弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年11月14日

誰のために法は生まれた

司法


(霧山昴)
著者 木庭 顕 、 出版  朝日出版社

ローマ法を専門とする東大名誉教授が桐蔭学園の中学・高校生30人と語りあったゼミ形式の授業の記録です。
午前中に映画をみて、午後から教授の問いかけに生徒たちが答えていくようにして進んでいくのですが、その問答の奥深さには思わずのけぞりそうになります。
まず映画がすごいです。溝口健二監督の『近松物語』は1954年制作です。役者は長谷川一夫と香川京子ですから、まさしく美男美女。この二人は最後のシーンでは市中引き回しのうえ処刑されるわけですが、それに至る過程を丹念に拾って議論していく様子は、心が震えます。私が高校生だったら、とてもついていけなかったでしょう。
最後の市中引きまわしのときの晴れ晴れとした香川京子の笑顔は衝撃的ですが、その解釈が見事なのです。
江戸時代、姦通したら死刑にするというルールがあった。ましてや主人の妻と奉公人の男性の姦通なら、即死罪だったでしょう。そこで、法とはいったい何なのかが問われるのです。
名誉教授は、法は追い詰められた人のためにあると言います。
グルになった集団に抵抗するために法はある。こういう集団を完璧に解体するためにある。こう言われても、私には、よく分かりませんでした。ぴんと来ないのです。
法学部にいくと、第一にものすごい眠気が起きる。次に言いようのない虚(むな)しさが漂う。この点は、私も司法試験の受験勉強をはじめる前は、たしかにそうでした。しかし、目的のための手段だと割り切れば、それなりのものではありました。論理的思考力が身につきましたからね。
次の映画は1948年のイタリア映画『自転車泥棒』です。昔、私も一度だけは観たような気がします。この映画を素材として議論が展開します。それが、すごいんです。
そこでは、泥棒の何がいけないのかも問われます。だって、メシが食えない状況に置かれているのです。そして、男の子と父親の関係も微妙です。自転車を盗まれて仕事ができなくなり、切羽詰まった父親が息子に知られないようにして他人の自転車を泥棒して、見つかってしまう。あやうく群衆にリンチにされそうになったときに息子が出てきて助かるのですが、その意義はどこにあるのか・・・。
さらにギリシア悲劇を素材にしたあと、最高裁の昭和40年判決まで議論の対象となります。名誉教授の博識とすご腕には圧倒されました。といっても、私より年下だというのが、悔しい事実でもあります。
いやはや、とんでもない授業でした。もちろん、そんなハイレベルの授業に脱帽という意味です。もっとも、この授業に参加した生徒たちが法学を勉強してみようと思うようになったのか、私にはやや疑問なしとしませんでしたが・・・。
(2018年8月刊。1850円+税)

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