弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2019年1月16日

薬物依存症

司法

(霧山昴)
著者 松本 俊彦 、 出版  ちくま新書

人が薬物に手を出すのは、多くの場合、「つながり」を得るため。
薬物使用が本人にもたらす最初の報酬は、快感のような薬理学的効果ではなく、関係性という社会的効果だ。「自分はどこにも居場所がない」、「誰からも必要とされていない」という痛みをともなう感覚にさいなまれていたり、人との「つながり」から孤立している人が「人とつながる」ために薬物を使用している。心に痛みをかかえ、孤立している人ほど、薬物のもつ依存症に対して脆弱(ぜいじゃく)だ。
薬物の再使用によって、もっとも失望しているのは、周囲の誰よりも薬物依存者自身である。「また使ってしまった」という自己嫌悪と恥辱感をもつ。
覚せい剤取締法事犯者は、日本の刑務所の収容者の3割を占めている。そのうち65%は再犯者。覚せい剤依存症患者の再使用は刑務所から出所した直後にもっとも多い。どこかに閉じこめられて物理的に依存性薬物と切り離していても、いつかはそこから解放される。その自由を奪われたあとの解放感こそが、薬物依存症患者の薬物欲求をもっとも刺激する。
「薬物中毒」という言葉は、不正確な表現なので、今では使われない。薬物依存症とは、薬物が体内に存在することが問題なのではなく、薬物をくり返して使ったことで、その人の体質に何らかの変化が生じてしまった状態である。
身体依存とは、中枢神経作用薬をくりかえし投与された生体にみられる、正常な反応にすぎない。そして、身体依存は原則として可逆的なものであり、薬物を断った状態を続けていれば、中枢神経系は再び薬物なしの状態に適元するようになり、離脱や耐性は消失する。したがって、もしも薬物依存症イコール身体依存だとすれば、薬物依存症の治療など、実に簡単になるはずだ。しかし、現実にはそうはなっていない。身体依存は薬物依存症の本質ではない。精神依存こそが薬物依存症の本質なのだ。
薬物を使っていないときでも、薬物のことばかり考えているという状態をさす。
依存症者は、たとえ尊大そうに見えても、その内実は自己評価の低い人が少なくない。それだけ人から承認されることに飢えている。
この5年とか6年のあいだ、シンナーを吸っていたという少年は、ほとんどいない。首都圏では暴走族はほとんど見かけなくなった。
2016年の調査で、覚せい剤が第1位で、第2位は睡眠薬、抗不安薬である。
日本人ほど、薬物に関して、「脱法」であることを尊び、高い価値を置く国民は他にいない。日本人の高い遵法精神が「脱法」的な薬物の市場価値を高めている。
危険ドラッグの経験者は、決して売り物の薬物を自分には使わない。「こんなクスリをつかう奴はバカだ」とさえ思っている。
刑務所内の治療プログラムにはそれほどの効果はない。
刑務所は、人を嘘つきにしてしまう。すっかり嘘をつくのが習性として染みついている。
刑務所に行くのは時間の無駄だ。再犯防止は、施設内よりも社会内で訓練を受けたほうが効果的。薬物の自己使用罪や所持罪で逮捕された者を刑務所内で処遇することは、再犯防止の観点からは、実は意味がない。
薬物依存症は、治らないが、回復できる、そんな病気だ。特効薬や根治的治療法はない。依存症の治療において、「欲求に負けない強い自分をつくる」という発想はとても危険だ。
そもそも依存症患者は「強さ」に憧れている。
薬物依存症の人は多くの嘘をつく。もっとも多くの嘘をついているが、もっとも多いのは、何と言っても自分自身に対してである。
この本を読んだとき、被疑者国選弁護事件で連日のように被疑者に面会しに警察署に行っていました。しかも初めての大麻取締法違反事件でした。
なるほど、そうなのか、そうだったのかと、一人合点で、膝を叩きながら読み通しました。私にとっては画期的に面白い本でした。ご一読をおすすめします。
(2018年9月刊。980円+税)

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