弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年12月17日

ノモンハン、責任なき戦い

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 田中 雄一 、 出版  講談社現代新書

1939年5月に起きたノモンハン事件は、「事件」というより戦争そのものでした。
日本軍は歩兵を中心として1万5000の軍を投入し、ソ連軍は5万の兵員と、最新型の快速戦車や装甲車を大量投入し、物量と火力で日本の歩兵部隊を圧倒した。4ヶ月間で、日本側は2万人、ソ連側は2万5000人という膨大な死傷者を出した。ソ連でのジェーコフ将軍は人命軽視で督励していたようです。日本軍は主力の第23師団の8割が死傷するという壊滅的な打撃を受けて、主戦場となった国境エリアから締め出された。しかし、日本の国内ではこの敗北は一切隠され、国民は知ることがなかった。
関東軍の若き作戦参謀が事件を起こした。関東軍作戦主任の服部卓四郎中佐(当時38歳)、作戦参謀の辻正信少佐(当時36歳)が事件を引っぱっていった張本人だ。
辻参謀は少佐でしかないのに過激な言動によって関東軍内部で強い影響力をもち、陸軍中央まで引きずり回した。辻がいなければノモンハン事件は起きなかった。辻はノモンハン事件のあと責任をとらされ、ほんのしばらく鳴りを潜めていただけで、まもなく復活した。そして戦後は国会議員になり、タイの密林で消息を絶った。
辻ら若手参謀は、参謀本部に何ら知らせることもなく、モンゴル領内のソ連軍空軍基地の爆撃を決行した。これについては、昭和天皇も怒った。
ソ連軍はスターリンが42歳のジューコフ将軍を現地に派遣して態勢を立て直した。5万人をこえる兵員、時速40キロをこえるBTという快速戦車などを最前線に投入する。日本軍も満州全土から虎の子の戦車70両をノモンハン現地に終結させた。
ところが、日本の歩兵部隊を300両をこえるソ連軍の戦車部隊が襲った。日本軍のまったく予期しない事態だった。ただし、ソ連軍は、戦車50両、装甲車40両を喪うという大損害を蒙った。
日本の戦車は、ソ連軍の仕掛けたピアノ線にキャタピラがからまり身動きがとれなくなり、そこをソ連軍が砲撃して70両の戦車の半数が破壊・消耗した。
ノモンハン事件全体を通じて、日本側のうった砲弾は6万6千発、ソ連側は43万発。圧倒的な物量差が勝敗を決めた。
ソ連軍は日本側の甘い予測をはるかに上回る兵站(へいたん)線を構築していた。9000台をこえる貨物運搬自動車を終結させ、前線部隊を強力に下支えした。
死傷者数ではソ連軍の被害のほうが甚大だが、作戦目的を達したのはソ連だった。
日本軍が回収した日本兵の遺体は4386体にのぼった。そして、戦後、日本軍は現場の中下級指揮官にすべての責任を押し付け、自決(自殺)を強要し、免官、停職し、汚名を被せた。その反面、軍トップは辻参謀たちをふくめて温存、非を問われることはなかった。
今に通じる日本軍の無責任体質について、呆れるというより怒りすら覚えます。
(2019年9月刊。900円+税)

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