弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年6月28日

百姓一揆

明治


(霧山昴)
著者 若尾 政希 、 出版  岩波新書

大学生のころ(50年以上も前のことです)、雑誌『ガロ』に連載されていた白土三平の「カムイ外伝」を夢中で読みふけりました。百姓一揆のすさまじいエネルギーに圧倒されたのです。駒場寮には誰かが買ってきたマンガ本がたくさんあり、貧乏な私自身は買ったことはありません。
ところが、百姓一揆の実体についての研究が進展し、かつてのような「革命の伝統」だという考え方は古くなるという、1970年代半ばに一大転換がありました。
島原・天草一揆は一揆と呼ばれた。しかし、その後は、一揆に代えて、「徒党」、「強訴」(ごうそ)、「逃散」(ちょうさん)という文言がつかわれた。
今では、「百姓一とは何か?」ということ自体が、実は、明白でないと意識されている。
一揆の際に鉄砲が持ち出されることはあった。しかし、それは合図の鳴物として使われ、人間の殺傷用ではなかった。
明治に入って、自由民権期に、運動の前史として百姓一揆が位置づけられ、いわば伝統が創造されて、竹槍蓆旗(むしろばた)という暴力が前面に出てくる百姓一揆のイメージが形成された。
実は、日本近世は訴訟社会であり、訴状が寺子屋の教材になるほど、異議申立が頻繁に行われていた。この訴状を手本としたのが「目安(めやす)往来物」だった。17世紀につくられている。
領主は百姓が生存できるように仁政を施し、百姓はそれにこたえて年貢を皆済する。このような領主と百姓とのあいだに相互的な関係意識が形成されていた。
実際の百姓一揆で、殺し合いの戦闘が行われたことはなかった。「打殺」を標榜して、実際に殺傷に及んだ一揆は明治初年の埼玉にあるだけで、他にはない。
百姓一揆が何なのかを見聞せずに、十分に理解していない作者が軍書(軍記物)の合戦のようなものだと想像して描いたのが「農民太平記」だった。一揆物語は、領主による仁政の復活を言祝(ことほ)ぐことで終わっている。現実には村内は分裂状態にあるため、かつては一体的な百姓的世界があったとして、村役人が命をかけて村を守ったという代表越訴(おっそ)的な一揆の物語が求められた。百姓を一体のものとしてつなぎ合わせるためにこそ、義民を主人公とした一揆物語が全国各地につくられていったのではないか・・・。
今では、百姓一揆への熱いこころざしが薄れてしまっているのは残念な気がします。これだけ平然と年金切り下げがすすんでいて、共産党が年金増額を提言すると、安倍首相が「バカげたこと」と切り捨てているのに、国民が街頭に出て異議申立しないなんて、日本はおかしな国です。フランスを見習いたいものです。百姓一揆についての興味深い本でした。
(2018年11月刊。820円+税)

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