弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2018年7月 1日
昆虫学者はやめられない
生物
(霧山昴)
著者 小松 貴 、 出版 新潮社
裏山の奇人、徘徊の記、というサブ・タイトルがついています。まさしく奇人ですね、ここまで来ると・・・、正直、そう思いました。
カラスはとても賢く、その時の状況によって柔軟に行動を変えることができる。カラスは、目的を果たすための選択肢をいくつも持っているから、他の鳥と比べて、生きるためとか、自分の子孫を残すためとか、生物として最低限やり遂げなければいけないこと以外のことをする余裕がある。だから、ムダなことをできるようになったわけである。カラスが公園の滑り台にのぼって滑る映像があるが、たしかに、このときカラスは遊んでいる。
カラスは現代の都市に生きる二足歩行恐竜そのものと言える。
あるカラスは、仲良くなった著者に歌をうたって聞かせてくれた。左右に体を揺らしつつ、お辞儀をするように頭を下げ、「ヲン、カララララ・・・」というしゃがれ声を繰り返し発して見せた。カラスは人間を識別して襲いかかるそうですね、怖いです。
ニホンマムシは、本来はおとなしくて争いを好まないが、やるときはやる。攻撃は素早く、咬みついた瞬間、相手の反撃を避けるべく、すぐに離す。
無毒のヘビであっても、何んでも咬みつくヘビの口内には破傷風菌などの危険な雑菌類が常在している。そこで、ヘビを扱う著者は定期的に破傷風ワクチンを接種している。
アズマキシダグモのオスは、自分が食うでもない獲物をわざわざ捕えて、丁寧にラッピングまでして、それを抱えてひたすらメスを探し求めて歩く。
交接の時間が長ければ長いほど、オスは自分の精子をより多くのメスの体内に送り込むことができる。エサに食いついているあいだ、メスは比較的オスの振る舞いに無頓着になるため、より大きくて食べ終わるのに時間のかかるエサを用意してメスに渡せば、それだけ長い時間、オスは交接を許される。
ガの魅力は、なにより多様性のすさまじさにある。日本だけでもチョウの10倍以上、4000種以上はいるし、毎年、新種が見つかっていて、いったい何種のガが日本にいるのか判然としない状況だ。
アリというのは、もとを正せば、進化の過程でハチから分かれた分類群であって、いわば地下空隙での生活に特殊化して飛翔能力を失ったハチのような存在だ。だから、アリがハチのように毒針をもっていても何ら不思議ではない。アリは世界に1万種ほどいるが、基本的にすべてのアリが毒針をもっている。
信州に九州そして関東を転々としてきた若き昆虫学者の貴重な研究成果が面白く語られている本なので、楽しく読み通しました。
(2018年4月刊。1400円+税)
2018年7月 2日
潜伏キリシタン村落の事件簿
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 吉村 豊雄 、 出版 清文堂
まったくのオドロキです。福岡の筑後平野に今村天主堂があり、最近も『守教』(帚木蓬生)という小説になりました。大刀洗町の今村地区は江戸時代を通じて、ずっと切支丹として村ごと維持してきたのでした。
同じことが天草でも起きていたのです。しかも、その信者の規模は少なくとも5千人だったのです。幕府への公式報告書には6千人とされていました。そして、なんと、一人も刑死者を出していないというのです。信じられません。
島原の一揆のあとでも天草に、それだけのキリスト教信者がいることを知って、幕府当局は事なかれの穏便な処理方針をとったのです。なぜか・・・。
私も天草には行ったことがあります。エイのヒレ(エイガンチョと呼びます)を食べた覚えがあります。そして、今ではイルカ・ウオッチングで有名ですし、恐竜の化石が出たところでもあります。ですから、また機会をつくって天草に行ってみたいと考えています。
