弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年2月 1日

国境なき助産師が行く

アフリカ

(霧山昴)
著者 小島 毬奈 、 出版  ちくまプリマ―新書

「国境なき医師団」って、すごいですね、心から尊敬します。先日は女性看護師の活動を紹介しましたが、今回は、同じく日本人女性ですが、助産師です。
2014年から、6ヶ国で8回も出動しているそうです。本当に大変そうな仕事を著者が生き生きとやっている様子に心を打たれます。中村哲医師が活動しているパキスタンのペシャワールに著者も助産師として出動しました。
パキスタンの女性は、とにかく多産。最高記録は16人。5人目、6人目の出産はあたりまえ。女性が人として価値を認めてもらえるためには、出産して多くの子どもをもつこと。それだけ・・・。
トイレがない、汚い、そんな状況にあわせるため鍛えあげられた著者の肛門はウォシュレット不要になっているとのこと。いやあ、信じられない訓練です・・・。
日記を書いて、思ったことを吐き出す。そして、ウクレレをひいて楽しむ。さすが、です。
MSFに入る前は年収600万円をこえていたのに、月給手取り11万円のNGOスタッフの身分。いやはや、すごい覚悟ですね・・・。
現地スタッフと折り合いをつけるのも容易なことではないようです。それはそうだろうと私も思います。だって、生まれ育った環境がまったく違うわけですから、日本からちょっと出かけて簡単に仲良くなれるはずはありません。スタッフに何かというとお菓子を配って、ごきげんとりをするメンバーもいたようです。もちろん、悪いことではありませんが、次の人が困ることもありますよね、それって・・・。
レバノンの難民キャンプに行ったとき、この国で謙虚な人はつぶされる。日本では謙虚な人が高く評価されるけれど、レバノンではまずは自己主張が必要。どんな人と知りあいで、どれだけの資産をもって、持ち家があるか、どれだけの高級車に乗っているのかによって、人としての価値が大きく左右される。
レバノンでは、治療費だって交渉して負けてもらう。半額から4分の1ほどに・・・。医療もビジネスという精神が定着している。
2016年から2017年にかけて、8000人近い難民がリビアからイタリアに向けて地中海を渡る途中で亡くなっている。大変なことですよね、これって・・・。
船上で出会った妊婦の半分以上は、売春やレイプからの妊娠。
生まれてホヤホヤの新生児を抱いている母親は、本当にいい顔をしている。新生児を抱いているときにしか出ない、何とも言えない柔らかい表情が最高。
母体死亡の理由の多くは出血。多児の出産は、産後多量出血になることが多く、一度出血すると、水道の蛇口をひねったようにとめどなく続いてしまう。
南スーダンの非難区域にある病院の現地スタッフは500人。みな生き生きと働いている。仕事があること、自分が求められている存在であることは、たとえどんな環境にいても生き甲斐になる。
日本人も、海外で、こうやって献身的に人道支援活動をしていることを知ると、うれしくなります。アベ首相がしているような「軍事の爆買い」なんかやめて、日本政府も本格的な人道支援こそやるべきです。
(2018年10月刊。840円+税)

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2019年2月 2日

江戸東京の明治維新

日本史(明治)

(霧山昴)
著者 横山 百合子 、 出版  岩波新書

眼が大きく開かされる思いのする本です。知らないことだらけで、明治の庶民の毎日の生活を始めて実感できた気がしました。
明治初年の東京には、町方人口の7~8割が、その日稼ぎの人々だった。
下層民とは、①畳や建具はもっているが、三度の食事のうち二度が粥(かゆ)である「上」、②カマドと湯釜、タンスなどは持っているが、サツマイモや粥を日に二度食べるのがやっとの「中」、③畳、建具もカマドもない「下」。
そして、江戸から明治になって物もらい(窮民)が大量に発生した。品川、千住、四ッ谷、板橋そして本所海辺あたりに散在している物もらいや無宿非人が1万余人もいた。
路上には床店(とこみせ)が立ち並んでいた。間口が一間から二間ほどの小さな家とも小屋ともつかない建物。この床店から上がる利益をめぐって、幕府一町、請負人一床所地主(家守層)一床商人という重層的な分配構造が形づくられていた。やがて路上から追われた床商人たちは、明治10年代になると、共同で付近の店舗を借り受け、密集した商いの場をつくり出していった。
新吉原遊廓では遊女たちによる放火が多かった。遊女の処遇が過酷だったから。1849年に起きた放火事件は、遊女16人によるもので、すぐに発見されるよう表通りからも目に着く2階の格子に放火し、直ちに名主の下に自首して抱え主の非道を告発したものだった。
明治になって解放令が出たあと、遊女かしくと竹次郎の連名による嘆願書が紹介されています。そこでは、7歳で身売りして新吉原の遊女になったかしくが、「遊女いやだ申候」として、解放のうえ結婚することを認めてほしいと東京府に願い出たのでした。口頭指示で却下されたようですが、それでも、このような書面が残っていたこと自体が驚きです。
江戸が明治に変わったころ、下層市民はどのように生きていたのかを知ることのできる貴重な労作です。この本は、明治初めに生きていた市民の生活の実情を知るため、広く読まれてほしいと思いました。
(2018年11月刊。780円+税)

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2019年2月 3日

「ふたりのトトロ」

社会

(霧山昴)
著者 木原 浩勝 、 出版  講談社

『となりのトトロ』って、本当にいい映画でしたよね。子どもたちと一緒にみましたが、大人も十分に楽しめました。その『トトロ』の制作過程が手にとるように分かる本です。
宮崎駿監督と一緒に『トトロ』づくりに関わった著者は当時26歳。若さバリバリで、宮崎監督から「俗物の木原君」とからかわれていました。それでも著者は宮崎監督の近くにいて一緒にアニメ映画をつくれる楽しさを思う存分に味わったのでした。
子どもがみて楽しいと思う映画をつくるのだから、つくる人たちだって楽しまなければいけない。さすがですね、宮崎監督の考えは深いですね。
この本は『もう一つのバルス』に続く本として、一日に一気に読み上げました。というか、途中でやめると他の仕事が気が散って集中できなくなりますので、早く読了することにしたのです。読んでる最中は、こちらまで楽しい雰囲気が伝わってきて、心が温まりました。
動画などの制作現場は女性が多く、明るい笑い声が絶えなかったようです。やはり、みんな子どもたちに楽しんでもらえるいい映画づくりに関わっているという喜びを味わいながら仕事していたのですよね、胸が熱くなります。
この本には、制作過程でボツになった絵が何枚も紹介されています。一本一本の線、そして色あいまで丁寧に丁寧に考え抜かれているということがよく分かります。
『となりのトトロ』の目ざすものは、幸せな心温まる映画。楽しい、清々しい心で家路をたどれる映画。恋人たちはいとおしさを募らせ、親たちはしみじみと子ども時代を想い出し、子どもたちはトトロに会いたくて、神社の裏を探検したり樹のぼりを始める。そんな映画だ。
1980年代の日本のアニメは、1に美少女、2にメカニック、3に爆発。この3つがヒットの3要素で、華(はな)だと言われていた。『トトロ』には、この3要素がどれも含まれていない。
舞台は日本。日常の生活の描写や女の子の芝居を、より繊細な線で楽しんで書くことが基本だ。
誰かが楽しいのではなく、誰もが楽しい、つまりスタジオ全体が楽しくなる。こんなスタジオの雰囲気そのものを作品にも反映させたい。これが宮崎監督の作風だ。
宮崎監督は常にスタジオ内の自分の机に向かっている。監督は、作品を監督するだけではない。常に作品をつくる現場を監督しているから監督なんだ。宮崎監督は、愚直なまでに監督として徹底した。
また『トトロ』をみたくなりました。あの、ほのぼのとしたテーマソングもいいですよね。
(2018年9月刊。1500円+税)

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2019年2月 4日

オランウータン

オランウータン


(霧山昴)
著者 久世 濃子 、 出版  東京大学出版会

オランウータンは、ヒト科です。
チンパンジーやゴリラとともに「大型類人猿」というグループに属している。1800万年前ころに人類の祖先と袂(たもと)を分かち、独自の進化の道を歩んできた。
オランウータンは、巨体だ。オス80キログラム、メス40キログラム。完全な樹上性で、昼行性霊長類としては、唯一の単独生活者だ。
オランウータンは、ヒトにもっとも遠縁の大型類人猿だ。
オランウータンは遠いアジアで生まれ育った従兄弟だ。
チンパンジーやゴリラの乳児は尻に白い毛が生えていて、「アカンボウのしるし」とされている。白い毛が生えているうちは、何をしてもオトナに怒られることはないが、白い毛が抜けると、群れのリーダーや上位の個体に挨拶をしないと怒られるなど、群れのルールに従わなければならなくなる。
オランウータンのアカンボウは尻に白い毛がなく、目と口のまわりの明色部分が「尻の白い毛」の代わりをしているのだろう。
オランウータンの子どもは、レスリングをして遊ぶ。
オランウータンは、一斉結実期に非結実期の2~3倍のカロリーを摂取して、体脂肪として蓄えている。オランウータンは果実が多いときに「食いだめ」ができるかどうかで生死が分かれる。
オランウータンは、20歳をこえても成長期かと見まがうような右肩上がりの体重増加を示す。
オランウータンは、大きな体で樹上生活をするために進化してきた、多くの特徴がある。たとえば、手首の構造はフック状になっていて、意識的に手足を開く動作をしないと、手足は握り込んだかたちをとるようになっている。つまり、意識を失うと、むしろ手足は閉じてしまう。
オランウータンが地上に下りない理由の一つは、地上には食べものがほとんどないこと。大きな体で樹上を移動するということは、常に「次の一歩が死への一歩」につながりかねない。
試行錯誤の余地の少ない、厳しい世界だ。飼育下でも、オランウータンは慎重で、試行錯誤することが少ない。
オランウータンの寿命は、オスでも50~60歳をみられている。
オランウータンは、全般にチンパンジーに比べて乳児死亡率が低い。
オランウータンでは出生から死亡まで記録された野生個体は1頭もいない。一生放浪し続けるオスがいるのか、ほぼ定住し続けるオスがいるのか、まったく分かっていない。
オランウータンのオスには、フランジ雄とアンフランジ雄の二型がいる。フランジ雄は、顔の両側に張り出し(フランジ)があり、大きな喉袋、臭腺(特有のカビくさいにおいを発する)などの特徴があり、喉袋をつかってロングコールと呼ばれる音声を発する。フランジ雄にはメスのほうから近づき、親和的に交尾することが多い。
フランジ雄とアンフランジ雄では、メスとのつきあい方が異なるだけでなく、オス同士のつきあい方にも大きな違いがある。通常、フランジ雄どうしは、お互いに出会わないよう避けあっている。ロングコールでお互いの位置を把握して、出会わないようにしている。フランジ雄どうしが出会うと、殺しあいになりかねない。
アンフランジ雄は、基本的にフランジ雄を避けているが、フランジ雄がアンフランジ雄と出会っても、激しい闘争は起きない。アンフランジ雄どうしは、複数で連れだって行動することもある。
フランジ雄は、出産経験のない若いメスと交尾することは、ほとんどない。近づくことすらない。オランウータンでは、若いメスはフランジ雄から相手にされないため、若いオスやアンフランジ雄が交尾の相手になるが、若いオスたちも若いメスより経産メスを好む。オランウータンの社会では、オス、メスともに「モテ期は中年」なのだ。
オランウータンは、繁殖のスピードがとても遅い。野生での初産年齢は15歳前後、出産間隔は7年。基本的に1回の出産で1頭しか出産しない。
オランウータンの孤独な子育ては、出産から始まる。野生オランウータンでは、チンパンジーやゴリラと異なり、子殺しの報告はほとんどない。オランウータンの母親は1頭のアカンボウのみとともに過ごす時間が圧倒的に長く、文字どおり「孤育て」に徹している。
絶滅が危惧されているオランウータンをインドネシアの原生林に入って密着観察している女性学者のレポートです。その地道で粘り強い努力には頭が下がります。
日経新聞でも紹介されています。ありがたい研究成果です。
(2018年7月刊。3000円+税)

