弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2021年1月21日

「人新世の『資本論』」

社会


(霧山昴)
著者 斎藤 幸平 、 出版 集英社新書

まだ33歳という若さの哲学者です。ドイツの大学で哲学を学び、権威ある「ドイッチャー記念賞」を歴代最年少で受賞したというのですから、タダモノではありません。
「人新世」(ひとしんせい)とは、聞きなれないコトバです。人間の活動の痕跡が、地球の表面を覆い尽くした世代という意味。つまり、人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、地質学的にみて、地球は新たな年代に突入したことを意味している。ノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンが名付けた。
マルクスの『資本論』を参照しながら論述されていくのも珍しいところです。
地球の気候変動には、日本人も大きな責任がある。日本は、二酸化炭素(CO2)の排出量が世界で5番目に多いから。日本を含む排出量上位5ヶ国だけで、世界全体の60%の二酸化炭素を排出している。
「人災」に、私たち日本人は間違いなく加担している。このことに私たち日本人は自覚していないように思われます。コロナ禍でも生活習慣を変えようとしないのは、いいことだとほめられるものでは決してありません。
資本主義は、現在の株主や経営者の意見を反映させるが、今はまだ存在しない将来の世代の声を無視することで、負担を未来に転換する。つまり、将来を犠牲にして、現在の世代は繁栄できる。そして、その代償として、将来世代は自らが排出していない二酸化炭素の影響に苦しむことになる。
こうした資本家の態度について、マルクスは「大洪水よ、私が亡き後に来たれ」と皮肉った。今だけ、自分だけ良ければ子孫がどうなろうと知ったこっちゃない。これがいまの自民・公明政権ですよね。ひどいです。
チリはアボカドを生産している。輸出用。「森のバター」と呼ばれるアボカドの栽培には、多量の水を必要とする。そして、土壌の養分を食い尽くすため、一度アボカドを生産すると、ほかの種類の果物などの栽培は困難になってしまう。つまり、チリは自分たちの生活用水や食料生産を犠牲にして海外への輸出向けにアボカドを栽培している。
裕福な生活様式によって二酸化炭素を多く排出しているのは、先進国の富裕層だ。下から50%の人々は、全体のわずか10%しか二酸化炭素を排出していない。私たち自身が、当事者として、帝国的生活様式を根本的に変えなければ、気候危機に立ち向かうことは不可能だ。
グローバルな公正さという観点でいえば、資本主義はまったく機能しない。役立たずな代物である。今のところ私たち日本人の生活は安泰に見える。だが、この先、このままの生活を続けたら、グローバルな環境危機はさらに悪化するだろう。そのとき、トップ1%の超富裕層にしか今のような生活は保障されないのだから...。現在の「にせの資本主義」こそが、実は資本主義の真の姿なのだ。うむむ、そうなんですよね、やっぱり...。
脱成長の主要目的は、GDPを減らすことではない。また、石炭火力発電所を建設しているなら、「脱成長」ではない。経済成長していなくても、経済格差が拡大しているなら、「脱成長」でもない。
マルクスにとっての「コミュニズム」とは、ソ連のような一党独裁と国営化の体制を指すものではなかった。マルクスにとっての「コミュニズム」とは、生産者たちが生産手段を「コモン」として、共同で管理・運営する社会のことだった。
うひゃあ、そうだとするとイメージがまるで違ってきますよね...。
マルクスは大きく誤解されている。この誤解を解かなければいけない。資本主義がもたらす近代化が最終的には人類の解放をもたらすと楽観的にマルクスは楽観的に考えていた。マルクスは、資本と環境の関係を深く鋭く分析していた。そして、マルクスは脱成長へ向かっていた。
拡張を続ける経済活動が地球環境を破壊しつくそうとしている今、私たち自身の手で資本主義を止めなければ、人類の歴史が終わりを迎える。資本主義ではない社会システムを求めることが、気候危機の時代には重要なコミュニズムこそが、「人新世」の時代に選択すべき未来なのだ。コミュニズムといっても。さまざまなものがある、晩年のマルクスの到達点と同じように、脱成長型のコミュニズムを目ざす。
加速主義は、世界の貧困を救うため、さらなる成長を求め、そのため、化石燃料などをほかのエネルギー源で代替することを目ざす。だけど、皮肉にも、その結果、地球からの掠奪を強化し、より深刻な生態学的帝国主義を招くことになってしまう。
原子力を民主的に管理するのは無理。
気候危機は真にグローバルな危機閉鎖的な技術を乗りこえて、GAFAのような大企業に支配されないような別の道、解放的技術が必要だ。
95%の私たちにとって、資本主義が発達すればするほど、私たちは貧しくなるのではないか...。ピケティと晩期マルクスの立場は、かつてないほどに近づいている。
深夜のコンビニやファミレスをすべて開けておく必要はどこにもない。年中無休もやめればいい。必要のないものを作るのをやめれば、社会全体の総労働時間は大幅に削減できる。
画一的な分業はやめる。利益よりも、やりがいや助け合いを優先させる。
いま高給マーケティング、広告、コンサルティングそして金融業や保険業などは、重要そうに見えても、実は社会の再生産そのものには、ほとんど役に立っていない。「使用価値」をほとんど生み出さないような労働が高給のため、そちらに人が集まっている現状がある。その反対に、社会の再生産にとって必須なエッセンシャルワークが低賃金で恒常的な人手不足になっている。このエッセンシャルワークがきちんと評価される社会へ移行すべきだ。
まったく同感です。このことは、コロナ禍のもとで、ますます明らかになります。とても大切な問題提起がなされています。ぜひ、あなたもご一読ください。
(2020年11月刊。1020円+税)

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