江戸時代の後期、文化・文政のころ、19世紀にさしかかるころです。肥後国天草郡の最大の島、下島西海岸の村々で5千人をこえる潜伏キリシタンの存在が明るみに出た。いま、天草氏にある大江天主堂の近くの天草ロザリオ館には、数多くのキリシタン遺物が展示されている。それは天草の村人たちが「隠れ部屋」をつくって、キリシタン信仰を守り続けてきた、何よりの証拠である。
最後のバテレン(宣教師)、斎藤パウロが寛永10年(1633年)に天草の上島の上津浦で捕まった。
なぜ、天草にキリシタン信仰が根づいていたのか。それは、貧困と貧富の格差がひどかったからだ・・・。
天草の人口増加はすさまじい。万治2年(1959年)に1万6千人だったのに、寛政6年(1799年)に11万2千人、文化14年(1817年)には13万2千人となった。
全国的にみると、江戸後期の人口は微増でしかなかったのに、天草の人口増加は驚異的である。これもカトリックの影響でしょうか・・・。
潜伏キリシタンは、仏教を信仰する「正路の者」と日常生活をともにし、仏教関係の行事をこなしつつ、その裏でキリシタンだけの信仰生活を送っていた。
潜伏キリシタンは、7日間を区切りに生活し、7日目を「ドメンゴ」(ドミンゴ、日曜日)と呼んで、仕事を休み、神に祈りをささげた。
天草を統治する島原藩の基本方針は、「5千余」の潜伏キリシタンを処罰せず、もとの状態、仏教信仰の「正路」の状態に戻すというもの。そのため、性急な取り調べをせず、余裕をもって、柔軟に対処していくことにした。
なぜ、そうしたか・・・。急に村民を吟味(ぎんみ)すると、徒党、逃散などの騒動が起きたり、村つぶれになったりするので、気長に取り扱えという。要するに、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」と同じで、百姓を確保しておきたかったのでしょう。
幕府も潜伏キリシタンの処遇には困った。結局、5千人もの潜伏キリシタン5千人全員が、その罪を問われることはなかった。それどころか、対処にあたった関係者は幕府から褒賞(ほうしょう)された。時代は変わった・・・。
5千人とも6千人ともいう天草の潜伏キリシタン(実は、もっといたようです)は、藩当局から黙認されていたというわけです。そのおかげで、このような文献を読むことができました。
(2017年11月刊。1800円+税)
2018年7月 3日
焼身自殺の闇と真相
司法
(霧山昴)
著者 奥田 雅治 、 出版 桜井書店
2007年6月、名古屋市営バスの若い運転手が牛乳パックに入れたガソリンを頭からかぶって火をつけ、自殺を図った。この焼身自殺の原因は職場にあったにちがいない。
しかし、その手がかりは、本人が書いて残した上申書と進退願しかなかった。職場の同僚の協力は得られない。遺族の依頼を受けた水野幹男弁護士は裁判所に証拠保全を申請した。そのなかに「同乗指導記録要」があった。
「葬式の司会のようなしゃべりかたはやめるように」
「葬式の司会のようなしゃべりかた」というのがどんなものなのか、私は想像できません。ただ、その話し方が非難されるようなものには思えないのですが・・・。
そして、バス車内で老女の転倒事故が起きたのに気がつかなかった運転手だと「特定」されたのでした。
彼は、2月から6月までの4ヶ月間のあいだ、次から次に、身に覚えのない災難にあっていることが次第に判明していった。そこで、公務災害として遺族は労災申請します。
バスで転倒したという女性もなんとか探し出して本人と会い、乗っていたバスが全然ちがうものだということも判明しました。
ところが、公務外という結論が出てしまったのです。しかし、遺族はめげずに再審査を請求します。そして、再審査を担当する審査会の委員長の弁護士が突然、辞任するのです。独立性と公平性が保障されていないので責任をもてないからというのが辞任理由でした。それでも、審査会は反省することもなく、棄却されてしまったのでした。やむなく、名古屋地裁に提訴することになり、裁判が始まりました。
法廷には、元同僚も勇気をふるって出廷して証言してくれました。同じ日に3人もの職制がバスに乗って同乗指導したことを認めつつ、それは偶然のことだと居直る証言もあり、一審は有利に展開していたはずなのですが・・・。
