弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2020年1月 1日

菅原道真

日本史(平安時代)


(霧山昴)
著者 滝川 幸司 、 出版  中公新書

太宰府天満宮と言えば菅原道真ですよね。近くに国立博物館がありますので、たまに行きます。その菅原道真とは、いったいいかなる人物だったのか、この本を読んで、ようやく少し素顔(実像)をつかむことができました。
菅原氏は、もとは土師(はじ)氏。土師氏は、葬送で天皇家に仕えた氏族。ところが、勢いを失いつつあったので、改氏姓を願い出た。
道真は33歳で文章博士(もんじょうはかせ)に任じられた。文章博士は、大学寮紀伝道で中国の文学・歴史を教授する官職。33歳は若い任官だった。
道真は式部少輔と文章博士を兼任し、儒家を領導する立場となったが、それは誹謗中傷嫉妬を招いた。
42歳のとき、道真は文章博士、式部少輔、加賀権守(ごんのかみ)を解かれ、讃岐守(さぬきのかみ)に任じられた。道真にとっては不本意な任官だった。しかし、紀伝道出身者は地方官として治績をあげることが期待されていた。
そして、4年たって、念願の都へ戻った。890年(寛平2年)のこと。
891年、道真は蔵人頭(くろうどのとう)に任じられた。蔵人頭は天皇の側近ともいうべき存在だ。宇多天皇は道真に期待していた。さらに、式部少輔に再任され、次いで佐中弁(さちゅうべん)を兼任した。佐中弁は、太政官行政の事務部局で、きわめて重要であり多忙な職である。
道真は蔵人頭について辞表を出したが、受理されなかった。
892年(寛平4年)、道真は従四位下に叙された。翌年、道真は参議に任じられた。道真、49歳。蔵人頭・左京大夫からは離れ、参議に任じられ、公卿の地位に至り、太政官の議政に参加する地位に就いた。
さらに、道真は、佐中弁から左大弁に昇った。そして、勘解由(かげゆ)長官も兼ねた。勘解由使は官人らの交替を監査する役所。このようにして道真は、参議兼左大弁、式部大輔・勘解由長官を帯びた。
道真、50歳のとき、遣唐大使に任命された。しかし、結果として、派遣はされなかった。
894年(寛平6年)、道真は侍従を兼ねた。この年、道真は、従四位下参議兼左大弁・式部大輔・春宮亮・勘解由長官・遣唐大使・侍従ということにある。このような兼官の多さは類例をみない。
さらに、道真は、参議から中納言に昇った。菅原氏としては初めての任官だった。
道真は宇多天皇を補佐する政治家として、藤原時平とともに政権トップとして政治を担当するようになった。
道真の長男、菅原高視は大学頭(だいがくのかみ)に任じられた。
899年(昌泰2年)、道真は権大納言であり、右大臣に任じられた。これに対して、道真は2度も辞表を出して抵抗した。門地が低いこと、儒者の家系であること、上皇の抜擢によって地位を得たとした。
道真は、誹謗・中傷を受けながらも、大臣の職をつとめた。
道真は、儒家としては異例の出世によって妬まれ、誹謗され、また宇多法皇の側近として醍醐天皇制と対立する存在としてとらえられていたようだ。
宇多法皇の道真に対する過度の厚遇、信頼が左遷のもとになった。
901年(昌泰4年)、道真、57歳。右大臣から大宰権師(ごんのそち)に落とすという醍醐天皇の宣命(せんみょう)が下された。このとき、分を知らず、専権の心があった。醍醐天皇の廃位を計画して、兄弟の間を裂こうとしたという罪状が記されていた。
道真の子息のうち、官途についていた者はすべて左遷された。道真は大宰府、高視は大佐、景行は駿河、兼茂は飛騨で、残った淳茂のみ京に残って学問に励むことができた。
前の天皇に重宝され、トップの地位を占めるところまで行ったものの、次の天皇からは排斥されてしまったということなのでしょうね。出世は反発も招くというのが世のならいです・・・。
(2019年9月刊。860円+税)

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