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2019年2月 5日

AIと教科書が読めない子どもたち

人間

(霧山昴)
著者 新井 紀子 、 出版  東洋経済新報社

一橋大学法学部を卒業したあと、アメリカのイリノイ大学で数学科を学んだ数学者という著者の経歴は、私には驚きです。というのも、私は高校では理系クラスにいたのですが数学の才能がないことを自覚して、法学部に志願を切り替えたからです。
そして、著者は、「東ロボくん」と名付けた人工知能(AI)を我が子のように育て、東大合格を目ざしてチャレンジしてきた。そして、この「東ロボくん」は、東大には合格できないが、MARCHレベルの有名私立だったら合格できるほどの偏差値に達している。
AIはコンピューターであり、コンピューターは計算機であり、計算機は計算しかできない。
なので、ロボットが人間の仕事をすべて引き受けてくれたり、人工知能が意思をもち、自己生存のために人類を攻撃したりするという考えは、まったく妄想にすぎない。
つまり、AIが人間にとって代わるころはありえない。
コンピューターができるのは、基本的に四則演算だけ。
「東ロボくん」につかった予算は、年間3000万円。このチームはのべ100人以上の研究者が参加した。半分が大学、残る半分は企業からの参加者。
AIがすすむと、かなりの職業がなくなってしまう。たとえば、電話販売員(テレマーケター)、保険業者、融資担当者、銀行の窓口係、スポーツの審判員。
アメリカの職業702種について、その半分が消滅し、全雇用者の47%が失職する恐れがある。
大学入試では、ビッグデータは集めようがない。
ツイッターは、脅迫などの不適切ツイートや残酷画像やアダルト画像などの不適切画像の削除に常に追われている。適切と不適切をAIが自動判定できるか否かが、ツイッターの存続そのものを左右する。
国語と英語の二つは、「東ロボくん」の数式処理では克服できない。行く手を阻んだのは「常識」の壁だった。
AIには、意味を理解できる仕組みが入っているわけではなく、あくまでも「意味を理解しているようなふり」をしている。
AIが計算機であることは、AIには計算できないこと、基本的には、足し算と掛け算の式に翻訳できないことを意味している。
AIはロマンではない。
日本の中学生・高校生の多くは、中学校の歴史や理科の教科書程度の文章を正確に理解できない。これは、とても深刻な事態だ。日本の中高校生の読解力は危機的と言ってよい。その多くは、中学校の教科書の記述を正確に読みとれない。大学教員の多くが、学生の学力の質の低下を肌で感じている。学生との会話が成立しないことがあまりに多いし、増えている。
就学援助の率が高い学校ほど読解能力値の平均が低い。貧困は、読解能力値にマイナスの影響を与えている。
ある中学校では、社会科の教科書の音読を授業中にさせている。文章を正確に、しかも集中してすらすらと読めなければ、スタート地点に立つことさえできない。
東大に入れる読解力が12歳の段階で身につけていると、東大に入れる可能性は圧倒的に高い。
なるほど、そうですよね。日本文の問題を素早く理解することが解決の第一歩です。
なるほど、なるほどと思いながら読みすすめていきました。
(2018年12月刊。1500円+税)

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2019年2月 6日

戦後が若かった頃に思いを馳せよう

社会

(霧山昴)
著者 内田 雅敏 、 出版  三一書房

表紙の写真は、抜けるような青空の下にそそり立つ巨岩の頂上に何人かの登山客が大手を広げていて、ついついうらやましくなる見事さです。
72年前の敗戦、空襲の恐怖から解放された人々は、青い空、夜空の星の美しさを改めて認識した。人びとが美空ひばりに共感したのは、その歌唱力のためだけではなかった。
「声をあげて叫びたいほどの解放感があった」(佐藤功)。戦後が若かったころに思いを馳せようではないか。
韓国大法院による徴用工問題についての判決について、日本のマスコミの多くはアベ政権と声をそろえ、「韓国はおかしい、間違っている」という大合唱をしています。今では、北朝鮮の脅威より韓国たたきが先行していて、そのためには日本が軍事力を強化するのは当然だという風潮さえ感じられます。すくなくとも、トランプ大統領に押しつけられたF35ステルス戦闘機を147機購入するという、馬鹿げた「爆買い」に対する大きな怒りの声があがって当然なのに、あがっていません。日韓請求権協定で決着ずみ、判決は国家間の合意に反する。このようにアベ政権は声高く叫びます。でも、本当は、個人の請求権がなくなっていないことはアベ政権も最近の国会答弁で認めているところなのです。これは、日本政府がアメリカとの関係で日本国民に対する賠償責任を免れるために言い出したことでもあります。
日本の最高裁だって、個人の請求権そのものが消滅したものではなく、関係者において被害者の被害救済に向けた努力に期待すると述べたのでした。著者たちは、これを受けて西松建設など日本企業と徴用工だった人々との和解を成立させた実績があります。
実は、私の亡父も朝鮮半島から500人の朝鮮人を徴用工として九州に引率してきました。私が父の生い立ちを聞いているなかで出た話です。亡父は、大牟田の三池染料の労務課徴用係長だったのです。三井化学が賠償したとは聞いたことがありません。
加害者は加害した事実を早々に忘れてしまいます。でも、被害者は簡単に忘れられるはずもありません。
歴史問題の解決において、被害者の寛容を求めるには、加害者の慎みと節度が必要不可欠。著者のこの指摘は、まったく当然のことで、私もそう思います。
①加害者が加害の事実と責任を認めて謝罪する。
②謝罪の証(あかし)として和解金を支給する。
③同じ誤ちを犯さないよう、歴史教育、受難碑の建立、追悼事業などを行う。
この三つが不可欠だ。
日本は、①も②も不十分ですが、③が欠けています。
アベ政権は、韓国側が歴史認識を問題とすると、「未来志向と相反する」なんて、とんでもない「反論」に終始します。
この本では映画、小説そしてマンガ本まで、著者の言及する範囲の広さには驚かされます。映画は、『顔のないヒトラーたち』『ブリッジ・オブ・スパイ』など。小説は飯嶋和一の『星夜航行』『出星前夜』。そして、マンガは『虹色のトロッキー』です。その評たるや、すごいものです。それらを論じ尽くしたあと、いよいよ本題の韓国・中国問題について、現代を生きる私たちがいかに考え行動すべきかを著者は静かに書きすすめていて、大変考えさせられます。
すでに読んでいた文章も多く、この贈呈本が届いたその日のうちに電車内で一気に読了しました。ありがとうございました。著者の今後のますますのご活躍を心より祈念します。
(2019年2月刊。1800円+税)

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2019年2月 7日

回想のドストエフスキー2

ロシア

(霧山昴)
著者 アンナ・ドストエフスカヤ 、 出版  みすず書房

ドストエフスキーが亡くなって30年後に妻のアンナが日記などをもとに書いた回想記です。人間ドッグ(一泊)に持ち込んだ本の一つで、つまらなかったら早送りのように読み飛ばしてしまおうと思っていたのですが、意外や意外、とても面白い読みものでした。
妻のアンナがドストエフスキーと結婚したのは20歳。ドストエフスキーは44歳でした。妻に亡くなられたあと、速記者としてアンナを雇ってから急速に親しくなったのです。
このころのドストエフスキーは、トルストイのような金持ちの作家ではなく、いつも金欠病で借金取りに追われていました。その借金は、自分がつくったものではなく、身内の借金です。
ドストエフスキーが書いて支払われる「印税」が唯一の収入源でした。しかも、ときどきはてんかんの発作におそわれ、また、ギャンブル狂(ルーレット)でもあったようです。ところが、妻のアンナは実務的能力があり、ドストエフスキーの創作活動を速記者として支えただけでなく、莫大な借金を返済してしまったのでした。4人の子どもを生み、夫にあたたかい家庭をもたらしたのです。
ドストエフスキーは、貴族の家柄といっても、貧しい医師の子どもにすぎなかった。
そして、妻のアンナは小官吏の娘だったが、娘時代に速記を習っていた。
ドストエフスキーは、若いときに軍事裁判にかけられ、シベリア徒刑4年、セミパラチンスクでの兵役5年間をつとめている。
ドストエフスキーは、取り立てに来た債権者から、家具を差し押えて、それでも不足したときには債務監獄に入ってもらうと脅された。
債務監獄に入ると、借金は帳消しになった。1200ルーブルの借金のためには9ヶ月ないし14ヵ月は入っていなければならなかった。そして、債務監獄に入った債務者の食費は債権者が払わなければならなかった。
そこで、妻のアンナは、次のように債権者に言い返した。
「住居は妻名義で借りたもの。家具は月賦で支払い中なので差押えは出来ない。債務監獄に夫は期限まで入ってもらって、私は夫の仕事を手伝う。そうすると、あなたには一文だって入らないうえ、夫の食費を払わされる」
いやはや、こんな「反論」が有効だったのですね。驚きました。
ドストエフスキーは、作家としてだけでなく朗読者としても才能があったようです。
『カラマーゾフ兄弟』を、細い声、だが甲高い、はっきりした声で、なんとも言われないほど魅力的に朗読した。何千という聴衆の心が一人の人間の気持ちに完全にひきつけられた・・・。
ドストエフスキーを改めて読んでみようと思ったことでした。
(1999年12月刊。3200円+税)