一審判決は公務災害と認めませんでした。当事者が主張していないことまで持ち出し、「たいした失敗ではないのだから、自殺するほどの心理的葛藤はなかった」としたのです。あまりにひどい一方的な判決でした。
ただちに控訴し、名古屋高裁では証拠調べをしないままに判決を迎えます。そして、逆転勝訴の判決が出たのでした。
「葬式の司会者のようなアナウンス」とは、小さい声で抑揚のない話し方ということなのですね。このような表現は、相手をおとしめる言葉であると高裁判決は断じました。
さらに、バスの内の転倒事故についても、そのバスで事故が起きたと断定することは困難だというきわめて常識的な判断が示されたのでした。
そこで、「被災者が、接客サービスの向上に努める名古屋市交通局の姿勢を強く意識して、精神疾患を発症するに至ったとみられることからすれば、被災者の精神疾患の発症は、公務に内在ないし随伴する危険が現実化したものと認めることが相当」だとしました。
それにしても、認定まで実に9年もの年月を要したというのも大変でしたね。それでも一審判決のようなひどい判決が定着しなかったことが何よりの救いでした。
ながいあいだの遺族と関係者のご苦労に心より敬意を表します。
(2018年2月刊。1800円+税)
2018年7月 4日
漂流するトモダチ、アメリカの被ばく裁判
アメリカ
(霧山昴)
著者 田井中 雅人、エィミ・ツジモト 、 出版 朝日新聞出版
3・11大震災のとき、アメリカ軍がトモダチ作戦を展開していたことは知っていました。アメリカ軍が大震災を利用して、それを口実に軍事演習を展開していたと考えていました。
ところが、たとえば原子力空母ロナルド・レーガンの乗組員5000人が大量の放射能を浴びて、その結果、多くの兵士たちが白血病などにかかって苦しんでいるというのです。そして、彼らは裁判に訴えます。その原告は400人以上にのぼります。
トモダチ作戦で、アメリカ軍と自衛隊は、過去に例のない規模で「共同作戦」を実施し、「日米同盟の絆」を盛んにアピールした。
原告らは東京電力を被告として、アメリカのカリフォルニア州サンディエゴの連邦地裁に提訴した。損害賠償として1000万ドル、懲罰的賠償として3000万ドル、医療費をまかなうための1億ドルの基金の設立。これを原告らは求めている。
空母レーガンは、攻撃海域で、何度も放射性プルーム(帯状の雲)に包まれた。熱い空風が吹き抜け、口の中にアルミホイルをなめたような感触だった。甲板にいた乗組員は、やがて皮膚が焼けるように熱くなって、ヒリヒリした。そして、頭痛に襲われた。
空母は艦載機が発着するため、常に外気にさらされている。これに対して、駆逐艦はカプセルのようなもので、圧力調整された艦内には外気が入ってこない。巨大な換気フィルターは、放射性物質をしゃ断するので、放射能による汚染の心配はない。
その空母レーガンには5000人もの乗組員がいて、「浮かぶ都市」のようなものだ。警察もあれば、刑務所もある。空母レーガンの艦長は指揮官として、「水が汚染している恐れがある。飲むな」と全乗組員に指示した。3日目のこと。
レーガンの航海日誌によれば、3月16日夜から翌17日朝にかけて、5時間ほどプルームに入っていた。症状としては、全身に「はっしん」し、しこりを感じる、頻脈などなど・・・。
東電側は、法廷で次のように明言した。
被告東電は、たとば放射性物質の放出は認めるが、その放射量はきわめて微量。
トモダチ作戦に従事した7万人もの兵士から、300人から400人の被害者が出たという情報が著者にもたらされた。
トモダチ作戦によるアメリカ軍兵士たちの被害回復を目ざす裁判にも注目しようと思いました。。
(2017年10月刊。1600円+税)
2018年7月 5日
琑尾録 (上)
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 呉 希文 、 出版 日朝協会愛知県連合会
秀吉の侵略を受けた朝鮮側の一文化人の記録です。
上巻だけで480頁ほどもある大部な日記なのですが、朝鮮半島で平和に暮らしていた人々が突然、日本の武装兵に襲われ逃げまどっている状況が刻明に記録されています。
1592年4月、日本軍(「倭賊」と表記されています)が侵入してきて、1601年2月末にソウルに戻るまでの9年間の日記です。山中の岩かげで風雨をしのぎながらも記し続けた日記です。著者は両班(やんばん)で男性なので、ハングルではなく漢文で書かれています。
日本軍は戦国時代に戦争に明け暮れていたので、いわば歴戦の勇士です。これに対して朝鮮のほうは、1392年に朝鮮王朝が成立して以来、200年続いた平和の国でしたから、日本軍の侵入は、まさに青天の霹靂、何の備えもありませんでした。ずるずると後退していったのも当然です。そして、明軍が入ってくるのですが、明軍の接待も食糧の供出など、朝鮮の人々にとっては大きな苦労を余儀なくされました。
著者はソウルに住む名門の両班。本人は科挙に合格できなかったので、在野にいて、高い人格と学問ある人として周囲から尊敬されていた。その息子の一人が科挙に極隠し、日本への訪問団の一人となるなど、活躍した。
タイトルの「琑尾」とは、中国の古典、四書五終のなかの詩経に出てくる言葉、「琑たり尾たり流離の子」(うらぶれおとろうたさすらい人よ)からきている。したがって、「流離記」という意味。
1592年4月16日。倭船数隻が釜山に現れたというしらせが届く。夕方には釜山が陥落したというしらせ。驚愕する。城主が堅く守らなかったのだろうか。
4月19日。賊(日本軍のこと)は兵を三路に分け、まっすぐ京城に向かい、山を超え、大河を渡り、無人の野を行くようだという。哀れな民衆は、ことごとく賊の槍の餌食になったという。王がはかりごとも立てず、まず自分から逃げるとは、深く深く残念なことだ。わかほうの軍務長官は、軍の威厳を示そうとして大きな枝をふるって、あちこちで厳刑を加えるので、ムチ打たれて倒れる者も多く、人々の怨みはつのり、いっそ敵に攻めこられる方がよいと考えるほどになっていた。
たのみとするところは、今は義兵の旗揚げだけだ。聞くところでは、倭賊侵入後、嶺南の人は投降し、敵の手引きをする者が非常に多く、また徒党を組んで倭賊の声をまねて村に侵入し、村人が逃げ散ったあと、財産を略奪していく者も多いという。噂では、倭賊は、嶺南で両班女性のみ麗しい者を選んで5隻の船に満船して先に自分の国に送り、厚化粧させて売り飛ばしたという。
デマも記録されています。
琉球国人が日本全国の軍備が空になっているのに乗じて、平秀吉(豊臣秀吉のことです)を刺殺した・・・。
8月、明軍が来て、平安道の士気が上がる。
8月。三国時代以来、戦火のわざわいは何度も受けたが、島夷によるこのように酷い侵略は未曾有のことだ。今は、八道すべてが賊に躁躙されるという。わが国はじまって以来の大変事だ。
11月。村内の若者たちが集まって、すごろくをしている。負けた者は、両眼のまわりに墨を塗られてみんなの大笑いのタネにされる。
戦火のなかでも、このような余裕はあったのでした。
12月。大臣たちは心を合わせて回復しようとするのではなく、いまも東西の派閥に分かれて攻撃しあっている。国王の政庁と王世子の政庁との間に不和をかもしだしている。
1593年7月。倭賊は、南部の海岸地帯に倭城を築いて居すわり、周辺で耕作したり略奪しながら、日明平和交渉というだましあいを続けている。
11月。することもないので、末娘と碁石遊びで日を過ごし、流浪の寂しさを紛らわす。
1594年4月。最近、乞食が減った。ここ数カ月でみな飢え死にしてしまったので、村の中を乞食して歩く者がなくなったのだ。嶺南や幾内では人肉を食っているとささやかれている。遠い親戚など殺して食うというのだ。倭賊の投降者が続々と上京していき、少しでも気に入らないことがあると怒鳴りつけ、剣を振りまわしたりする。
1596年7月。李夢鶴の乱が起きたときの状況も日記に詳しく記録されています。
