弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年3月 6日

水俣病裁判

司法


(霧山昴)
著者 水俣病被害者・弁護団全国連絡会議 、 出版  かもがわ出版

20年も前の本なのですが、長らく本棚に積ん読状にありましたので、手にとって読んでみました。
私も70歳となりましたので、読んだ本で残す必要がないと思ったら捨て、読んでない本で読む必要がないと判断したら読まずに捨てることにしました。おかげで本棚がずい分すっきりしてきました。
ずっと本に囲まれた生活を過ごしていますが、どこにどのジャンルの本があるのか分からないようでは困りますので、きちんと分類して見通しよく並べておくつもりです。同じ本を二度も読むことは少ないのですが、それでもモノカキを業としていますので、読んだ本を探すことはあるのです。
さて、久しぶりに水俣病裁判の本を読んで、やはり大変勉強になりました。いくつか驚いたことがありますが、その一つが、福岡高裁の友納治夫裁判長です。7年間も異動せずに水俣病裁判を担当していたとのこと。信じられません。ふつう3年で裁判官は異動するものですが、7年間も福岡高裁にいて水俣病裁判に関与していたというのです。そして、裁判上の和解が成立したあと1997年1月4日、定年数日前に裁判官を辞めたのでした。
福岡高裁は和解を成立させたあと、すでに言い渡すだけになっていた山のような判決をひそかに焼却したとのこと。本当でしょうか・・・。最後まで希望を捨てず和解による判決を選択した裁判官たちに心から敬意を表するとされています。
次に、細川護熙(もりひろ)元首相についてです。熊本県知事のときには、和解成立に積極的でした。「たとえ総理大臣から罷免されても、水俣病問題をこれ以上おくらせるわけにはいかない」(1990年秋)と言っていたのが、1年たって1993年8月に首相になったら、「知事時代と気持ちは変わらないが、立場が変わった。行政の根幹にかかわる問題なので慎重に考えさせてほしい」と一変してしまったのです。
そして、村山首相になります。1995年7月に村山首相は記者会見の場で水俣病が拡大したことに対する行政の責任を首相として初めて認め、「心から遺憾の意を表したい」と語りました。ところが、翌日、環境庁の事務次官が同じく記者会見をして、「村山首相の発言は政府としての見解ではなく、首相個人の発言である」と述べたのです。
いやはや、これには驚きというか怒りすら感じました。
1959年、チッソはサイクレーターと呼ばれる工場排水の浄化装置をつけ、その披露の場で吉岡チッソ社長はサイクレーターを通したとされる水を飲んでみせた。ところが、この社長が飲んだ水は、サイクレーターを通してもいない、普通の水だったのです。
水俣病裁判の歴史のなかでは、「水俣病弁護団を粉砕する」と称して、本気で暴力を振るってでも弁護団が法廷に入るのを阻止しようとしたグループがいました。背広を破られた弁護士まで出ました。信じられない暴挙です。チッソと直接に暴力的に交渉して、チッソから「血債」を取り立てようというのです。でも、そんな暴力的な行動では世論を敵にまわしてしまうだけです。
現地の水俣には2回、法律事務所が開設されました。1970年12月、馬奈木昭雄弁護士が福岡から移り住みました。そして、12年ぶりに1985年に坂井優弁護士が再び水俣に法律事務所を開設しました。東京にも水俣病全国連の拠点事務所として1986年1月に、東京あさひ法律事務所が開設されました。
水俣病全国連に加盟する原告患者は1高裁5地裁で2000人をこえました。
1996年1月、政府の解決策によって、1万1100人が救済されました。原告が1900人、原告でない人が9200人。原告でない患者が大勢救済されたのです。大変な成果です。
実は、水俣病裁判は今も続いています。20年前の水俣病裁判の苦闘の経過を正しく知ることのできる本でした。
(1996年9月刊。2800円+税)

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