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2019年2月 8日

わたしの町は戦場になった

シリア


(霧山昴)
著者 ミリアム・ラウィック 、 出版  東京創元社

シリア内戦下を生きた少女の4年間。これがサブタイトルです。オビには、「一人の少女が内戦下の日々を曇りなき目でつづった21世紀版『アンネの日記』」とあります。
少女はシリアのアレッポに生まれ育ち、今もアレッポで両親と妹とともに暮らしているアルメニア系のクリスチャンです。今は15歳になっていますが、この日記では7歳から13歳までの6年間の生活が紹介されています。
戦争が身近にあり、死と隣あわせの生活を過ごしたため、ものすごいスピードで成長した。
銃や大砲の音を聞き分けられるし、爆弾の種類も知っている。避難するタイミングと方法も身についている。なにより、死がどんなものであるかを知っている。大切な人を失った悲しみ、死ぬかもしれないという恐怖、そういったものを経験した。
戦争という泥沼にはまっていた。子どもからすると、チンプンカンプンの、ろくでもない戦争。なんでそんなことになってしまうのか、まるで理解できない。
戦争とは、恐怖、悲しみ、不安以外の何ものでもない。もう二度と戻ることない以前の生活に思いをめぐらせること。それが戦争だ。
ミリアムの日記は、2011年6月、7歳のときから始まる。そして最後は2017年3月。13歳だ。
戦争になる前のアレッポで豊かな色やにおいや味があふれている、天国みたいなところで暮らしていた。アレッポの太陽を浴びて日焼けしていた。夏には、街歩きの最後に、広場のユーカリの木の下で、ピスタチオをトッピングしたアイスクリームを食べるのがおきまりだった。
自宅を出て、避難することになった。みんなにまじって、私たちの家族も歩きだした。まわりの人を見ていると、思わず『ひつじのショーン』に登場するヒツジたちが頭に浮かんだ。だれもが無口になっていた。話をしている人は一人もいなかった。
4歳のときから、ずっとフランス語を習っている。でも、フランスがシリアに戦争をしかけようとしているなんて聞いたら、もうフランス語の授業を受ける気にはならない。
戦争のさなかにも学校があり、少女は皆勤賞をもらうのです。
2014年9月1日。きょうから学校が始まる。5年生になった。私たち姉妹は、一度も授業を欠席したことがない。それがパパとママの自慢だ。
学校の中庭で小さな女の子が一人で遊んでいる。5歳のイバちゃんだ。イバちゃんは、ときどき、ふと遊ぶのをやめ、声をはりあげて「アスマ、おいで、アスマ。一緒に遊ぼう」と言う。アスマはイバちゃんの妹。イバちゃんの目の前で殺された。イバちゃんは、妹が死んでいることが分からなくて、ずっとそばにいて話しかけていた。そのときから、イバちゃんの目には、いつも妹が見えているらしい。
シリアの内戦は、日本では報道されなくなってしまいました。アサド政権がひどいという話もありましたが、反政府軍との武力衝突が早くおさまって、平和のうちに話し合いで解決してほしいと思います。戦争が小さな子どもたちの夢を無惨におしつぶしているのを知ると、耐えられない思いです。
(2018年10月刊。1800円+税)

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2019年2月 9日

世界史を変えた新素材

社会

(霧山昴)
著者 佐藤 健太郎 、 出版  新潮選書

ゴールド。金。現在までに採掘された金の量は、世界中すべてあわせても、オリンピックプール3杯分ほどでしかない。
そんなバカなと私も思いましたが、金は水の20倍ほど重たいので、重量の割には嵩(かさ)が非常に小さいことにもよる。
1台のスマートフォンには、平均で30ミリグラムの金が使われている。2000億円分の金が世界中のスマートフォン14億6000万台、世界中の人々のポケットにおさまっている。
コラーゲンは、人間の身体にたくさん含まれるたんぱく質の一種。コラーゲンは、細胞と細胞の隙間(すきま)を埋め、互いに貼りあわせる役割をもつ。
人間の身体を支え、形を保たせているのは、コラーゲンのおかげ。人体のタンパク質の3分の1はコラーゲン。
日本語では、コラーゲンのことを膠原(こうげん)と呼ぶ。
外科手術のとき、コラーゲンでつくった糸で傷を縫えば、やがて糸はゆっくりと分解吸収されるため、抜糸する必要がない。
クモの糸は、防弾チョッキに用いられるケプラー繊維の3部だった。
クモの糸の実用化は進まなかった。それは、カイコとちがって、一匹のクモが少なかったこととあわせて、一匹のクモがつくる糸の量が少ないこと、下手するとクモは、共喰いを始めてしまうから。
大変興味深い話が満載の面白い本でした。
(2018年12月刊。1300円+税)

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2019年2月10日

ニワトリ、人類を変えた大いなる鳥

(霧山昴)
著者 アンドリュー・ロウラー 、 出版  インターシフト

JR久留米駅にある美味しい鶏の唐揚げの店で読了しました。この店は大量生産のブロイラー(鶏)ではないと表示されていますが、なるほど肉質が違います。かみしめると、味わい深さに舌が驚いてしまうのです。
ニワトリは恐竜の子孫です。では、なぜ恐竜が絶滅したというのに、ニワトリだけは生き残っているのでしょうか・・・。
鶏肉は、豚肉や牛肉より風味が付けやすいので、ファストフードにぴったり。
2001年までのアメリカ人は、年間36キロの鶏肉を食べていた。これは終戦直後の1950年当時の4倍。今では、年間45キロに近づいている。
アメリカのタイソン社だけで、売上高は3000億ドル、週間生産高は60の工場で、4100万羽を突破した。
ブロイラーの80%以上を三大育種企業が管理していて、そのうち2社はアメリカの企業。
2010年に、アメリカの育種企業の孵化場300ヶ所で90億羽のブロイラーが生産された。
1950年には平均して70日かかり(体重1ポンドあたり)、体重1ポンドあたり3ポンドの飼料を必要とした。これが2010年には、わずか47日間で育った。必要な飼料は2ポンドですんだ。ヒヨコは生後1週間で、体重が4倍に増える。
ニワトリの寿命は10年で、20年も生きることさえある。
ニワトリの原種は、ビルマ(ミャンマー)の原生種であるセキショクヤケイだ。
人間のいる至るところにニワトリがいる。その数は200億羽にのぼる。ニワトリがこの世からいなくなったら、きっと各地でパニックが起きるだろう。
ニワトリは食材でありながら、かつ、インフルエンザのワクチンをつくる入れものとして、人類に貢献している。
子どものころ、我が家でもニワトリを飼っていました。エサのために草をとってきていました。父がニワトリを殺し、腹をさばいて卵が出来ていく過程を見て、たまげました。
(2016年11月刊。2400円+税)

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2019年2月11日

太平洋

地球

(霧山昴)
著者 蒲生 俊敬 、 出版  講談社ブルーバックス新書

太平洋も動いているのですよね。その海底が少しずつ移動していて、地球の奥深く沈み込んでいくプレートテクトニクス理論は、初めはウェゲナーの大陸移動説と同じで、信じられませんでしたが、どちらも今では定説になっています。
日本に地震が多いのは、そのせいです。そんなところに原発をつくったり、使用ずみ核燃料の最終処分場を地底深くに置いておこうなんて、いずれもとんでもありません。
この本に、地球上の海について、その表面だけでなく、深いところでも海流があると書かれていて、驚きました。
北大西洋から始まった深層流が最後に北太平洋まで到達するのに、約2000年かかる。この階層海流のおかげで地球の高緯度域と低緯度域との温度差がやわらげられている。つまり、深層海流は、地球にとってエアコンのようなありがたい存在だ。
深層海流の速さは、1時間に40キロメートル、つまり時速5キロ。
地球が受けている潮汐力の7割は月による。月という衛星のあるおかげで、海洋の熱塩循環が続き、そのエアコン機能によって、地球の温和な環境がたもたれている。
POPsとは、難分解性有機汚染物質。海洋生物に取り込まれたPCBsの一部は、やがて生物の死骸の断片とともに、海洋表層から深層へと沈降していく。世界でもっとも深い、西太平洋のマリアナ海溝のなかにあるチャレンジャー海淵(水深1万920メートル)で採取されたエビ類の体内から、高濃度のPCBsが検出された。恐るべきことだ。
海水中では、光と音は、対照的だ。海水中で、光はほとんど通らない。これは、水の分子が光のエネルギーをさかんに吸収してしまうからだ。音については、海水はきわめて優れた伝導体となる。海中では、空気中に比べて4倍以上の速さ、毎秒1500メートルだ。
宇宙を飛行した人類は全世界に550人をこえた。これに対して、水深1万メートル以上の深海底に到達した人類はわずか3人のみ。
調べてみると、深海の海溝水は豊富に酸素を含んでいることから、海溝の内部と海溝の外側とで、海水の入れ替わりがひんぱんに起こっていた。
地球も海も、まさに生きているのですよね・・・。宗教家は、それでも、地球も海も、神がつくったと説明するのでしょうか、不思議です。
(2018年9月刊。1000円+税)