慶長元年閏(うるう)7月に日本の幾内で大地震が起きたとことも9月2日の日記に登場しています。情報伝達の早さ、確実さにおどろかされます。
噂では、日本国で去る8月、和泉県で地震があり、家があっという間に倒壊し、関内の兵士数万人が圧死した。
いやはや、かくも詳細な日記を戦火に追われるなか漢語で書き続けていた知識人(両班)がいたとは、驚きです。当時の知的水準の高さを如実に示しています。
日本文にするのには大変な苦労があったと思いますが、貴重な労作です。多くの人に読まれることを願っています。下巻が楽しみです。
(2018年6月刊。3000円+税)
2018年7月 6日
日報隠蔽
社会
(霧山昴)
著者 布施 祐仁 ・ 三浦 英之 、 出版 集英社
アフリカの南スーダンへ自衛隊が国連PKOとして派遣されていたときの日報が実際には存在するのに廃棄されたとして防衛省が隠蔽していた事件をたどった本です。
この隠蔽が明るみになったことで、防衛省は、稲田朋美大臣、岡部俊哉陸幕長、黒江哲郎事務次官というトップ3人がそろって辞任せざるをえませんでした。前代未聞の不祥事です。
ことの深刻さは、単なる贈収賄事件の比ではありません。要するに、戦前の日本軍と同じ体質、国民に真実を知らせず、嘘をつき通そうとする体質が暴露されたという恐ろしい事件です。では、いったい自衛隊が南スーダンで直面していた事態とは、どんなものだったのか、それが今も日本国民に十分に知らされているとは思えません。
すなわち、南スーダンでは、武力抗争、石油資源をめぐる利権争いから内戦状態だったのです。すぐ近く(100メートルとか200メートルしかありません)まで、戦闘が続いていた。戦車や戦闘ヘリまで出動していて、4日間で300人もの戦死者が出るほど激烈なものだった。
それで、野営地にいた自衛隊の派遣部隊の隊長は、女性隊員もふくめた400人の隊員、全員に武器と弾薬を携行させ、各自あるいは部隊の判断で、正当防衛や緊急避難に該当する場合には撃てと命令したのでした。つまり、2014年1月の時点で、自衛隊は南スーダンで発砲する直前までいっていたのです。ところが、このような深刻な事実(状況)は、日本国民にまったく知らされませんでした。
むしろ現場に派遣された自衛隊の幹部は真相を隠蔽したくなかった。真相を伝えたくなかったのは、日本にいるトップの指導部です。国会(国民)対策上、真実が知られたら困るという「大本営発表」と同じように考えたわけです。
ところで、自衛隊員が本当に現地で発砲できただろうかという問いかけもなされています。発砲する相手は、どんな「敵」なのか、それは、14歳から17歳の少年兵、軍服も着てなくてTシャツにサンダル姿の少年兵たちがカラシニコフ銃を連射しながら襲ってくる、そんな状況を目の前にして日本の自衛隊員が銃の引き金を引けるか疑わしいという指摘です。私も、その通りだと思いました。ただでさえ、人を殺すというのはハードルが高いのに、ましてや相手が子どもたちだったら、引き金を引けるとは、とても思えません。でも、そうやってためらっていると、殺されてしまいます。
このようなジレンマに陥った自衛隊員が日本に帰ってから精神のバランスを失って自死に至るというのは、ある意味で正常な反応、必然ではないでしょうか・・・。
安倍首相は国会で次のように放言しています。
「南スーダンは、我々が今いるこの永田町と比べればはるかに危険な場所であって、危険な場所であるからこそ、自衛隊が任務を負って、武器も携行して現地でPKO活動を行っているところです」
南スーダンを日本の「永田町」と比べるなんて、とんでもありません。見識を疑います。
憲法に自衛隊を明記するという安倍首相の改憲論は、このような自衛隊の隠蔽体質を温存し奨励する危険があると私は思います。「日報隠滅」問題の本質を考えさせてくれる本です。
(2018年4月刊。1700円+税)
2018年7月 7日
松本零士、無限創造軌道
社会
(霧山昴)
著者 松本 零士 、 出版 小学館
