弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年2月15日

ウィーンびいきのウィーン暮らし

オーストリア


(霧山昴)
著者 服部 豊子 、 出版  ブロンズ新社

私もウィーンには一度だけ行ったことがあります。いかにも古都らしいたたずまいの町で、音楽好きの人なら、ぜひ一度は行ってみたいと思うところだと実感しました。
ウィーンは、古代ローマ人が1世紀の初めから500年間も支配した。その後は、東方の騎馬民族アヴァ―ル人やハンガリーのマジャール人に占領されたり、フランケン王国に属したりしたあと、10世紀から13世紀までパーペンベルグ王朝が治めた。10世紀末にオーストリアの名で国家が成した。その後は大帝国となったものの、第二次大戦後の1918年にハプスブルグ王朝が終了すると、オーストリアは小国となり、第二次大戦中はナチスの支配下に組み込まれた。
ウィーンは、周辺の数多い国々から人々が集まって来て成り立った町なので、さまざまな個性がその個性を保ちながら融合し、ウィーン気質をつくっていった。
昔、ウィーンでは、料理人はチェコ人、馭者(ぎょしゃ)はハンガリー人、土木労働者はイタリア人と言われていた。19世紀末のウィーンの10人に1人はユダヤ人だった。
多くのウィーン人は音楽や演劇をたいそう好む。
ウィーンではオペラ舞踏会のほかに舞踏会がたくさんあるので、ウィーンはダンスが上手で、まさに「ウィーンは踊る」だ。
モーツァルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウス・・・、みなウィーンで活躍した。
ベートヴェンもシューベルトもウィーンの中央墓地に眠っている。
オーストリアでは白ワインが90%を占めている。軽く新鮮な香りが特徴で、わずかに酸味のある辛口。
ウィーンのシェーンブルン宮殿は1805年と1809年にナポレオンに占領された。この本には、いまいましくも・・・と書かれている。このシェーンブルン宮殿はマリア・テレジアの好みで、特徴ある褐色がかった黄色に塗られている。
ヨハン・シュトラウスは親子二代にわたって19世紀の100年間、音楽(ワルツ)をかなでた。このワルツ熱は、保守反動の官僚制を固守していたメッテルニッヒにとって、人々の政治に対する関心をそらすために好都合なものであった。
なーるほど、そういう面もあるのですね・・・。
父シュトラウスは、ラデツキー将軍とその兵士にささげた「ラデツキー行進曲」を作曲し、息子シュトラウスは、1848年の三月革命のとき勇敢に戦う革命軍に感激して「革命マーチ」を作曲した。
ベートヴェンはナポレオンを尊敬していたので、「第三番」「英雄」を捧げた。しかし、ナポレオンが皇帝になったことを知ると、痛く失望し、楽譜の表紙に書いていたナポレオンの名を強く擦り消したために、紙に穴が開いてしまった。
19世紀の目ざましい経済発展を担ったことで富を得たユダヤ人たちは、法を尊重し、道徳的かつ知的で、貴族文化をよく吸収していた。合理的な文化社会を築くことによって、社会は民主的秩序が整えられていくものと考えていた。しかし、底辺の層は資本主義経済を握っていたユダヤ人に対する嫉妬や反感から、反ユダヤ的キリスト教社会主義などが広まっていった。反ユダヤ的、汎ドイツ主義が出現していったのだ。
このあたりが、日本人にはもうひとつぴんとこないところです。
香り高い文化と音楽の町・ウィーンを堪能できる本でした。人間ドッグでこもったホテルで読んだ本です。
(2003年7月刊。2000円+税)

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