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2019年2月12日

鷹と生きる

鳥・人間

(霧山昴)
著者 谷山 宏典 、 出版  山と渓谷社

鷹使いとして生きてきた松原英俊氏の半生を紹介した本です。
こんな生き方もあるんだね・・・、驚嘆しながら一気に読了しました。
松原(以下、この本にならって呼び捨てします。他意はありません)は、慶応大学を卒業している。鷹使いを志して1974年9月に鷹匠に押しかけ弟子入りし、1年半後に独立した。
電気もガスも水道も通っていない山小屋に移り住み、鷹と暮らした。
鷹はクマタカ。居間にクマタカがいる。これが日常生活。
鷹匠は、かつて中央または地方の権力(天皇家や将軍家、または大名家)に属し、鷹の捕獲、飼養、訓練にあたっていた役職名。これに対して、鷹使いは、役職でもなんでもなく、鷹を飼養、訓練して鷹狩を行うことが出来た農民や猟師を指す。
山形県鶴岡市の田麦俣(たむぎまた)集落に生活していたが、今は同じ山形県内の天童市田麦野に住んでいる。
東北地方の山間農村部に伝わる鷹狩では伝統的にクマタカが用いられる。クマタカは翼を広げたとき、オスで1.5メートル、メスで1.65メートルになる。オオタカやハヤブサより大きい。獲物は鳥類、ヘビ、ウサギ、テン、リスなど。木々の間をぬって飛ぶのが得意なので、山岳地帯の森林での狩りに向いている。
クマタカは神経質なので、そのままの状態で人に慣れることはない。時間をかけた地道は訓練が必要。秋、10月下旬から11月ころ、鷹の訓練を開始する。訓練は5段階。据え、絶食、据え回し、呼び戻し、突っ込み。据えとは、鷹を腕に留まらせること。
鷹を慣らすためには、一に据え、二に据え、三、四がなくて、五に据え。据えは、鷹狩りにおける基礎中の基礎。鷹を人の腕に据えさせるためには、いくつかの段階を踏まないといけない。第一段階では、光の入らない真っ暗な部屋で、ほかの生きものの気配が感じられない環境の下でやる。鷹は何も見えず、飛べないため、おとなしく鷹使いの腕に乗る。暗闇のなかでの据えを数日間続けると、次に部屋のなかにろうそくを灯す。はじめは部屋の反対側にろうそくを置く、その薄くほのかな明るさに1週間ほど慣らす。そして、徐々にろうそくを自分と鷹のほうに近づける。1本の光に慣れたら、次にろうそくの本数を増やしていく。こうやって、鷹使いがすぐそばにいることにさせる。暗室での据えが十分できるようになったら、夜の居間で家庭用の照明の明るさに慣らす。次に夜明けごろの薄明かりの外光に慣らし、最終的には日中の明るい状態でも鷹使いの腕におとなしく留まっている状態にする。この据えの訓練には2週間から3週間かかる。
据えの訓練と同時に「絶食」も開始する。鷹は満腹の状態では、獲物を見つけても飛びかかっていかない。過度な絶食は鷹を餓死させてしまう。はじめに10日間絶食させて、その後、ウサギやニワトリなど脂身の少ない肉を与える。次に1週間、絶食させて肉を与え、5日間絶食させて肉を与え・・・と、徐々に絶食期間を短くし、餌の量を調整していく。
最後の仕上げは、「突っ込み」。獲物を捕まえるための訓練。勢子が雪原に獲物を放ち、鷹が逃げる獲物を目がけて一直線に飛んでいく。そして、鋭い爪でがっちりと獲物をつかみ、押さえ込む。これができるまで、1ヶ月半。長いと2ヶ月から3ヶ月かかる。
いやあ、大変な訓練ですよね。気が長い人でないとやれませんよね・・・。
もっとも鷹狩りに適している時期は2月末から3月、4月。
山に入ると、地図はほとんど見ない。目の前の地形を見て、狩りができそうな場所を探す。
鷹は、4キロ先にいる動物を見つける視力をもっている。狩りが成功する確率は、10回のうち、よくて3回ほど。ウサギは身をかわすのがとにかくうまい。
鷹が獲物をつかまえると、走って行って、取り上げる。そして、鷹が怒って泣き叫ぶので、餌箱の肉を少しほうびとして与える。鷹の好物の心臓やレバーをほうびとして与える。
ひと冬にだいたいウサギを10羽から15羽とる。昔はひと冬に平均200羽ほどとっていた。
ウサギの肉は、鍋や刺身にして食べる。ウサギの肉は1羽2000円、毛皮は50円ほどにしかならないので、商売にはならない。
鷹使いでは生活できない。それで、アルバイトをするし、生活でムダづかいはしない。
よくぞ、こんな生活で結婚できたと不思議です。山好きの女性とめぐりあい、子どもも出来ました。いやはや、すごい生活です。それでも、こんな人生を過ごす人が世の中にいることを知ると、なんとなく生きる元気が出てきますよね・・・。
(2018年12月刊。1600円+税)

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2019年2月13日

村役人のお仕事

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 山﨑 善弘 、 出版  東京堂出版

徳川社会は、村を基盤とした兵農分離の社会であり、村の運営は村役人らによって支えられる傾向が非常に強かった。
徳川社会を構成している最大の要素は村だった。その構成員の大半が百姓で、全人口の8割前後。支配者である武士は1割以下。
全国の村の数は、元禄10年(1697年)の時点で6万3千ほど。
領主は名主を中心とした村役人を通じて間接的に百姓を支配する方法をとった。幕藩領主は、村役人に村政を代行させることで、全国6万3千の村々を掌握し、百姓を支配した。
村の総括責任者は名主(なぬし)。地域によっては、庄屋あるいは肝煎(きもいり)。
名主は家格にもとづき領主によって任命されることが多く、百姓たちの推薦があるときでも、領主の許可が必要だった。
組頭(くみがしら)は、百姓の推薦や入札(いれふだ)で選任されるのが一般的だったが、この場合も領主による許可を必要とした。百姓代の選任方法は、百姓の推薦が一般的だった。
村は自治の単位であり、村役人がその先頭に立っていたことは事実だったが、村は幕藩領主によって支配の単位とされ、村役人はその内部で領主支配を実現する任にあたっていた。
村役人のうち、ときに重要な立場にあったのは名主で、名主は村の政治と自治の両方を担う存在だった。つまり、名主は村の行政官であるとともに村の代表者でもあった。
庄屋は村民の一員として公認され、村政を委任されていた。
村民は庄屋を、あくまで彼らの一員として公認し、村政を委任する形をとることによって、自分たちの代表者としてとらえ返した。
名主を中心として不断に働く村の自治に依拠することで、幕藩領主は村の支配も円滑に行うことができた。前者(村の自治)が後者(村の支配)を補完していた。
一般百姓が選挙によって名主を選んだことから、名主が村の代表者として位置づけられていたことは明らかだ。
年貢の徴集と上納は、名主の仕事のなかで、もっとも重視されていた。年貢や諸役などを村に上納させる制度を「村請(むらうけ)制」と呼び、その中心的役割は名主が担った。
名主は、ほとんど名誉職のようなものだった。
江戸時代、百姓はきちんと休んでいた。ただし、百姓の休日は全国共通ではなかった。徳川時代の百姓の休日は村ごとに決められていた。
徳川時代の後期には、商品・貨幣経済の進展によって農村内にも華美な風俗が浸透していった。そして、貧富の差が拡大した。
名主の仕事は、税務・警察・裁判などに及ぶ幅広いもの。徴税を行い、治安の維持に携わり、裁判権がなくても村の紛争解決にあたった。
大庄屋は、庄屋の上意に位置する村役人だった。大庄屋は村役人であり、百姓から任命された。自治を行うような性格(惣代性)はもたず、もっぱら藩権力の領内支配を担う藩役人的存在だった。
村の構成そして自治の実際を知ることが出来る、面白い本でした。
(2018年11月刊。2200円+税)

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2019年2月14日

目の眩んだ者たちの国家

韓国

(霧山昴)
著者 キム・エラン、キム・ヘンスク その他 、 出版  新泉社

あまりのむごさに、この事件を思い出すたびに胸が詰まります。
今から5年前、2014年4月16日、修学旅行中の高校生を中心に304人もの犠牲者を出したセウォル号の惨事について、韓国の文学者たちが語っています。読みすすめるにつれ、本当に切なくて、胸がつぶれる思いです。
368人と言ったかと思うと164人だと言う。何日か後には174人と言い、またすぐに今度は172人だと言う。船が傾いてから、7回以上も訂正が繰り返された。
事故当日、外国のマスコミが遭難者の水温別の生存可能時間について報じているときに、韓国では死亡保険金の計算をしていた。
船会社も政府もセウォル号に乗船していた人数さえも正確に把握できず、数字にすらあらわれない彼らは、いまも海の底で冷たく、固くなっている。
沈没するセウォル号の巻き添えを食って船が転覆しないように、遠くへ離れていたという海洋警察123艇が、ただ一度だけ船に近づいて直接救助したのは、その船の運航に責任のある船長をはじめとした乗務員たちだった。
自分の判断で船から脱出した人たちを除いて、じっとしていなさいという船内放送にしたがって客室で待っていた乗客はただの一人も救助されなかった。
修学旅行の壇園高校の生徒たちをはじめ乗客の大部分は、船内放送の指示どおり「じっと」していた。冷静で落ち着いて協力的な人は無惨に死ぬしかない、というこの真実は、経済成長という化粧の下に隠された韓国社会の素顔なのかもしれない。
日本で18年も運航していた古い船で、無分別な規制緩和のおかげで輸入された船だった。修理はいつでも応急措置だったし、無理な改造と増築で船の重心は高くなっていた。より多くの貨物を積むために、船体の安定に絶対的な影響を及ぼすバラスト水は大量に抜かれていた。
船長は契約社員で、一等航海士と操機長は出航前日に採用された職員だった。
出航直前、船員たちは出航を拒否したが、船会社が平身低頭で頼み込んで出航したという。
霧が深く立ち込める夜だった。他の旅客船はすべて出港を中止したので、その夜、仁川港を出港した船はセウォル号だけだった。翌日、船は沈没した。
政府は全力をあげて救助活動を行っているとの速報がゴールデンタイムの時間に流れた。全部嘘だった。救助隊員726人と艦艇261隻、航空機35機を集中投入した史上最大規模の捜索作戦を繰り広げるという記事もあった。史上最大規模の嘘だった。
国家が国民を救助しなかった「事件」なのだ。国家が国民を守るという義務を怠ったとき、国家はどんな処罰を受けるべきなのか?
何か間違っているとは思っていたけれど、まさかこれほどまでとんでもなく壊れていたとは・・・。この国の民主主義は、すでに遠くに流され、いまはもう、民主主義とは似て非なる体制に移行しつつあるとは思っていたが、国家の基本的な機能さえ果たせないほど無能になっているとは、ついぞ知らなかった。
どうですか、これは隣の韓国の話ではなく、私たち日本の国についての指摘ではありませんか。国の行政の基礎をなす統計がインチキしてごまかされ、それをまったく不問に付してしまう。
韓国に対しては「間違っている」と根拠なく声高に決めつけておきながら、ロシアのプーチン大統領に対しては「日本固有の領土」とも言えない。アメリカのトランプ大統領にたいしては、もみ手ですり寄って、必要もない有害でしかない欠陥ステルス型戦闘機を147機も購入(爆買い)する。そして、奨学金は有利子にし、年金は減らし、介護保険料は値上げする。とんでもない間違った政策が続いていて、ストップがかからない。
国民を守るための(はずの)政府が、国民を戦場に追い込み、殺し、殺されるように追いやっていながら、それに反対の声が上がらぬようマスコミ統制を強化する。
背筋に詰めたいものが流れていきます。今後はぐっすり眠れそうもありません。日本の現実にも思い至らせる、すばらしい、目のさめるような本です。
(2018年5月刊。1900円+税)

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2019年2月15日

監視社会をどうする!