私にとって、松本零士といえば、あのスリーナイン(999)の銀河鉄道より、男おいどんの四畳半の世界を描いたマンガのほうが強烈な印象を残しています。なにしろ、四畳半の押し入れには汚れたサルマタ(パンツ)の山が押し込まれていて、そこにサルマタケというきのこが生えてきて、それを食べるのです。それもゲテモノ喰いというのではなく、お金がなくて食べるものがないので、仕方なく生きのびるために食べるという生活を送っているのです。
この本を読むと、著者とほぼ同年齢のちばてつや(この人も私の大好きなマンガ家の一人です)に、そのきのこを食べさせたといい、実話にもとづいているのです。驚きました。
このきのこの正式名称はマグソタケといって、食べられないわけではない、毒性はないきのこだというのです。しかし、もちろん著者もこのきのこを食べていて、いい味だったなんて、信じられません・・・。
そんな「男おいどん」の世界を描くかと思うと、ヌード姿の美女を妖艶に描きあげるのですから、そのペン先の魔法には魅入られるばかりです。
そして、「銀河鉄道999(スリーナイン)」です。その底知れぬ発想力を絵に結実させる力をもつ恐るべき異才の人だと改めて感服しました。
手塚治虫もすごかったし、先日、境港まで行って見てきた水木しげるも恐ろしい才能をもつ人でしたが、著者の絵もまた負けず劣らずすごい、と思います。
永久保存版と銘打つだけの価値のある大判の本です。少し値が張りますので、ぜひ、あなたも、せめて図書館で手にとって眺めてください。
(2018年3月刊。2500円+税)
2018年7月 8日
北斎漫画3
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 葛飾 北斎 、 出版 青幻舎
「奇想天外」編です。よくも、これだけの絵が描けたものです。まさしく北斎は天才画家というほかありません。
ところが、この本の解説によると、北斎は同時代の江戸の人々からは、それほど高い評価を受けていませんでした。日本では、北斎は「卑しい絵描きだ」と言われ続けてきた。「六大浮世絵師」のランクでは、上から鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東州斉写楽、歌川広重そして葛飾北斎だった。
浮世絵師が評価されていなかったって、意外ですよね。今では、北斎は、「東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチ」だと評価されています・・・。
北斎は、75歳を過ぎてからは、いわゆる浮世絵師ではなくなっている。
北斎は、とにかくありとあらゆるものを描こうとしていた。目には見えない、幽霊や鬼や化け物も描いている。
北斎は、ある意味、日本人離れしている。
北斎は、模倣の天才だったし、真似ることそれ自体が創作活動だった。自分自身も模写している。
北斎は、90歳で死の床に就いたとき、神様に「あと10年ください」と命乞いをしている。「宇宙の真理をつかんで、真の画家になるために、もう少し長生きさせて下さい。10年が無理なら、せめて5年でもいいから・・・」
この3巻のテーマは「奇想天外」なので、宗教的画題、幽霊、妖怪などがふんだんに登場しています。そのひとつひとつに豊かな表情があるので、見ていて飽きることがありません。やはり北斎は天才としか言いようがないことを、ひしひしと実感するのです。
(2017年11月刊。500円+税)
2018年7月 9日
歌う鳥のキモチ
生物
(霧山昴)
著者 石塚 徹 、 出版 山と渓谷社
朝早くから澄んだ鳥の鳴き声を聞くと、心も洗われる爽快な気分に浸ることができます。
では、いったい鳴いている鳥たちは、いかなる気分なのでしょうか・・・。そんなの、分かるはずがない。そう決めつけてしまっては身も蓋(ふた)もありません。そこを追求して解明するのが学者なのです。ええっ、でも、どうやって鳥の気持ちを測るの・・・。
