弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年11月13日

日清戦争論

日本史(明治)


(霧山昴)
著者 原田 敬一 、 出版 本の泉社

日本の戦前を司馬遼太郎の史観で語ることを厳しくいさめる学者の本です。
1894年6月に、朝鮮への出兵が閣議決定されると、日本各地で義勇軍を派遣する動きが起きた。旧士族層を中心とし、国権派そして民権派まで加わった。
ええっ、そんな動きがあっただなんて...、ちっとも知りませんでした。
そして、義勇軍運動が中止に追い込まれたあとは、軍夫志願となった。岩手県では、兵士も軍夫も区別せず同じ扱いで送り出した。
日清戦争を契機として、日本国民の思想状況は大きく変化した。戦争の大義名分は、福沢諭吉が「文明と野蛮の戦争」と設定し、「宣戦の詔勅」も、「文明戦争」の枠で国民を説得した。そして、挙国一致が実態化していった。戦争こそが日本国民を創った。
日清戦争は4種類の戦争の複合戦争である。一つは、朝鮮王宮の景福宮における朝鮮軍との戦闘、狭義の日清戦争、東学党の旗の下に結集した朝鮮民衆との戦争、そして、台湾征服戦争。このとき、日本は、軍事的勝利、外交的敗北、そして民衆的敗北をした。
日清戦争に参加した軍隊と軍夫は合計して40万人。そのあとの日露戦争のときには100万人。対外戦争の勝利という見せかけに日本国民は酔っていた。
日清戦争のとき、日本の敵は清(中国)だけでなく、朝鮮国もあげられていた。
日清戦争の直前に朝鮮との戦争があり(7月23日戦争)、それにより日本は朝鮮政府の依頼(書面はない)によって清国軍を駆逐するという大義名分を得たと陸奥宋光外務大臣は発表した。
日清戦争により、日本は軍夫7000人をふくむ2万人の、清(中国)は2万4000人の、朝鮮は3~5万人の戦没者を出した。
勝海舟は、このころ枢密顧問官だったが、日清戦争の開戦後、この戦争には大義名分がないとする漢詩をつくった。つまり、日本政府の指導層にも、伊藤首相らのすすめる日清戦争を批判する人たちがいた。
日清戦争で派兵された軍隊は17万4017人、これに対して限りなく軍隊に近い軍夫は15万3974人。あわせて32万8000人。清国軍は、35万人なので、ほぼ匹敵していた。
日清戦争の実態に一歩踏み込もうという意欲の感じられる本でした。
(2020年4月刊。2500円+税)

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