弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2020年11月22日
アウシュビッツ潜入記
ドイツ・ポーランド
(霧山昴)
著者 ヴィトルト・ピレツキ 、 出版 みすず書房
アウシュヴィッツ絶滅収容所に潜入したポーランド人将校の手記です。潜入した主な目的は二つ。収容所の実態を外に伝えること、そして収容所仲間を組織して武装蜂起に備えること。この将校はアウシュヴィッツ収容所内で大量殺人の過程を目撃し、自らもチフスにかかって生死をさまよいながらも3年近く収容所にいて、ついに脱出に成功したのでした。
いやはや、その使命感の強さと、身体の頑健さ、タフさには驚嘆するばかりです。そして、収容所内に少しずつ増やしていき、5人組を次々につくりあげていくのでした。
ポーランド人たちが、みな座して死を待つという人々ではなかったことがよく分かりました。たたかう人々が次々にあらわれるのです。さらに、内部抗争をやめさせる努力もしました。今は、それどころではない情勢だと訴えたのです。
ピレツキの組織には、三つの主たる目標があった。一つは、外部からのニュースと支援物質をメンバーに配布して士気を高める。二つは、収容所に関する報告を外部に送る。三つは、武装蜂起を準備する。
アウシュビッツで「シャバでの仕事は何だ?」と訊かれて、聖職者、判事、法律家と答えると、殴り殺されることを意味した。ナチスは故意に専門職の人間を殺そうとした。収容所では、弁護士だからといって威張れることなどなかった。ここでは、そんなことは何の意味ももたない。
アウシュビッツの収容者は、夜寝ているときに、足の裏を見せてきれいにしているかどうか点検された。
収容所では、欲望を制御しなければならなかった。水分の取りすぎは腎臓(じんぞう)や心臓の機能を低下させる。
欲望を克服できない者、タバコほしさにパンと交換した者は、事実上、「自分の墓を握っている」ようなものだった。彼らは一人残らず死んでいった。
収容者が自殺すべく「鉄条網に向かう」のは、たいていが朝。
SSの隊員は、収容所内では、殺人者であり、拷問吏だった。そして、収容所の外にある自宅では、人間のふりをしていた。どちらに真実はあるのか...?
収容所では、一日が終わりのない悪夢のように、ゆっくりと過ぎるのが奇妙だった。作業で疲れ果てても仕事をやり終えなくてはならないときには、1時間が1年のように感じられることもあった。ところが、1週間がまたたくまに過ぎることもあった。
がんばれたのは、楽観主義のおかげ。現実は、あまりに無慈悲だった。
収容所では、お腹をこわさないことがきわめて重要だ。収容所内の病院に入院して戻ってくる人はほぼ皆無でたいていは焼却場の煙と化した。
体力のムダづかいは避けなければならなかった。
収容所で、何かを成し遂げるためには、なんとか殺されないように身を守る必要があった。
収容者のなかには生きたいと願わない者がいた。彼らはたたかおうとしなかった。あきらめた者は遠からず死んでいった。
収容所は巨大な製粉所のようなもので、生きた人間を灰に変えていった。
ピレツキの組織は飛躍的に成長していった。しかし、収容所の殺人機械は運転速度を上げていた。
収容所で生きていく唯一の方法は、友情を結んで協力しながら作業すること。互いに助けあうことだった。しかし、多くの収容者は、それを理解していなかった。
ピレツキの組織は、脱走には明確に反対していた。
勇敢に死と向きあっていた者は、通常、死の選別に選ばれなかった。
リーダーに必要なのは、ふだんは口をつぐんでいるが、いざとなればほかの者たちを鼓舞して動かせる人物、そして明らかに勇敢で、周囲がすすんでついていこうと思える人物。いざというときに、なんかの肩書に頼って周囲の人間をひっぱっていこうとするタイプではダメ。そんな肩書は、誰も知らないからだ。リーダーとなる人物には勇敢さだけでなく、抜きん出た内面の強さと、臨機応変の才も欠かせない。
ピレツキの組織は、自前の送信機を入手して、SS隊員の目の逃れる場所に設置した。ええっ、すごいですね...。そして、入所者数、死者数、収容者の状態を放送した。放送は不定期で、時間帯もさまざまだったので、収容所は容易に発見できなかった。それで、外の自由世界から、医薬品やチフスの予防注射を受けとった。
ピレツキの組織は、SS隊員もチフスに感染するよう、シラミをSS隊員服にもぐりこませていった。SSの被害は甚大だった。
アウシュヴィッツの収容者4人が、所長の最高級車に乗り、SSの制服を着て正門から脱走するのに成功した。これって映画にもなりましたっけ...。
ピレツキが仲間2人とついに脱走したのは、外部から武装蜂起の指令がなかったこと、いよいよ自分の身があぶないと思ったからのようです。1943年4月のことです。この年の1月にスターリングラードでドイツ軍が降伏し、4月には山本五十六元帥が戦死しています。ノルマンディー上陸作戦は翌44年6月のことです。
ところで、ドイツ軍の敗戦後、ピレツキはソ連軍の圧制とも戦ったため、ポーランド政府からスパイとされ、1048年5月に処刑されています。今は完全に名誉回復していますが、ポーランドがソ連の衛星国であった期間は、ピレツキの英雄的行為は評価されていなかったとのことです。勇気ある人の手記を読みながら、ついつい深く考えこまされました。
(2020年10月刊。4500円+税)