弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年8月24日

百姓たちの戦争

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 吉村 豊雄 、 出版  清文堂

著者は島原・天草の乱を、いわゆる百姓一揆ではなく、「合戦」、つまり戦争とみています。百姓一揆なら領主側に要求をつきつけ、その実現を目ざそうとするわけですが、島原・天草の乱では、そのような要求実現行動はみられず、幕藩軍との合戦をくり返し、城を占領して、最終的には島原城に立て籠った2万7千の一揆勢は全員が命を失った。
軍事的な訓練などほとんど出来ていない百姓主体の一揆勢が、「侍の真似できない」気力で武士たちに向かっていった戦いを、現地では「合戦」と呼んだ。この「合戦」は4ヶ月に及んだわけであるので、まさしく戦争と呼ぶにふさわしい。
一揆の直前、島原藩松倉家そして唐津藩天草領の寺沢家で、それぞれ御家騒動が起り、家臣が集団で退去し、牢人となる事件が発生している。そして、それぞれ逃走したのは「若衆」たちであり、この牢人たちが一揆の中枢部に入ったことは間違いない。
一揆の首謀者は、意識して10代の少年たちを集めていた。
彼らは、信仰復活工作の象徴をつくり出すこと、信仰を復活、公然化させ、信者たちを統合し、象徴となる「天子」、「天帝」としての「四郎殿」(天草四郎)をつくり出すことを狙った。「若衆」たちは、「四郎殿」に仕えて、その分身として活動するために、松倉家・寺沢家から集団で逃走したとみられる。
一揆勢は、占領した城を死守することを通じて、「デイウス(神)への奉公」を尽くし、「神の御加護」、具体的には「神の国」による救援を信じた。
島原一揆勢が「本陣」と定めた原城は石垣、堀、虎口など、城の要害機能は基本的に残っていた。そして、原城の所在する有馬村には、島原藩の注文で「千挺」もの鉄砲をつくった「鉄砲屋」大膳がいた。口之津にあった武器庫の鉄砲・弾薬類も、この「鉄砲屋」が製作し、調達していたとみられる。
一揆勢が戦略上もっとも重視し、懸念していたのが「玉薬」の数量である。一揆蜂起の時点では、まとまった玉薬を管理下に置ける見通しがあったからこそ、一揆は武力の発動・戦争への飛躍することになった。
原城に立て籠った一揆勢は2万7千人ほど。
原城のなかは、村ごとに集まり、村社会の地域連合体だった。また、軍事組織として確立された。軍奉行という一揆指導部が存在した。
そして、天草四郎は「天守」に籠って、一揆勢の前に姿を現すことはなかった。
原城の一揆勢の軍事力の柱は鉄砲であり、1000挺ほど所持していたとみられる。その泣きどころは、火薬の乏しさにあった。一揆勢は幕藩軍の総攻撃の直前の2月21日夜の夜襲で「鉄砲の薬箱2荷」を奪ったが、それが、すべてであった。そのほか一揆勢の主力武器は石だった。ちなみに宮本武蔵も、石による負傷を受けた。
原城戦争の実態を詳しく知ることのできる本です。原城跡には2回行きましたが、感慨ひとしおでした。
(2017年11月刊。1900円+税)

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