社会

(霧山昴)
著者 日弁連人権擁護大会実行委員会 、 出版  日本評論社

先日、Tポイントの個人情報が警察に提供され、容疑者の日頃の生活パターンがつかまれて逮捕されたという報道がありました。Tポイントをつかって、ポイントを貯めるということは、そのお金で自分の個人情報を第三者に売り渡していることを意味していることが証明されたわけです。
私は、ホテル宿泊のときのクレジットカードと乗り物用のカードの2枚しか持っていません。どちらも私の行動パターンを察知できるものではありますが、これがないと、あまりにも日常生活に不便ですから、仕方がないと割り切っています。他のカードは一切持たないようにしています。スマホも持ちませんし、ガラケーですので、位置情報は与えていないつもりです。
個人情報の管理をとやかくうるさく言う人が多い割には、権力と金もうけのための利用には抵抗しない人が多いのには信じられない思いです。
この本は2017年10月に滋賀県大津市で開かれた日弁連人権擁護大会シンポジウムの内容を紹介したものです。エドワード・スノーデン氏もライブインタビューで大画面によって登場しました。
スノーデン氏は、まだ何か重要な情報をもっているのではないかと誤解する人が多いけれど、もう文書はもっていない、ジャーナリストに提供していると語りました。
インターネットの世界では、情報は実際に既に濫用されている。
アメリカが日本を経済的にスパイしていないか・・・。アメリカ政府は公式には否定している。しかし、本当のところ、アメリカは日本でスパイ活動をしている。今日では、数百万、数千万、数億の人々をスパイするのがあまりにも安価なコストで、できる。
スノーデン氏はCIAのエージェントとして東京の福生市に居住し、横田空軍基地につとめていたことがあります。そのとき、ペンタゴン日本代表部の部隊にいて、日本の防衛省の諜報機関である情報本部と密接に協力しながら仕事をしていた。
ナチスのゲッペルス宣伝大臣は、社会における人々の私生活と通信、さらには思考のすべてに対する管理を正当化しようとした。そうすることによって、ナチスが社会を支配することが容易になるからだ。
プライバシーとは、何かを隠すことではない。プライバシーとは守ること。プライバシーとは、開かれた社会を開かれたまま保ち、人間の自由な生き方を自由に保つこと。
パノプティコンとは、暴力を用いない暴力装置、目に見えない力による主体性抑圧装置である。
防犯カメラに映った歩く姿から特定の人物かを鑑定できるソフトウェアが開発されている。2歩分の映像があれば、高精度で鑑定できるというのが、ソフトを開発した企業のキャッチコピーです。本当に恐ろしい世の中になりました。
秘密保護法の運用が始まり、適性評価を受けた人は既に12万人に近い。不適正とされた人は1人のみ。評価を拒否した人は46人、同意を取り下げた人が3人いた。適性評価はプライバシー侵害の程度がひどいので、拒否や同意の取下げは当然ありうるもの。これによって不利益に扱われないよう監視しておく必要がある。
田村智明弁護士(青森県)からすすめられて読みました。大変勉強になりましたが、情報管理と情報操作の恐ろしさが身にしみました。それにしても政府統計のごまかしはひどすぎますよね。安倍内閣は総辞職すべきほどの重大なインチキですが、しれっと開き直っている首相と大臣の顔を見て、思わずスリッパで顔をはたいてやりたくなりました。
(2018年9月刊。2500円+税)

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2019年2月16日

あちらこちら文学散歩

フランス

(霧山昴)
著者 井本 元義 、 出版  同人誌『海』抜刷

アルチュール・ランボーの足跡をたどった詩人による探訪記であり、随想集です。
19世紀末のフランスで活躍したランボーは、若き詩人として数々の傑作を発表したあと、突如として文壇から姿を消し、アフリカでは武器商人として行動します。そして、37歳で亡くなるのでした。
著者はランボ―に関する本を数十冊読み、フランスでランボーの生まれ育ち、活動した地を訪ね歩きました。ロッシュ村にあるランボーの墓石は何度も撫でたということです。
なぜ、ランボーは詩を書くのを止めたのか。書くことに何の意味も感じなくなったのか。書けなくなったのか。絶望したのか、それともふてぶてしく生きていたのか・・・。
パリのムフタール通りには、「バー・バトーイーヴル」がある。「酔いどれ小船」と訳される詩はランボーの最高傑作の一つ。このとき、ランボーは、まだ16歳だった。
著者は、会社経営を引退すると、年に3ヶ月ずつ、3年間をパンテオンの近くのアパルトマンに居を構えてパリをさまよい歩いたといいます。すばらしいことです。とても真似できません。
ランボーは、ヴェルレーヌと同世代、そして二人ともパリ・コンミューニのころに生きていました。
ランボーは彗星のように出現し、スキャンダルとともに消え去り、その後は居場所も分からない謎の詩人として名声を博しました。もちろん、本人はそんなことは知りません。
フランスを去ってアフリカで武器商人としてもうけようとしてランボーは失敗してしまいます。
著者は私のフランス語仲間です。2015年にはフランス政府観光局主催の「フランス語で俳句」というコンクールに応募して優勝し、フランス旅行に招待されました。すごいです。
著者のあくなき探究心と文筆活動に大いに刺激を受けています。
(2019年1月刊。非売品)

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2019年2月17日

古墳の被葬者を推理する

日本史(古代)

(霧山昴)
著者 白石 太一郎 、 出版  中公叢書

天皇陵の発掘が許されていないのは、現代日本で生きる私たちにとって日本史の真実が分からない点で、大変困ることだと思います。天皇制をタブーにしてはいけません。
大王はいつから天皇と呼ばれるようになったのか、継体大王はどこから来たのか、万世一系というのは本当なのか、朝鮮半島からの渡来人と日本古来の人々との混住、混血はどのようにすすんでいったのか・・・。知りたいことはたくさんあります。天皇陵の学術的発掘がすすめば、これらの謎の解明も一歩すすむことになると思うのです。「倭の五王」とは誰を指すのか、その墓はどこにあるのか・・・、ぜひ知りたいですよね。
著者は、箸墓(はしはか)古墳は、奈良盆地東南部に営まれる初期の歴代倭国王墓の最初のものであり、その造営年代が3世紀中葉ないし中葉過ぎであることから、『魏志』倭人伝に記された倭国女王の卑弥呼が被葬者の有力候補であるとします。断定できないけれど、その蓋然性はきわめて大きいというのです。
ヤマタイ国九州説の私にとっては残念な結論です。
継体大王の墓が、高槻市にある今城古墳であることは、ほとんどの研究者の意見が一致している。継体が王位継承を主張しても、これを認めない勢力が畿内にも多くいて、即位の20年後にようやくヤマトの宮殿に入ることができた。
継体大王は、入婿の形でヤマト王権の王統につながることができた。
蘇我稲目の墓は明日香村平田の梅山古墳、蘇我馬子の墓は明日香村島庄の石舞台古墳と考えてよい。
私は残念なことに、明日香のこれらの古墳にまだ行っていません。ぜひ、現地に立って古墳現物をじっくり見てみたいと考えています。
(2018年11月刊。2000円+税)

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2019年2月18日

脳からみた自閉症

人間・脳


(霧山昴)
著者 大隅 典子 、 出版  講談社ブルーバックス新書

自閉症は、正式には自閉症スペクトラム障害という。スペクトラムとは、連続体のことで、症状が重いものから軽いものまで幅が広いことを意味している。
自閉症は、いわゆる発達障害の一つで、世界のどこの国でも80人から140人に1人は自閉症とされていて、珍しい障害ではない。
自閉症の三大特徴は、社会性の異常、コミュニケーションの障害、常同行動だ。
社会性の異常とは、親とも目をあわさない、人が指をさした方向を見ようとしない、まるで耳が聞こえないかのように名前を読んでも反応がないというもの。そして、自分が知っていること、他人が知っていることの区別ができない。
常同行動とは、同じ行動を繰り返すということ。同じコトバを何度も反復する、同じ動きをやり続ける、一定の場所にとどまって動かないなど、そのあらわれ方はさまざま。ただし、自閉症の常同行動は、極端な集中力のあらわれでもあり、あながち否定されるべきものではない。
ある種の音、光、匂い、触感などに過敏な自閉症児は少なくない。
アスペルガー症候群とは、知的障害をともなわないタイプの自閉症。
ニュートン、アインシュタイン、モーツァルト、ベートーベン、ビル・ゲイツも、みな高機能自閉症だ。
発達障害は、親の「育て方」によって生じるものではない。
自閉症とは、脳の器質的な障害である。すばやい神経伝達ができていないと思われる自閉症の症状には、シナプスの刈り込み不足や、刈り込みムラなどが関与している可能性がある。
自閉症といっても、それぞれの病態は、みな少しずつ違う。
自閉症の人は、脳の左右差が健常者よりも大きい。
親も子も自閉症になるケースは少ない。3%でしかない。
自閉症は、この40年間に、なんと70倍以上に患者数が増加した。その急増の原因は何か・・・。
「パルプロ酸」という抗てんかん薬は、自閉症につながる可能性がある。
父の加齢と子の自閉症のあいだには相関性が認められる。
自閉症をはじめとする発達障害において「親の育て方」が原因であることはない。基本は、脳の発生や発達に関するトラブルから起こる生物学的な障害。ただし、育つ環境が、症状のあらわれ方にまったく無関係だとは言い切れない。
人間と脳について、基礎的なところから深く追求している様(さま)がよく分かりました。
(2016年4月刊。900円+税)

