弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2018年7月30日
ありがとうもごめんなさいもいらない森の民
人間
(霧山昴)
著者 奥野 克已 、 出版 亜紀書房
この本のタイトルは、まだ続いていて、「と暮らして人類学者が考えたこと」となっています。
ボルネオ島に暮らす人口1万人の狩猟採集民あるいは元・狩猟採集民をプナンと呼びます。そのプナンの人々と共同生活した学者による興味深いレポートです。
プナンが旧石器時代からの生き方を今日まで維持しているという証拠はない。しかしプナンが定住農耕民とは異なる遊動民のエートスをもち、人類は元来こうだったのではないかと思わせてくれる行動やアイデアにあふれている。
マレーシアのサラワク州を流れるプラガ川の上流域の熱帯雨林に現在、およそ500人のプナンが暮らしている。
プナンは、生きるために、生き抜くために食べようとする。プナンは、森の中に食べ物を探すことに1日のほとんどを費やす。食べ物を手に入れたら調理して食べて、あとはぶらぶらと過ごしている。プナンにとって、食べ物を手に入れること以上に重要なことは他にない。プナンは「生きるために食べる」人々である。
森に獲物がないときは、何日も食べられないことがある。獲物がとれたときは、食べたいだけ肉を頬張る。食べては寝、寝ては食べる。1日に4度も5度も食べ続ける。
赤ん坊にオシメはない。赤ん坊が便を垂れ流すと、母親は特定の飼い犬を呼び寄せて、肛門を舐めさせきれいにする。犬が赤ん坊のこう門をぺろぺろと舐めると、赤ん坊は気持ちがいいのと、こそばゆいのとで、きゃっきゃっと騒いで喜ぶ。
プナン語に「反省する」という言葉はない。プナンは、後悔はたまにするが、反省は恐らくしない。プナンは状況主義だ。くよくよと後悔したり、それを反省へと段階を上げても、何も始まらないことをよく知っている。
プナンに生年月日を尋ねても、答えられる人は誰ひとりとしていない。自分がいつ生まれたのか覚えていないし、周りの誰も知らない。プナン社会にはカレンダーがない。
プナン社会では、人の死は、ふつうの出来事である。プナンは遺体を土中に埋めたあと、死者を思い出させる遺品をことごとく破壊し尽くし、死者の名前を口に出さないようにして、死者と親族関係にある人々の名前を一時変える。
プナンは未来を語ることもしない。子どもに対して、「将来、何になりたいの?」と、将来の夢を尋ねることは、まったく意味がない。プナンは生まれ育った森での暮らしのなかに自己完結するような人々であり、職業や生き方に選択肢はない。
プナンは腕時計をはめる。しかし、その腕時計は単なるファッションであって、時間はあっていない。時間はどうでもいいのである。
プナンは、すべての人物に、あらゆる機会に参画することを認める。機会もまた分け与えられる。何かをするときに、独占的にするのではなく、みなで一緒にしようとする。
プナンは、参画したメンバーの間の平等な分配に執拗なまでこだわる。プナンは、あるものを、得たものを均分することにこだわって生きてきた。
プナンは独占しようとする欲望を集合的に認めない。分け与えられたものは、独り占めするのではなく、周囲にも分配するよう方向づける。
プナンの父母と子どもたちは、食事の機会をふくめて、常にできるだけ一緒にいよう、行動をともにしようとする。プナン社会では、子が親の膝もとで生きていくすべをゆっくり、じっくりと学び、ゆるやかに親のもとを巣立ちながらも、その後も親たちの近くで暮らす傾向にある。
プナンは学校に行きたがらない。父母や家族と離れてまで、そんなことはしたくない。プナンの子どもたちは、学校に行きたくないから、行かない。学校教育は定着しない。
プナンは、遠くに長く出稼ぎに行くようなことはしない。都市生活をするプナンはいない。プナンは一生涯、森の周囲で暮らす。森の中では、掛け算や割り算は役に立たないし、英語を身につけても使う機会がない。
ボルネオ島の熱帯にこんな人々が住んでいたのですね。人間の欲望とは一体何なのかを考えさせられました。
(2018年6月刊。1800円+税)