弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年8月 9日

渡来人と帰化人

日本史(古代)

(霧山昴)
著者 田中 史生 、 出版  角川選書

古代日本に朝鮮半島からやって来た中国・朝鮮の人々をかつては「帰化人」と呼んでいましたが、「帰化」とは国家があることを前提としているけれども、果たして当時の日本列島に国家と呼べるものが存在したのか、そんな根本的疑問から、やがて「渡来人」と言い換えられるようになりました。
ところが、日本に定住せず、中国・朝鮮へ戻っていく人々も少なくなかったようですので、果たして「渡来人」と呼んでいいのだろうかという疑問が次に生まれたのです。
本書は、帰化人とは何か、渡来人とは何かを深く考察しています。
日本の倭王権は、渡来の技能者の受け入れを大いに重視した。特殊な技能をもっていて有用な存在だったからである。
5世紀後半の倭国では、姓をもっていたのは、王族のほかは中国系の人々ぐらいだった。
磐井(いわい)の乱(527年)と継体王権の瓦解(がかい)の背後には、首長層そして渡来系の人々の越境的社会関係の錯綜があった。
このころ、仏教は国際関係を考えるとき、重要な要素となっていた。中国が仏教を中心とした国際社会の秩序化を目指していたからである。
倭国が送った600年の遣隋使は、随の皇帝に「はなはだ義理なし」と一蹴されてしまった。そこで、次の607年の遣隋使は、小野妹子を大使として、中国の髄の皇帝を「海西の菩薩天子」ともちあげた。
7世紀の後半、朝鮮半島では百済が滅亡し、高句麗も滅んだ。そこで、朝鮮半島からの亡命者が数千人規模で日本にやって来た。
このころ、太宰府の北に朝鮮式の風格をもつ大野城や基肄(きい)城が設置された。
そして、7世紀の後半、倭が日本へ、大王が天皇へ切り替わり、律令国家が成立した。
そして、帰化人は、戸籍に登録され、支配される身分となった。
唐も日本も、帰化人を、明王の徳化を慕い、自らその民となることを願う者と位置づけながら、その裏では、出身国とのつながりを警戒していた。
日本では、帰化人は東国に配置され、西国には配置されなかった。
8世紀も半ばになると、今後は新羅からの「帰化」が急増した。飢饉や疾病のため生活に苦しむ人々が国外へ非難していった。
渡来人にしても帰化人にしても、中国大陸や朝鮮半島から「日本」へ移住・定住した人と限定的にとらえると、古代の実態と大きくかけ離れたものとなる。
このことが分かっただけでも、本書を読んだ甲斐がありました。
(2019年2月刊。1700円+税)

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