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2019年2月19日

学校の「当たり前」をやめた

社会

(霧山昴)
著者 工藤 勇一 、 出版  時事通信社

東京のド真ん中にある、あまりにも有名な名門中学校、麹町(こうじまち)中学校では、宿題をやめ、中間・期末テストを廃止し、クラス担任も置いていないというのです。驚きます。
それを率先してすすめている異色の校長による教育実践の記録です。
この本を読むと、画一的教育は子どもにとってよくないと、しみじみ私は思いました。
学校は、いったい何のためにあるのか・・・。
いま、日本の学校は、本来、学校がになうべき目的を見失っているのではないか・・・。
学校は、子どもたちが社会のなかでよりよく生きていけるようにするためにある。
そのためには、子どもたちには、自ら考え、自ら判断し、自ら決定し、自ら行動する資質、つまり自律する力を身につけさせる必要がある。
まず、夏休みの宿題をゼロにした。宿題をなしにしたことで、自分に重要でない非効率な作業から生徒たちが解放されて喜んだ。
次に、中間・期末テストなどの定期考査を全廃した。その代わり、単元テストをし、学習のまとまりごとに小テストを実施している。そのうえ、年に3回だった実力テストを年に5回に増やした。実力テストは出題範囲が事前に示されないため、生徒の本当の学力を測ることができる。
クラス担任は固定せず、学年の全教員で学年の全生徒をみる「全員担任制」をとっている。学級崩壊は、まとまりのあるクラスとないクラスとの格差が大きいときに起きやすい。これによって、「勝ち組」「負け組」の意識が薄まった。
運動会のクラス対抗も廃止した。1日限りのチームの対抗試合にした。運動会は、運動が苦手の生徒も楽しめるものにし、生徒会主催行事とした。
不登校の子がいたら、学校に来たくなかったら、「別に無理して来なくていいんだよ」と言う。もう自分を責めないでね。何も変わらなくていいんだよ、そう話しかける。
いやあ、まいりましたね。校長先生からこんなふうに、言われたら、心が安まりますよね・・・。
授業中、見返すことがないのならノートは取らなくていい。
模擬裁判も毎年やっているそうです。すごいです。台本がないものです。信じられません。すごすぎます。
公立中学校でも、こんな意欲的な取り組みをしているところがあるのを知り、心が驚きと喜びでうち震えてしまいました。ちなみに、私も公立中学校で学びましたし、県立高校に進学しました。いろんな生活・家族背景の生徒がいて、それなりにもまれましたが、本当に良かったと思います。
(2019年1月刊。1800円+税)

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2019年2月20日

一路

司法

(霧山昴)
著者 環 直彌 、 出版  日本評論社

裁判官懇話会の呼びかけ人の一人として私も名前だけは知っていましたが、なんと特捜部検事だったこともあるのですね。驚きました。検事、判事、そして弁護士と渡り歩いていますが、そこには一本の太い筋が通っています。
戦前の思想検事がエリートだったこと、裁判官は検事に逆らえず、検事の言いなりだったことを改めて認識しました。
一高を出て、優秀な人間を選んで思想検事にしていた。裁判官は、検事さんがおっしゃるんだから間違いないと、確かめもしなかった。
敗戦で思想検事がやめた(パージになった)だけで、他は何も変わらなかった。裁判官も検事も、公職追放以外は、まったく手がつかず、そのままだった。
戦後、弁護士になってチャタレイ事件の弁護人になります。百里基地訴訟で地主側の代理人にもなりました。そして、そのあと再び裁判官になったのです。それにしても11年間の弁護士生活のなかで12件もの無罪判決をとったというのですから、えらいものです。
東京地裁の裁判官のとき、戸別訪問禁止違反で起訴された被告人について無罪判決を出しています。公選法は違憲だから無罪だというのではありません。本件では有罪するまでの必要性もなく無罪、という判決でした。
宮本康昭裁判官の再任拒否があったとき、それを公然と批判し、裁判官懇話会の呼びかけ人になりました。懇話会の第1回は昭和46年(1971年)10月です。ちょうど私が司法試験の口述試験を受け終わった直後です。
定年退官したあと、再び弁護士になり、横浜事件の再審事件に関わります。
権威に弱い、批判精神に乏しく、安直に能率的な裁判官が増える傾向にあるとすれば、由々しい問題だ。
裁判官は、学者ほど頭が良い必要はない。良心こそ大切なのだ。頭の良い人は、相反するどちらの見解を正当らしくみせかける能力がある。もし、その人に裁判官の良心に欠けるものがあると、もっとも危険な存在になる。
まさしくそのとおりだと思います。
福岡で長く裁判官をしていて、現在は弁護士である西理氏が弟子の一人であることを初めて知りました。今、裁判所の内部にいる人にぜひ読んで欲しいと思った本でした。
(2019年1月刊。1400円+税)

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2019年2月21日

原発ゼロ、やればできる

社会


(霧山昴)
著者 小泉 純一郎 、 出版  太田出版

あの3.11から8年たちました。原子力発電所が事故を起こしたときの怖さを多くの日本人がすっかり忘れたかのように、原発再稼働がすすんでいて、私は不思議さと恐ろしさの双方を実感しています。
小泉元首相は、自分は騙されていた。原発は安全だと思い込んでいた。でも、それは嘘だった、嘘だと分かったからには原発に反対せざるをえないと主張しています。まったく同感です。
3.11事故のとき、日本は下手すると5000万人もの人々が非難しなければいけないところだった。幸い、そうはならなかったけれど、あのとき、アメリカは、米軍人の家族にアメリカ本国への帰還命令が出ていた。それほど深刻な事態に直面していた。
5000万人というと、日本の全人口の半分に近いものですし、首都東京に人が住めないということです。こんな狭い島国ニッポンのどこに逃げる場所がありますか・・・。
この本には書いてありませんが、「北朝鮮の脅威」を声高に言う人が、原発へのテロ攻撃の危険性に言及しないのが、私には不思議でなりません。
著者の主張はきわめて単純明快です。
総理大臣という責任ある立場でありながら、どうしてあんなウソを信じてしまったのか、じつに悔しいし、腹立たしい。
世界全体で原発の占める割合がどんどん下がっているというのに、日本政府は、世界の動きと反対の方向に進もうとしている。
騙されたことが分かったら、そのまま騙され続けるわけにはいかない。知らないフリをして間違いをそのままにしておくのは、よほど無責任なこと。
3.11は、自然災害ではなく、人災だ。
原発に関する基準が、日本は世界一厳しいということはない。たとえば、日本ではまともな避難計画を用意していない原発がたくさんある。
日本は原発ゼロをすでに経験したが、何も不都合は起きなかった。原発ゼロでも、自然エネルギーで日本は十分やっていける。
私が不思議なのは、自民党・公明党を支持する人たちが原発再稼働を本気で容認しているのだろうか、ということです。いやいや、原発問題とは別のことで自・公を支持しているというのかもしれません。でも、原発って、たくさんある問題点の一つというレベルではなくて、私たちと子々孫々が今後も生存していけるかどうか、という極めて重大なことなのではありませんか。
本分136頁で1500円の本です。ぜひ、あなたも手にとって読んでみてください。
著者がすすめた郵政民営化によってひどい目にあっていますが、原発問題では著者の提唱に異存はありません。原発は私たちの生存そのものがかかっている、きわめて重大な問題だと思います。
(2019年1月刊。1500円+税)

 フランス語検定試験(準一級)の合格証書が届きました。やれやれです。これで2009年以来、8枚目になります。口述試験の成績は23点で、合格基準点23点と同じですので、ギリギリでパスしたわけです。ヒヤヒヤものです。ちなみに合格率は17.4%とのこと。フランス語の力が低下しているのを心配していますが、毎日の勉強のなかで、1分間暗誦できるよう心がけています。もちろん、口に出して言うようにしています。黙読だけではダメなんですよね、語学は・・・。これからもフランス語、がんばります。

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2019年2月22日

公卿会議

日本史(平安時代)

