弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年3月22日

古墳時代に魅せられて

日本史(古代)


(霧山昴)
著者 都出 比呂志 、 出版  大阪大学出版会

三角縁(さんかくぶち)神獣鏡が日本で大きな話題となるのは、これが邪馬台国論争の重要資料だから。邪馬台国は九州にあったと考えている人は関西でも多い(6割)。ただ、これは、弱者(判官)びいきのせいかもしれない。私は、もちろん九州説です。日本の文明は九州に始まったと頭から信じているのです...。
土井ヶ浜で発掘された弥生人の骨格をみて、金関丈夫先生は、この長身の人々は朝鮮半島から新しい長身の渡来人がやってきたと説明した。今では、だいたいその説で落ち着いている。
現代日本人の血液型を調べると、A型が西に多く、東に少ないことが判明している。西高東低の配置だ。
新モンゴロイドの特徴は、胴長短足、顔は扁平で、デコボコが少ない。目はくりくりと丸いものではなく、細長い。これが現代日本人の平均的な姿。これは、2万年前のもっとも寒冷な氷河期を生きのびた東北アジア人のなかで形成されたと考えられる。私も新モンゴロイドなのかな...。
雄略大王は、中国の南宋に使いを派遣し、それまでと違って王一人だけの将軍の称号を受けとった。そして官僚制度を取り入れ、中央政権が指揮する軍事制をすすめ、各地の有力首長連合体制を解体させて、中央権力を強化し、国家形成を大きくすすめた。
6世紀の継体大王の時代に使われた土器には、朝鮮系のものが多く含まれている。
馬を飼っていたのは日本ではなく、朝鮮半島だった。日本には渡来系の人々が移住して始まった。文化的に高い渡来系集団が政治的に力をもち、継体大王を支える勢力になる盟主墳を築くようになった。
前方後円墳がもっとも巨大となったのは5世紀。
6世紀に入ると、前方後円墳の性格は大きく変貌する。6世紀になると、畿内では、さらに前方後円墳そのものが急速に減少していく。しかし、関東では逆に増加した。
古墳時代の中央政府は、地方の有力首長連合に支えられていた。しかし、中央政府は着々と力を蓄え、5世紀後半の雄略大王は地方の最大勢力である吉備や毛野を打ち負かし、管制、軍制、前方後円墳の祭祀イデオロギー定着で飛躍した。
ところが、雄略大王のあと、中央政権は磐井(いわい)の大きな反逆を受け、磐井を鎮圧したにもかかわらず、その後継者である息子は赦免するほかなかった。そのうえ、反逆者である磐井の墓(八女市)は九州最大の規模に築かれた。これは、中央権力は地方有力首長連合体の力を無視できなかったことを示している。
5世紀の倭の大王権力が朝鮮半島に執着していたのは、鉄資源を確保するためと考えられる。
6世紀も後半になると、岡山や京都北部で鉄を生産していたが、5世紀までは朝鮮半島に頼っていた。
急流の河川をもつ日本の稲作は、水を管理する非常に高度な灌漑技術が必要で、首長は高度な土木技術を身につけ、住民を組織して日本の河川を制御し、生産量を大きく伸ばした。その経験が首長のなかに受け継がれており、農民と固く結びついて共同体を支配する主張たちの力は大きく、中央の大王の力は相対的に低くなるので、前方後円墳体制につながった。
古墳時代をもっと知るには天皇陵とされている古墳を学術的に掘って解明していく必要があると思います。改めて勉強になった本でした。
(2018年12月刊。1700円+税)

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