鳥は、一見すると夫婦仲良くけなげに子育てしているようだが、実は非常に浮気者。世界に1万種ほどいる鳥の9割は一夫一妻だが、調べると、鳥の浮気はすぐに発覚する。そうなんです。DNAを調べると、子の父親がいろいろ違っていることが判明するのです。
歌っているのは、ほとんどオスの鳥だ。
鳥の胸のなかには、人間にはない「鳴管」というのが呼吸器官とは別にあるので、呼吸とは別に、あるいは同時に、空気を震わせて音を出すことができる。
鳥は、命にかけてもパートナーが欲しい。だから、自分の居場所が分かるような声のトーンで歌う。タカなどが出現したときの警戒の地鳴きは「ヒー」とか「ツィー」とか、高周波の声で、それは居所がつかみにくい。
メスが産卵するのは、ふつう早朝であり、メスが出てくるのは産卵直後だ。そして、産卵直後に行う交尾が翌日に産む卵の受精にもっとも効果がある。
アオガラは、メスが夜明けになわばりを離れ、質の高いオスとの婚外交尾(浮気)を求めて出歩く。夜明けに早く歌いはじめ、長いこと歌うオスほど、多くのメスを射止め、婚外交尾にも成功する。歌いはじめの早いオスは、年長のオスに多い。
いかにも夫婦仲の良さそうなツバメやモズクでも、5,6羽の子どもたちのなかに1羽くらい父親の違う子がまじっている。
高山にすむイワヒバリやカヤクグリは、メスが積極的にオスを誘惑して交尾を誘う。メスがグループ内の複数のオスに交尾を迫るのは、オスの全員に、子の父親のような気にさせるという利点がある。つまり、オスたちから、より多くの労働力を引き出そうという、メスの戦略なのである。
箱根のクロツグミには、一羽ずつ、しっかりしたレパートリーがあり、それを順ぐりに歌っている。歌は数節からなり、その第一節は、一羽がせいぜい十数類のレパートリーだ。
そして、ツグミは、独身と既婚とでは、歌い方がまるで異なる。既婚者なのに、独身のふりをしたくなるのがオスの本音なのだ。
メスは、何日もかけて、しっかりオスの品定めをする。
複数のメスを同時に獲得した3羽のオスは、つぶやき声のレパートリーがずば抜けて多いオスだった。つぶやき声は、「勝負音」であり、オスの質のバロメーターになっている。目の前に来たメスに対して出す勝負音は、大声である必要はない。むしろ、小声にして、「あなただけに歌ってますよ」という情報に切り替えている。
鳥の鳴き声を録音して可視化し、個体識別に励んでいる学者の姿を想像すると、思わず拍手したくなります。
(2017年11月刊。1400円+税)
2018年7月10日
96歳、元海軍兵の「遺言」
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 瀧本 邦慶 、 出版 朝日新聞出版
他国から攻められたら、どうする。よく、そう聞かれる。そうならんように努力するのが政府やないか。それが政府の仕事やろと言いますねん。そのために、びっくりするような給料をもろとるんやろ。戦争さけるために大臣やっとんのやろ、攻められたらどうすると、のんきんなこと言うとる暇ないやろ。やることやれ。そんなに国を守りたいのなら、そんなに国がだいじなら、まずは、おまえが行け。そう言いますね。
戦争にならんためには、どうすればいいのか。とにかく大きな声をあげないけません。沈黙は国をほろぼします。
戦争に行って何度も死線をくぐり抜けた96歳の元海軍兵の心底からの叫びです。
著者が海軍に志願したのは、17歳のとき、1939年(昭和14年)だった。佐世保の海兵団に四等水兵として入団した。
海軍に入ったその日から、すべてが競争の日々。新兵の仕事は、なぐられること。面白半分に上官から殴られる。海軍では、下っ端の兵卒は人間ではなく、物。そこらへんの備品あつかい。死んでもいくらでも補充できる物。
著者は真珠湾攻撃にも参加しています。ただし、著者の乗った「飛龍」は真珠湾から300キロ以上も離れていて、攻撃の様子はまったく分からなかった。ペリリュー島に行き、ミッドウェー海戦にも参加します。このとき日本軍は大敗北したのに、大本営発表は勝ったかのような内容でした。命からから助かった著者たちは口封じのため南方戦線に追いやられるのです。