(霧山昴)
著者 美川 圭 、 出版  中公新書

貴族政治って、意外にも会議体をもって議論して決めていたのですね。驚きでした。
公卿(くぎょう)とは、貴族の上層の人たちのこと。
律令制のもとには、太政官(だじょうかん)の議政官会議というものが存在した。議政官とは、左右内大臣、大納言(だいなごん)、中納言、参議らのこと。
太政官がいかなる提案をしたとしても、天皇はそれに制約されずに決定できるというのが律令制の原則。天皇と太政官は対立的に存在しているのではなく、天皇を輔弼(ほひつ)する太政官議政官の会議は、天皇の君主権の一部を構成していた。
藤原道長は摂政にはなったが、関白にはなってはいない。一条天皇は外戚(母の父)である道長の言いなりの人物ではなかったので、道長の立場は盤石ではなかった。
一条天皇が亡くなり、皇位を継承した三条天皇は、道長に関白就任を要請するが、それを道長は受けなかった。道長は関白ではなく、内覧左大臣の地位を自ら選択した。
三条天皇は眼病のため失明に近い状態となった。その三条天皇に道長はたびたび譲位を迫った。そして、後一条天皇が即位すると、外祖父の道長は摂政となった。
幼帝のもとで、奏上なしに決裁できるのが摂政。天皇が成人となったとき、奏上や招勅発給などに拒否権を行使できるのが関白。
摂政にも、関白にも、内覧の職務が包含されるから、制度上は摂関になったほうがよい。
天皇の外戚という非制度的な関係をもたないときには、権力が弱体化する恐れが常にあった。摂関政治といいながら、外戚、つまり天皇のミウチであることが、とても重要だった。
このころ、実務能力をもった貴族たちが、蔵人頭(くろうどのとう)を終えたあと、公卿として陣定に出席するようになった。
道長は関白として公卿会議に超然として臨むよりも、会議の中に身を置いて、彼らの信頼を得ることが重要だと考えた。そのため、あえて一上(いちのかみ)、つまり筆頭大臣として会議の中にとどまり、現場で発言しながら会議の進行をリードしようとした。
三条天皇のころは、もはや道長に対立する貴族はほとんどいなかった。それでも道長は関白にならなかった。道長は、内覧で一上左大臣という立場の有効性を確信していた。
そして、外孫である後一条天皇になると、初めて一上左大臣の地位を離れて、摂政に就任する。以後、道長は陣定に出席していない。
170年間、藤原氏は天皇の外戚を独占した。
御前での公卿会議が、天皇と関白の対決の場になった。
13世紀の日本では、神社の荘園が押収されたため訴訟が次々に起こされ、朝廷にもち込まれた。院政期には、所領相論(そうろん)、つまり不動産紛争の問題が、陣定(じんのさだめ)の議題として多くあがった。
日本人は昔から紛争が起きるとすぐに「裁判」に訴えていたのです。日本人が昔から裁判が嫌いだなんて、とんでもない嘘っぱち、私は、そう確信しています。
13世紀、雑訴評定においては、訴人(原告)と論人(ろんじん。被告)の双方を院文殿(いんのふみどの)に召し出して、その意見を聴取することになった。これが文殿庭中(ふどのていちゅう)である。
鎌倉時代の後期には訴訟が増大した。鎌倉後期には、幕府が訴訟の増大に対処することに追われた。貴族の分家が対立し、貴族内部の争いが家産、官位の争奪というかたちをとって深刻化したため、朝廷での裁判の重要性はいっそう高まった。
圧倒的な軍事力をもつ鎌倉幕府が成立してから200年、承久の乱で敗北してから150年、ほとんど幕府に対抗できる武力をもたない朝廷が、合意形成をしながら政治権力として一定の統治能力を維持したことは再評価してよい。宮廷貴族たちは、院や天皇のもとに結集して、公卿会議で論戦しつつ、朝廷を自立的に運営していった。
朝廷と貴族(公卿)の関係について、難しいながらも面白い本でした。宮廷貴族たちは、意外なほど会議での合意を目ざし、それなりの努力を続けていたのでした。
(2018年10月刊。840円+税)

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2019年2月23日

大名家の秘密

日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 氏家 幹人 、 出版  草思社

この本を読むと、つくづく、江戸時代も現代日本と共通する思考があったことに気がつき、驚かされます。いえ、もちろん、この本のなかでは同じ江戸時代でも考え方が大きく変わっているという指摘がなされていて、すべて同じだったということではありません。
たとえば、残虐な復讐が平気でなされていた時代がありました。でも、親と子の難しい関係や勢力争い(派閥抗争)、からかいや嫉妬が横行していたことなど、現代日本の大企業で起きていることにつながっていると思わずにはいられませんでした。
江戸時代の下級武士、町人そして庶民の本当の生態を知りたいなら、『世事見聞録』(青蛙房)をぜひ読んでください。なんだなんだ、現代日本で起きていることは江戸時代に起源があった(いえ、当時も同じだった)ことを知ることができます。たとえば、江戸時代の庶民の家庭ではカカア天下がどこでもあたりまえで、亭主は女房の尻に敷かれてもがいていたなんてことが手にとるように分かります。
この本は、四国の高松藩士である小神野(おがの)与兵衛が18世紀半ばに書いた『盛衰記』と、それを徹底的に検討した中村十竹の『消暑漫筆』によって、水戸藩の初代殿様である徳川頼房(よりふさ)、2代の徳川光圀(みつくに)、そして高松藩の初代殿様の松平頼重(よりしげ)、2代の松平頼常という殿様の行状を生々しく明らかにしていて、とても興味深い読みものになっています。
そこでは、武士の忠臣美談など「武士道」のイメージなんてまるで通用しません。江戸前期の激越な武士世界(ワールド)を目のあたりにすることができます。ぜひ、あなたも覗いてみてください。
頼重は徳川頼房(徳川家康の末子)の最初の男子でありながら、頼房の命で見ずにされる(堕胎)ところを、家臣に救われ、京都で少年時代を過ごしたあと、頼房の養母(英勝院)の尽力で徳川家光に拝謁し、高松藩主となった。また、頼重の弟である徳川光圀は、本来なら兄の頼重が継ぐべき水戸徳川家を自分が継いだことを悔い、兄頼重の子を水戸藩主に迎えようと考え、自身がはらませた子を強制的に水にするよう命じた。こうして光圀の長男である頼常もまた犠牲になるところだったが、頼重の尽力で無事に誕生し、京都に身を隠したあと、こっそり高松に迎えられた。
家光もまた、長男でありながら父母に嫌われ、祖父の家康と春日局(かすがのつぼね)の力で継嗣となった。このように、親子の情愛から疎外された者たちが、それぞれに絆(きずな)を求めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」
は私も知っています。ところが、
「ゆびきり、かまきり、これっきり」
「ゆびきり、かまきり、嘘ついたものは地獄の釜へ突き落せ」
「ゆびきりげんまん、嘘ついたらカマキリのタマシイ飲ます」
いろいろなヴァージョンがあるのですね、驚きました。
頼房は威公、頼重は英公、頼房は青年時代、かぶき者だった。ところが、青年期を過ぎても、頼房は泰平の世にうまく順応できなかった。
光圀も、若いころは、キレると何をするか分からない乱暴者。とりわけ16.7歳のころは、奔放なふるまいが目立った。三味線を弾き、刀は突っ込み差し。衣服は伊達に染めさせ、襟はビロウドという典型的なかぶき者ファッションで、両手を振りながら闊歩していた。このため、世間から、「とても水戸様の世子とは見えない。言語道断のかぶき者だ」と後ろ指をさされていた。
江戸初期には想像を絶する報傷(復讐)がありえた。たとえば、領主の苛政に対する不満が爆発し、年貢の取り立てに来た役人を殺害する事件が起きた(1609年ころ)。領主側は直ちに兵を差し向けてその村を包囲し、村人を皆殺しにした。
高松藩の2代殿様の頼常(節公)は、光圀の子だったが、水にされかけた。光圀の兄頼重(英公)の指示によって生後1ヶ月足らずで節公は京都に逃げて生きながらえた。
高松藩主として、英公と節公は、どちらも名君として定評がある。しかし、この二人のあいだには、終生、埋めることのない溝が横たわっていた。
英公は隠居してもなお、あまりに不遜で気ままに振る舞い、節公にはそれが気に入らなかった。そして、節公には、その息子に無関心で冷淡だった。
節公の子を流した家臣は徹底してイジメられた。ひそかに養育することを内心では期待していたのに、指示された言葉どおりに赤児を殺したことを命じた殿様(節公)は許せなかった。
こりゃあ、たまりませんね、家臣の身からすると・・・。
いやはや、江戸時代の殿様も大変だったんですね。しみじみそう思いました。
(2018年9月刊。2000円+税)

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2019年2月24日

熱狂のソムリエを追え!

アメリカ

(霧山昴)
著者 ビアンカ・ボスカー 、 出版  光文社

私は赤ワインを少々たしなみます。フランスを旅行するときは、カフェにすわって、コーヒーではなく、一杯のグラスワインの赤を道行く人を眺めながらちびりちびりと飲むのが楽しみです。夜のディナーのときは、大き目のグラスで2杯の赤ワインを飲みます。陶然とした気味を味わうのです。
この本は、ソムリエとは何かを究めようとしています。ソムリエとは、レストランでの食事のとき、ワインを選んですすめてくれる給仕役の人物です。ソムリエとは、フランス中部で駄馬を意味するソミエという語から来ていて、あっちからこっちへと物を運ぶ荷役動物的能力を発揮する仕事に就いた人物のこと。
高級レストランでは、一般に1杯のグラスワインに対して、そのボトル1本の卸値と同額を請求される。ボトルで頼むと卸価格の4倍を請求される。グラス4杯がボトル1本の値段になる。グラス売りのワインは誰にとってもおいしい商売だ。生産者と卸業者はグラス売りの場を欲しがる。というのも、商品の回転が速いし、安定して注文が入るから。
マスター・ソムリエのブラインド・テイスティングでは、25分で赤3本、白3本の計6本の評価をしなければならない。
第一段階でワインの外観を見る。グラスの脚をつまんで、手首を数回すばやく回す。ワインが回転し、グラスの内側に薄く付く。滴(しずく)の広がりとそのスピードを見守る。手をとめて、ころがり落ちる「涙」を観察する。濃くてゆっくりと落ちる涙は明らかに高アルコールであることを示し、いっぽう薄くてさっと落ちる涙は、またシート状になって落ちるときはアルコール度が低いことを意味する。
次は香り。グラスを持ち上げ、ほぼ床と平行になるまで傾けてワインの表面を空気にさらす。あらゆる角度からアロマを嗅ぐ。
一流のテイスターたちは、ソムリエコンクールに挑戦するずっと以前から舌と鼻を調整している。グラスの前に座る数日前、数時間前、数分前まで自分の身体をどう整えているかが、テイスティングと嗅ぐ技の結果を左右する。
テイスティング前の飲食と歯磨きをやめる。空腹状態で、フレーヴァ―を嗅ぐのだ。マスター・ソムリエ試験の前、舌がやけどしないように、1年半ものあいだ微温以上の飲み物は一切口にしなかった。冷たい飲食物だけの人もいる。テイスティングの前日は、重たい食事は避ける。生のタマネギ、ニンニク、強いカクテルも遠慮する。
合法的にワインに入れることのできる添加物は60以上もある。1000ドルもする樽の代わりに1袋のオークチップをつかう。コクがなければ、アラビアゴムで口あたりを重くする。メガ・パープルを数滴たらせば、ワインをふくよかにし、フィニッシュを甘くし、色を濃くし、青臭さを覆い隠してくれる。20ドル以下のワインには、すべて入っている。
高級レストランの売上げの3分の1はワインからというのが現実。ソムリエが店の運命を担っている。
完璧なソムリエとは、帰宅した客の記憶に残らないような存在でなければならない。
楽しい会話、客の懐(ふところ)具合と要望を知り、1000種もの候補のなかから適切な数本を選ぶのがソムリエの任務であるとしても・・・。
ワイン選びのむずかしさ、そしてソムリエの存在について教えてくれる本です。
(2018年9月刊。2300円+税)

