弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年2月 4日

「非国民な女たち」

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 飯田 未希 、 出版 中央公論新社

女性の美に対するあこがれの強さに改めて驚嘆させられました。なにしろ空襲下でもパーマネントを離さなかったというのです。
「ぜいたくは敵」
「パーマネントはやめませう」
という世の中でも、戦前の日本女性は上から下まで(上流階級だけでなく)、パーマネントをかけようと、徹夜してでも、早朝からパーマネントをかけるべく行列をつくっていたり、木炭パーマネントにつかう木炭なら、食事づくりの木炭をまわしてでも、ともかくパーマネントを優先させていたというのです。
「石を投げられてもパーマをかけたい」
「非国民」とののしるほうがおかしいと、日本の女性は開き直っていたのでした。
いやはや、「常識」ほどあてにならないものはありません。戦前の日本女性はパーマをかけず、黙ってモンペをはいて、防災訓練と称するバケツリレーをしていただなんてイメージがありますが、とんでもありません。
戦前、洋裁に憧れて地方から上京してきた女子学生たちは、まずパーマネントをかけるのが「慣例」だった。それは学校側が止めてもきかなかった。
戦火が激しくなった1940年を過ぎても、パーマネントをかける女性が減るどころか増えていた。
それは工場でも同じこと。女工たちはパーマネントをかけ、スカートの美しさに気を使っていた。モンペの着用は広がらなかった。
1943年の大日本婦人大会で「パーマネント絶対禁止」が決議されているが、それだけパーマネントは流行していたということ。実際、パーマネント機を10台以上も設置した大規模美容院があり、店の前には順番待ちの女性の行列があった。
パーマネント機を設置する美容店は、1939年に800店で1300台のパーマネント機があったが、1943年には1500店で3000台になった。
パーマネント機が国産機として普及するようになって、35円だった代金が10円から15円になった。それでも、高額ではあった。国産パーマネント機は製造しても、すぐに売り切れるほど需要があった。
日本一の美容院チェーンだった丸善美容院は、1937年ころ、全国に35店舗、6百数十人の従業員を擁していた。大阪の本店には、1940年に1日の総売上高1万円をこえるのも珍しくなかった。1人7円なので、1日1400人以上が来店していたことになる。
上流層の女性はパーマネントをかけるのは「当然」のことだった。陸軍省で働く女性たちにもパーマネントが流行っていた。
パーマネントは日本製がトレードマークの芸者たちのあいだにも広がっていた。
木炭パーマ。戦争が激しくなってきて、電気を使えなくなり、パーマは炭火ですることになった。客がもってくる木炭がなければ木炭パーマはかけられない。そして、主婦が配給の炭を節約してでも自分のためにパーマネント用の木炭を店にもってきた。
いやあ、さすが日本の女性だと、すっかり見直しました。大和撫子は、政府の言うとおりに踊らされてばかりではなかったのです...。
ついつい目を見開いてしまう驚きに満ちあふれた本でした。
(2020年11月刊。1700円+税)

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