弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年11月 6日

文革下の北京大学歴史学部

中国


(霧山昴)
著者 郝 斌 、 出版 風響社

1966年の春、中国で突如として文化大革命なるものが始まりました。私が東京で大学生になる1年前のことですから、まだ福岡の田舎の高校生でした。
初めのころは、文化面での批判と自己批判くらいに思っていたのですが、そのうち指導層のなかの激烈な主導権争いだということが分かりました。旧来の支配的幹部が次々に失脚していくだけでなく、激しい糾弾の対象となりましたが、あわせて知識人も主要な攻撃対象でした。
中国で北京大学と言えば、日本の東大以上の存在感がある大学だと思いますが、その歴史学部の助教授だった著者も糾弾されて、牛棚(牛小屋)に3年あまり監禁されたのでした。文化大革命の終結したあとは再び北京大学につとめ、副学長になっています。
1966年6月2日付の「人民日報」の一面トップは北京大学哲学部の聶元梓(じょうげんし)による大家報を紹介した。北京大学の陸軍・学長などを名指しで批判したのだ。
文化大革命の期間中に全国で摘発された人は100万人をこえ、「牛鬼蛇神」と呼ばれた。北京大学・清華大学の大学関係者のみ「黒幫」とよばれた。北京大学歴史学部に在籍する教職員100人のうち、批判され摘発されたのは3分の1をこえた。
学生たちは教師の頭髪を刈って「陰陽頭」にした。右半分は根っこから刈られ、左半分もバラバラの状態にされた。
学生たちの行動は、一個人によってなされたものではなく、その背後には幾千の学生たち、ひいては幾千万もの同世代の青少年が立っていた。
社会がここまで乱れた以上、国家の正常な状態はもはや期待のしようもなかった。社会に「疫病」がはやり、青少年層は全体として感染し、「狂熱的暴力集団性症候群」になった。
群集が理性を失い、感情的なイデオロギーにマインドコントロールされてしまったときには、どんなに荒唐無稽な行動でも起こすことがありうる。これは古今東西において例外はない。
清末の義和団も、その一例。義和団に入った群衆たちは、口で呪文を唱え終わると、自分の体に、「刀では切れないし、鉄砲の弾も通らない」不思議な力がついたと本心から信じ、目前にある西洋の鉄砲にも恐れず立ち向かっていった。
「牛棚」(牛小屋)のなかでは、甘言を弄したり、人の危急につけ込むようなことがさまざまな局面で起きていたが、その反面、善なる人間性の美しい部分も、こうした環境のなかでも粘り強く生きていた。
1968年春、北京大学の校内で武力闘争が起きた。
東大闘争が始まった(全学化した)のは1968年6月からですが、ゲバルト闘争は10月ころからひどくなりました。それでも、北京大学の武力闘争に比べると、まるで子どものチャンバラゴッコのレベルでした。
北京大学では巧妙な教授たちの自死が相次いでいますが、日本ではそんなことはまったく起きていません。
毛沢東による奪権闘争とその軍事的衝突の激しさは、日本人の私たちからは想像を絶するものがあります。中国の状況が複雑かつ混迷をきわめたのには、次のような違いもありました。
当時、北京大学には上層部幹部の子女が多く通っていて、その両親の大半は文革中に打倒された。しかし、青春まっ盛りの世間知らずの若者たちは、父母が打倒されても、それは自分とはまったく無関係であり、父母に問題があっても、それは父母のことであるから、自分は変わらず革命の道を進む。なので、やるべきことはやり、言うべきことは言うとしていた。地主・官農・資本家の子女を糾弾することがあっても、それは革命幹部の子どもである自分たちにはあてはまらないと信じていた。しかし、それが見事にひっくり返されてしまった...。
著者が名誉回復したのは1978年のことですから12年間も苦しめられていたわけです。
毛沢東の権力欲のおかげで中国の人々は大変な苦難を押しつけられたことになります。
読みすすめるのが辛い回想記でした。
(2020年3月刊。3000円+税)

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