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2019年2月25日

神さまがくれた漢字たち

人間

(霧山昴)
著者 山本 史也 、 出版  新曜社

はじめ、漢字は、おおむね亀のお腹の甲らや、牛や羊や鹿の肩胛骨に刻まれていた。なんと人の頭骨にも刻まれた。
殷(いん)の国が安陽に定着し、武丁(ぶてい)という王の時期に漢字の世界は成立した。
王は漢字をたよりに神の許しや助けをしきりに求めた。そして、もし要求が実現したときには、それは神の認めによるものだと確信した。そして、神と王とは溶けあい、一体化した。この融合によって、王自身は神とひとしく、神聖な存在となった。
漢字は3300年にわたって生き続けている。漢字ほど時間をこえて生命力をもち続けている文字は世界のどこにもない。
エジプト王朝にも文字があった。ヒエログリフだ。しかし、このヒエログリフは滅びてしまった。シュメール文字も線刻文字も学者の研究対象ではあっても、世界の誰もが使うことがない。
「民」の字は、もとは、大きい矢か針で目を突き刺す形だった。殷王朝を脅かす異民族を戦争で補え、その「人」の「目」に加える処罰を示すものだった。
「童」は、もとは「目」の上に入れ墨(ずみ)がほどこされた形。刑に処せられて僕(しもべ)の身分に落とされた者を「童」(どう)という。
「取」(しゅ)は、戦場で敵の首を討ち取ったとき、敵の左の耳を手で切りとるさまを示す字。
「文身」(ぶんしん)とは、身体に図柄や模様を彫りつけたり、塗りこめたりする聖化の方法のこと。「文」は、もともとは身体を清めるために施す図柄や模様を指していう語だった。
日本の江戸時代、大坂では初生児の男の子には「大」、女の子には「小」の文字を、その額に朱色をもって記した。そのしるしを「あやつこ」と呼んだ。
「女」の字は、両手を交えてひざまずく「女」の姿勢を表している。それは「男」に屈服しているのではなく、つつましく神に仕えて従っている姿。「女」とは、本来、神のかたわらにあることを許された特権的な性をいう。それが「女」の本質であった。
「母」の字は、「女」の胸にゆたかな乳房を加えたもの。「たらちね」とは、本来、満ちたりた乳房の意味。「母」の子をはらむ姿は、「身」の字で示される。
漢字の成りたちを、その根源から説明されていて、とても興味深く読みました。
(2018年5月刊。1300円+税)

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2019年2月26日

アメリカの大都市弁護士、その社会構造

アメリカ

(霧山昴)
著者 ジョン・P・ハインツ・ロバート・L・ネルソンほか 、 出版  現代人文社

今のアメリカの弁護士の状況が分かる本なのかな、と思って手にすると、実は、少し古くて、主として1995年までの状況が語られています。せいぜい2002年までです。したがって、20年ほども前の状況ということになりますが、最近出版されたということは、今日もあまり変わっていないということなのでしょう。
20世紀前半までは、アメリカの法律プロフェッションのエリートは、ユダヤ人弁護士を差別し、ロースクールと弁護士会は黒人と女性を締め出すための公式の防壁を打ち立てた。
1971年に、女性弁護士はわずか3%しかいなかった。しかし、1995年には女性弁護士は24%を占めていた。
2002年には、法律事務所のパートナーの女性は16%だった。有色人種はアソシエイトの14%と、パートナーの4%のみだった。
アメリカの弁護士会の内部では格差が拡大している。単独開業弁護士のもうけは1970年代はじめに始まった。シカゴの弁護士は、1975年から1995年の20年間で2倍になった。単独開業弁護士の収入は、10万ドルから5万5千に下がってしまった。
1995年に、最大規模の法律事務所の所有者は、前年の中位値が35万ドル(3500万円)だった。所得のギャップが著しく拡大した。
政府機関で働く弁護士の平均所得は、1975年の6万3000ドルから、1995年の5万ドルへ23%も減少した。
女性弁護士の所得は、男性よりも有意に低かった。1975年には27%低く、1995年には13%低かった。
シカゴの弁護士は、1975年には57%が民主党を支持し、1995年には55%となった。
シカゴの弁護士は、1975年には53%がビジネスに力を注いでいたが、1995年には3分の2が企業を顧客とする業務に従事している。
どの弁護士会にも所属していない弁護士の割合が1975年から1995年にかけて2倍となった。
日本とアメリカ、弁護士のあり方については、とんでもなく遠い存在のように思えますが、実は意外に共通点があることを思い出させてくれました。
(2019年1月刊。4800円+税)

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2019年2月27日

自衛官の使命と苦悩

社会

(霧山昴)
著者 渡辺 隆・山本 洋・林 吉永 、 出版  かもがわ出版

私の依頼者に自衛官は何人もいましたし、大災害救助のときの自衛隊出動には心から敬意を表しています。警察でも消防でもまかなえない役割を果たしている点は高く評価します。でも、自衛隊がイラクやソマリアに行き、ジブチに基地をつくっているのには賛成できません。幸いにして、これまで日本人が殺されることもなく、現地の人々を殺したこともないというのは、本当に良かったと思います。でも、戦闘に巻き込まれるような危険な役割をアメリカ軍と一緒になってやるなんて、無益であり、有害だと思います。
安倍首相は憲法改正の理由として、自衛隊員に肩身の狭い思いをさせてはいけないからと言っていましたが、災害救助でがんばっている自衛隊員を日本人の多くは高く評価していると思います。次に、地方自治体の6割が自衛隊員の募集を拒否しているとか言い出しました。まったく事実に反します。自治体のほとんどは、自衛隊員の募集に協力しています(私は、これがいいことだとは考えていません)。
この本は、現代日本の苦悩(矛盾)の産物である自衛隊について、その高級幹部だった人が語った本です。
どうすれば戦争にならないのか、侵略があったとき、日本はどう立ち向かうのか、正面からきちんと考えるべきだと柳澤協二氏は解説しています。
なるほど、そのとおりだと思います。
 それにしても、イージスアショアという2千億円もの軍事予算をつかうかどうかの国会質疑のとき、安倍首相が自衛隊員が自宅から通勤できるところにつくると答弁したのには思わず腰を抜かしました。米朝会談がすすんでいるときに、そもそもイージスアショアなんて不要だと私は考えていますが、それにしても自衛隊員の通勤圏内に「基地」をつくるという首相答弁は許せません。2千億円ものムダづかいは絶対に認められないことです。そんなお金があったら、大学生の奨学金(給付型)を拡充してください。介護保険料の徴収をやめて、年金を増額してください。
 自衛隊の高級幹部のナマの声に耳を傾ける意義はある、しかも大きいと痛感させられる本です。
(2019年1月刊。1700円+税)

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2019年2月28日

寒川セツルメント史

社会


(霧山昴)
著者 寒川セツルメント史出版プロジェクト 、 出版  本の泉社

私は1967年(昭和42年)4月に大学に入ると同時に川崎セツルメントに入り、4年間近くセツルメント活動に没頭しました。セツルメントなんて言葉は聞いたこともありませんでしたが、なんとなく目新しいものを感じましたし、なにより新入生歓迎会に参加すると元気な女子大生がたくさん参加していて大いに心が惹かれました。同じころ、ダンスパーティーにも参加したことがありましたが、踊れませんし、歌えもしませんので、気遅れしてしまいました。セツルメントでは話し込めるというのも魅力でした。
セツルメントとは、イギリスで知識階級の人々が貧民街へ定住(セツル)し、労働者階級とともに生活改善をおこなった運動。施しではなく、自活する術を身につけられるように労働者教育を行った。
最近の映画『マルクス・エンゲルス』をDVDでみましたが、19世紀の産業革命によって労働者階級が誕生したものの、その貧困と窮乏が激しくなっていきました。そのころ、大学教授たちが労働者の住む町へ出かけて労働者や夫人に教育を与えていく活動を展開していったのが大学拡張運動(セツルメントハウス・ムーブメント)でした。セツルメント運動の父は、かのトインビーです。トインビーホールが学生たちによって各地につくられました。
イギリスのセツルメント運動はやがて欧米諸国に広まり、移民の多いアメリカでは数多くのセツルメントハウスがつくられ、医療・教育・芸術まで多様な活動がすすめられた。
寒川セツルメントについては、私も全セツ連大会で何度も名前を聞いていましたし、全セツ連書記局を支える有力なセツルでした。寒川セツルメントは、1954年、千葉大学医学部の社会医療研究会(社医研)から誕生したサークルです。
寒川セツルメントは1960年代、70年代には100人以上のセツラーをかかえる大サークルで、全セツ連に毎年、書記局員を送り出し、全セツ連を支えた。ところが、1980年代にはいってセツルメント運動は退潮して、全セツ連は消滅し、1987年に寒川セツルも全セツ連から脱退した。1989年に子ども会サークルに名称を変更し、今も存在している。
この本は、1954年に生まれ、1989年まで存在した寒川セツル35年の活動を振り返ったもので、大変貴重な戦後史になっています。これに匹敵するものとして『氷川下セツルメント史』(エイデル研究所)があります。残念ながら、私のいた川崎セツルメントは、私の『星よおまえは知っているね』(花伝社)と『清冽の炎』(花伝社)があるだけで、類書はありません。
『氷川下セツルメント史』には、70年代以降のセツルメントがどうなったのかの解明が課題としていますが、今回の『寒川セツルメント史』では、70年代以降もきちんと明らかにしています。
セツルメント活動は、うたごえ運動と結びついていました。「地底の歌」や「子供を守るように」など、よく歌をうたいました。合宿するときには総括文集とあわせて歌集を印刷してもっていったものです。地域の現実を見つめながら、私たちは自分を語りました。そして、社会変革と自分の生き方とのかかわりも考えました。それは決して、地域の人々を踏み台にするものではなく、地域の生活に触発されて問題意識をとぎすまされたということができます。そのなかで生まれた仲間意識はとても強く、心地よいものがありました。
貴重な資料を満載した400頁の本です。かつてセツルメント活動に関わった人も、そうでない人も、セツルメントって何だろうと疑問に感じている人にも、ぜひ読んでほしい本です。
(2018年12月刊。2500円+税)

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