弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年12月12日

三河吉田藩・お国入り道中記

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 久住 祐一郎 、 出版  集英社インターナショナル新書

江戸時代の参勤交代の実情を知ることのできる興味深い新書です。
参勤交代には、人材派遣会社(人宿)から臨時雇いの人夫が加わっていたことも知りました。そして、参勤交代とは関係ありませんが、三河吉田藩は島原の乱(原城一揆)に際して松平伊豆守(「知恵伊豆」)とともに従軍していて、その子孫はずっとあとまで藩内で優遇されていたということまで知りました。つい先日、原城跡を現地見学した身として、これまた興味深い話でした。
参勤交代は時期が定められていた。外様大名は4月、譜代大名は6月か8月。
近隣の大名同士の癒着を防ぐためもあって、ある大名が江戸へ出仕(参勤)したら、その近隣の大名が交代で国元へ戻った。経路も幕府によって決められており、許可なく他のコースを通行してはいけなかったし、寄り道もできなかった。
東海道は、150家の大名の経路に指定されていたため、参勤交代シーズンには、多くの大名行列でにぎわった。そのため、宿舎の確保に責任者は苦労していた。
参勤交代は、幕府が大名財力を削るための制度だと言われているが、それは結果としてそうなっただけのこと。大名同士が行列人数の多さや道具の華やかさを競いあっていたが、街道の混雑や藩財政の圧迫を招いたことから、幕府は人数を規制するお触れを出すなど、むしろ歯止めをかけていた。
本書は、1841年(天保12年)に江戸から吉田(愛知県豊橋市)までお国入りしたときの参勤交代について、当時35歳の吉田藩士・大嶋左源太豊陣(とよつら)の書いた文書の紹介をもとにしています。
「知恵伊豆」と呼ばれた吉田藩の始祖・松平信綱(初代)は、「才あれとも徳なし」と評されていた。うひゃあ、そ、そうだったんですか・・・。ちっとも知りませんでした。だから原城総攻撃のとき、3万人みな殺しを指揮したのですね・・・。
松平信綱は、この島原の乱に1500人の軍勢を(正規の家臣は100人)を率いていて、3人の武士と陪審(又者)3人の計6人が討死し、103人が負傷した。
「島原」とは、信綱を初代とする松平伊豆守における唯一の武功を指し示す言葉であり、後代の当主や家臣団にとってきわめて重要な意味をもった。大嶋左源太豊陣の祖先である豊長も島原へ出陣した。元禄4年(1691年)当時、島原扈従100人のうち、家が断絶しているのか半数の50人。生存者わずか10人だった。
参勤交代の実務を担うのは、宿割・宿払・船割の三役。
宿割(やどわり)は、宿舎を確保する。
宿払(やどばらい)は、宿泊代や食料費・燃料費などの支払いをする。
船割(ふなわり)は、行列が何川を渡る手筈を整える。
中間(ちゅうげん)は、総人数345人のうち2459人もいた。そのほかは士分53人、足軽33人。この中間は、非武士の武家奉公人で、その多くは人材派遣業者である人宿(ひとやど)の三河屋から派遣されていた。三河屋は、いくつもの大名家の参勤交代を請け負っていた。
大名行列の75%は中間であり、派遣労働者で成り立っていた。
人宿は、委託先である大名に対して、通日雇の給金として高額な代理を請求していた。行列の人数を確保しなければならない大名側は、言われるがまま払った。
人宿などは、通日雇の給金をピンハネして、莫大な利益を得ていた。
お供する家中(士分)には、道中計(どうちゅうばかり)という、吉田へ着いたら、すぐに江戸に戻る人間と、詰切(つめきり)という、吉田に着いたら次の江戸参府まで滞在する。この二つがあった。
交通費・宿泊費・食事代など、旅をするのに必要最低限の部分が公費負担だった。
映画に出てくる、「下に~、下に~」という掛け声とともに庶民は道ばたで土下座するというのは、徳川御三家などに限られていて、それ以外の大名行列は「脇寄れ」というくらいで、庶民は行列の進行を妨げないよう道の脇に寄るだけでよかった。
『道中心得』という15ヶ条のこの吉田藩は他藩から借りてきたマニュアルを活用していた。
いやあ勉強になりました。さすが学者です。
(2019年5月刊。840円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー