女ともに、人は結婚して所帯をもって、はじめて真の一人前とみなされた。男子の適齢期は16歳から25歳で、20歳にピークがあり、女子の適齢期は14歳から20歳で、17、8歳がピークだった。当時の若者には、親元からの速い巣立ちと結婚をうながす強力な社会的圧力が働いており、早婚社会だった。中世の民衆社会は、夫婦関係に依存して生きていくほかない社会であり、独身のままでいることには大きな困難をともなった。
親と成人した子どもは、それぞれ独立して財産を所有し、農業経営も核家族単位でおこなうというのが、当時の常識的な考え方だった。
配偶者の死亡率は高く、若い寡婦は再婚するのが普通だった。
中世民衆の家族構造は、単婚の核家族で、分割相続を基本とした。
中世においては、階層をこえて親子二世代夫婦不動居の原則が根強く存在していた。中世社会は、その原点において、夫婦一代ごとの家族形成を原則とする核家族社会だった。
支配者層は米を常食としたが、中世・近世の庶民の主食は麦だった。米の価格は、麦の3倍もした。庶民が米を食べるのは、正月・盆など年に26日あるハレの日だけ。
お米はベトナム南部(占城、チャンパ)から渡来してきた大唐米(だいとうまい)。風害に弱く、味も悪かったが、虫害・干害に強く、価格が低かった。
中世には、農業は男の仕事で、女は衣料の生産に従事していた。木綿は江戸時代から庶民の日常衣料となったが、中世は「苧麻」(からむし)の時代だった。女性は、この苧麻から衣料をつくるのに時間をとられた。近世になって、衣料が商品化したことで、女性は衣料生産労働から解放され、女性も農作業に本格的に参加できる(する)ようになった。百姓の妻女が紡(つむ)いだ衣料は、百姓自身の日用品であるとともに、一家の大事な収入源でもあった。
古代の百姓(はくせい、ひゃくせい)は、一般人民(公民)を表した。中世になると「ひゃくしょう」と読み、一般庶民や荘園の年貢の負担者を指した。必ずしも農民ではない。
日本の農業は規模が小さく、中世前期の農業は、「中農の時代」だった。
中世社会では「百姓の習(なら)ひは、一味(いちみ)なり」と言われるが、日常的に団結していたのではない。むしろ、利害関係が錯綜しているなかで、矛盾や対立を抱えた者たちが共通する強敵を前にして、他の問題を当面棚上げして臨時的に結成したのが中世の一揆だった。
古代村落の大半は9世紀から10世紀にかけて消滅していて、中世にはつながっていない。中世の村の多くは、地域開発にともなって、11世紀以降に誕生した。
中世の村と人々についてのイメージを大きく変える感のある力作です。
(2021年6月刊。税込1870円)

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2021年7月31日

カランヂル駅

ブラジル


(霧山昴)
著者 ドラウジオ・ヴァレーラ、 出版 春風社

タイトルに駅とついていますが、刑務所の話です。
1992年10月2日、ブラジルはサンパウロカランヂル刑務所で、収容者111人が軍警察によって虐殺された。この事件は、私もうっすらとした記憶があります。
著者は、この刑務所に志願して医師として働いていました。刑務所における収容者たちの素顔をそのまま紹介しています。私はみていませんが、映画にもなっている(2003年。日本は未公開)とのこと。機会があれば、ぜひみてみたいです。
7000人もの収容者をかかえる刑務所でしたが、今は存在しません(2002年に閉鎖)。
刑務所には、さまざまな掟があり、収容者による自治が「確立」していて、刑務所当局も、この「自治」を尊重しながら、毎日、なんとか運営していた。圧倒的に少ない職員で、刑務所を平穏に運営するには、「自治」に頼るしかないのでしょうね...。
この刑務所では、紙に書かれていない刑法によって、厳格に統制されている。
借金を返す。仲間を売らない。他人の客は尊重する。身近な男の女には手を出さない。連帯と相互の利他主義を実践する。これらのことが囚われた男たちに尊厳を付与する。求められた礼を欠いたときには、社会的な軽蔑、肉体的罰、ときには死刑によって罰せられる。
「犯罪者の世界では、約束の言葉は軍より力を持つ」
掟を破ったものは「死刑」にもなる。この処刑は大勢が関わる、公然としたものなので、まさしく秩序維持の一環だった。そして、刑務所の房(部屋)も所有者がいて、有料で賃貸されていた。刑務所内では、すべてがお金で動く。基本通貨はタバコ。
刑務所の外から女性が訪問して、部屋でセックスできる。これは誰も邪魔することは許されない。他人の女性に手を出すことは厳禁。違反した罰は厳しい制裁。
まあ、それにしても刑務所内で医師として長く働いた(働けた)というのは、著者の人徳なのでしょう。
この刑務所には、いくつかの5階建ての棟があり、棟のなかの房(部屋)は朝に開錠され、夕方に施錠される。日中は収容者は自由に敷地内と通路を移動できる。他の棟へいくには通行証がいる。
房ごとに所有者がいて、市場価格がある。一番安いのは150から200レアル(5棟)。もっとも高いのは2000レアル(8棟)。上等なタイルが使われ、ダブルベッドと鏡がついている。
デンプンと脂肪だけはふんだんな食事のため、収容所は運動不足もあって、肥満になる。
房で盗みに入って見つかると、「牢屋のネズミ」のレッテルを貼られ、お尻をナイフで切り刻まれる。
この刑務所の収容者の17%がHIVに感染した。コカインの静脈注射によるものと、トラヴェステ(同性愛者)の8割近くが感染した。
清掃班がいて、所内を統制している。だから所内は清潔だ。
刑務所内の秩序は清掃班によって維持される。そのリーダー(統括)は、腕っぷしが強いわけではない。むしろ、寡黙で、非常に良識を備えている。争いを仲裁し、みんなを統率する能力を有していたことから選ばれる。ここでは、リーダーは、正しい声を聴き分け、仲間と話し合いができ、力を持つために団結させることができる人間がなる。
看守には、収容者をまとめるキーパーソンと連携できる能力が、刑務所の平穏と自分の身の安全のために欠かせない。看守の仕事の本質は、権謀術数を用いて、「悪党」どもを分裂させて統治することにある。
刑務所では、レイプ魔は忌み嫌われ、憎しみの対象となり、それが判明したら、生きていくのは難しい。
仲間を売るより、他人の罪をかぶるほうがいい。無実の罪を着せられたときには、真犯人が、その恩に報いるために、骨折ってくれる。刑務所にいる収容者には冤罪だらけだ。
いやあ、ブラジルの刑務所の驚くべき実態を実に詳細に知ることができました。でも、人間って、どこでも同じなんだな...、とも思いました。350頁の本を一気読みしました。一読の価値ある本です。
(2021年3月刊。税込3960円)

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