弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年12月 5日

神々は真っ先に逃げ帰った

日本史(戦後)


(霧山昴)
著者 アンドリュー・バーシェイ 、 出版 人文書院

日本の敗戦時、満州にいた日本軍のうちソ連軍の捕虜となったのは61万人、文民で捕縛された抑留者は7千人だった。
敗戦直後、朝鮮にあった挑戦神宮の宮司たちは、御神体を直ちに東京へ空輸した。
8月16日(もちろん1945年)、朝香宮(鳩彦王)、閑院宮(春仁王)、竹田宮(恒徳王)の3人は東久邇宮(稔彦王)とともに皇居内に呼び出された。そして、閑院宮は南太平洋に、朝香宮は中国に、竹田宮は満州に出向き、天皇の「聖旨」を伝え、武装解除に応じるよう説得に行くことになった。
竹田宮は家族を新京に残していたので、8月10日、家族を東京に呼び戻していた。竹田宮はシベリア抑留を紙一重の差で免れた。
ソ連が参戦したとき、関東軍の大半は通信遮断によって戦闘に入らないか、入っても遅すぎた。ソ連軍は、155万人の地上軍、戦車5千両、航空機5千機で侵入してきた。ソ連軍が攻撃を開始して1週間のうちに日本軍5千人が死に、終了までに4万8千人が亡くなった。
関東軍は、「根こそぎ動員」によって、「中抜け」であり、大多数は古兵としての10代、30代そして40代から成る25万人だった。人員の穴埋めでしかなかった。
戦争終結時、ソ連は400万人の捕虜をとった。ドイツ兵200万人、日本兵60万人、ハンガリー兵60万人...。すなわち、ソ連の人口の7分の1にあたる2300万人が戦争で亡くなっていた。それを穴埋めした。
元日本兵の日本送還は1946年5千人、1947年2万人、1948年17万人、1949年8万人、1950年7500人だった。
著者はアメリカの大学教授であり、画家の香月泰男、評論家の高杉一郎、詩人の石原吉郎という3人のシベリア抑留体験者を論じながら、シベリア抑留とは何だったのかを論じています。
(2020年5月刊。3800円+税)

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