弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年9月13日

戦国日本のキリシタン布教論争

日本史(戦国)


(霧山昴)
著者 高橋 裕史 、 出版  勉誠出版

戦国時代の日本でキリスト教が爆発的に信者を増やしました。現代日本に生きる私にはとても理解しがたい現象です。戦国の世の殺伐とした社会がキリスト教に救いを求めたのでしょうが、キリスト教だって軍隊式のところもあるわけですので、もう一つよく分かりません。ストンと腹に落ちてこないのです。
フランシスコ・ザビエルが来日したのは1549年。ザビエル自体は2年半しか日本にはいなかった。ザビエルの所属するイエズス会は、九州から畿内地方へ拡大していった。
1593年にマニラからフランシスコ会士が日本へやって来て、イエズス会と激しく衝突した。さらに1602年にドミニコ会とアウグスティノ会が日本布教に参入し、キリスト教内の争いはますます激化していき、ついに1613年の禁教令が出るに至った。
1570年代の日本のキリスト教徒は3万人近いと想定されている。そして、1580年ころに10万人、1598年には30万人に達した。
イエズス会の背後にはポルトガルが、フランシスコ会の背後にはスペインがいた。そのことを秀吉も認識していた。
ローマ教皇と、ポルトガル・スペイン両国王のあいだで、地球全体が2分割された。それによると、日本はポルトガルの征服域に組み込まれていた。
ローマ教皇グレゴリウス13世は、1585年、日本布教はイエズス会が独占することを認める小勅書を発布した。それに違反するキリスト教徒は、「破門罪」というもっとも重い懲罰が加えられた。
日本イエズス会は、財政難を救うため、生糸貿易に手を染めた。
フランシスコ会の成立は1209年、イエズス会は、1534年に創設された。カトリック内の抗争なだけに、問題の根は深く複雑な様相を呈している。
1613年のキリスト教禁教令のころ、フランシスコ会は司祭9人、平修道士4~5人、司祭館と駐在所があわせて8棟あった。ドミニコ会は司祭9人、駐在所3棟をかかえていた。
長崎では、内町をドミニコ会とフランシスコ会が、外町はイエズス会の支配する町だった。
禁教令が発布されたあと、日本に潜伏・残留したキリスト教宣教師は圧倒的にポルトガル人イエズス会だった。
日本イエズス会は博愛をうたいながら、実践的には日本人イルマンを差別的に処遇し、学問を教授することを拒絶した。したがって、日本人聖職者の養成計画も途中で頓挫した。
カトリック宣教師内部の布教争いの実情も理解できました。戦国時代は人々が平和に生きる言葉に出会えていたことが分かった本でした。
(2019年4月刊。4600円+税)

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