弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年5月 9日

朝鮮人強制連行の記録

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 朴 慶植 、 出版  未来社

今から50年以上前に刊行された古典的名著(1965年5月刊)の2005年2月版(53刷)を改めて読み直しました。
巻頭のグラビア写真として、虐殺された朝鮮人の屍体があり、炭鉱で働かされていた朝鮮人労働者の集合写真、そして、亡くなった朝鮮人の軍人・軍属・労働者の遺骨が紹介されています。日本政府と日本企業は朝鮮人をタダ同然でこき使い、死に至らしめ、今日までその責任をとっていません。
炭鉱だけではありません。大牟田にある三池染料(今の三井化学)は、昭和16年か18年に、朝鮮から数百名の青年を連れてきた。通勤服も仕事着も一つで、着替えをもっている人はいなかった。
朝鮮人を徴用に行った労務の係長に聞いた話。
「憲兵とともに釜山に上陸し、トラックを持って町を歩いている者、田園で仕事をしている者など、手あたり次第、役立ちそうな人は片っぱしからそのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。まったく今(戦後になっての意味)考えると、無茶苦茶ですよ。徴用というか、人さらいですよ」
三池染料の徴用課労務係長というと、私の亡父がまさしく該当します。そして、亡父は生前この連行の模様を子どもである私に少しだけ語ってくれました。そのときには、列車で500人を乗せて引率してきたが、日本の化学工場では、そんな徴用労働者は役に立たなかった。化学工場で働くには、炭鉱と違って一定の教育水準のある者でなければまったく役に立たない。そのことを亡父は強調したのでした。
朝鮮半島から、1939年から1945年までの間に34万人が集団的に日本へ連行された。1945年6月時点で、12万4000人がいて、日本の全炭鉱労働者の31%を占めていた。
石炭鉱山に連行された朝鮮人の半分は九州に、4分の1は北海道に配置された。
1939年に始まった朝鮮人連行は、「募集」という形をとってはいるものの、官吏や警察、面(日本の村ですね)有力者が加わって、半ば強制的なものだった。できる限りの方法で狩り出したと当時の担当者は明言している。
1939年、国民徴用令が発表され、大々的な動員がはじまった。朝鮮については、徴用令そのままの適用を避け、「募集」形式での動員計画が立てられて実施された。
1939年7月28日付の内務・厚生両次官名義の通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」として、同年度は8万5000人の朝鮮人の集団連行があった。これは、従前の募集許可による個別的渡航と並行して新たに計画されたものであった。8万5000人のうち、福岡県には6780人が割り当てられた。
加害者はすぐ忘れてしまうものですが、被害を身体に刻まれた被害者は死ぬまで忘れることはできません。
韓国の最高裁判決が異常なのではなく、今や集団ヒステリー状態にあるとしか言いようがない日本のマスコミ、それを真に受けている日本人の側に多大の問題があると思います。きちんと歴史を振り返るのは、決して自虐史観などというものではありません。
(2005年2月刊。2500円+税)

朝、雨戸を開けると純白のサボテンの花が二輪並んで咲いていました。青葉若葉の候となり、庭はお花畑です。キショウブの黄色、ヒオウギの橙色、ショウブのライトブルー、クレマチスの紅白。そしてジャーマンアイリスはブルーの花が終わって、今は黄色と純白の花があでやかさを競っています。
アスパラガスもそろそろ終わりですが、朝3本摘んで、夕方、春の香りを楽しみました。ジャガイモが順調に伸びていますし、梅の実ちぎりも間近です。ラズベリーも小さな実をつけています。
5月の連休中は事務所と自宅の大片付けに精を出しすぎて、椎間板ヘルニアがまた少し痛みだしましたので、あわてて病院のリハビリ科に駆けこみました。
ばったり知人に会い、年齢を考えて無理なことはしないようにと忠告されました。もっともです。反省しています。

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