こうして下っぱの軍人をだましていたんやなと気づかされた。国民をだますにもほどがある。ときの政府、ときの軍隊は嘘をつくんだな、そう思った。
著者たちはトラック諸島に追いやられた。ここでは毎日のように死者が出た。ほとんどが栄養失調。多くの兵が餓死した。栄養失調がすすんで身体に浮腫(むくみ)が出た。
下っぱの兵士が木の葉っぱを食べているときに、士官は銀飯(お米)を食べていた。いざとなったら、国は兵士を見殺しにする。見殺しは朝飯前(あさめしまえ)。
ここで死ぬことが、なんで国のためか。こんな馬鹿な話があるか。こんな死にかたがあるか。なにが国のためじゃ。なんぼ戦争じゃいうても、こんな、みんなが餓死するような死にかたに得心できるものか。敵とたたかって死ぬなら分かる。のたれ死にのどこが国のためか。
ここで考えが180度変わった。これは国にだまされたと気がついた。わたしが一番なさけないのは、だまされておったこと。いつまでもくやしいですやん。
日本軍に見捨てられて南方の孤島で餓死寸前までいたった著者は戦争はしてはいけない、国にだまされるなと叫んでいます。苛酷な戦場を体験したことにもとづく叫びですので、強い説得力があります。
(2018年12月刊。1400円+税)
2018年7月11日
鉄路紀行
司法
(霧山昴)
著者 本林 健一郎 、 出版 偲ぶ会
これは正真正銘、ホンモノの鉄ちゃんの書いた紀行文です。全国各地の駅を踏破した様子が写真とともに語られています。
紹介する文章は、あまりに率直で、いささか自虐的です。でも、嫌味がなく、そうか、そうだったのか・・・と、鉄路の世界にひきずりこまれていきます。
鉄道マニアですから、当然のことながら九州新幹線にも乗っています。そして驚嘆するのは、各駅で降りて、駅周辺の写真まで撮って紹介するのです。岐阜羽島と並んで政治駅で有名な筑後船小屋駅、そして新大牟田駅も登場します。
旅行の思い出について、著者はキッパリ断言します。記憶に残らない思い出など忘れたほうが良いのである。いったん忘れてしまって、どんなところだっけ・・・といい加減な記憶を思い出しつつ、結局、思い出せないまま目的地を再訪したほうが新鮮に感じるもの。
旅先で食べた駅弁がまずかったら、写真つきで、「まずい!」と叫びます。これは残念ながら私にとっても本当のことも多いです。
年齢(とし)をとってくると、自分が他人の孤独に吸い寄せられていくような感覚に陥ることがある。
開門海峡を渡るとき、送電が直流から交流に変わるため、10秒ほど電灯が消える。すると、何か自分が浮海魚にでもなって、溺れていく気分になる。
「乗り鉄」(鉄ちゃん)の格言の一つは、蒸気(機関車)は見るもの、電車は乗るもの。
旅行記を読んだ弁護士から、「こんな旅をするなんて、ヒマ人だね」「ヒマ人というよりバカだね」「しかも磨きのかかったバカだね」、などという「賞賛の声」が寄せられる。
著者は、他の乗客が鉄道マニア(鉄ちゃん)かどうか、すぐに分かる。大判の時刻表を持っている。茶色系統の服を着ている。さえない風貌をしている。カメラかデジカメを携帯している。結局のところ、同じ「臭い」がするので分かる。そして、鉄道マニア同士は、お互い離れた席にすわる。
鉄道マニアは、鉄道に対する求愛行為が社会に受け入れられない、恥ずべき行為であることを十分に自覚している。そのため同業者の行為を見ると、自分も同じ恥ずべき行為をしていることを意識し、自己嫌悪に陥ってしまう。
ローカル線の普通列車で自然を満喫する、なんてプランを立てるのは、ロマンチストで空想主義である男のなせる業(わざ)である。これに対して女性は現実主義者なので、ローカル線などにロマンなんてなく、旅行はしょせん旅館の質と食事で決まることをよく知っている。
全国の隅から隅まで鉄路を求めて、ときには渋々ながらバスに乗ったりした楽しい旅行記です。
残念ながら著者は47歳の若さで突然死してしまいました。著者の父親は日弁連元会長の本林徹弁護士です。早くして亡くなった健一郎弁護士のご冥福を祈念します。A4版(大判)のすばらし追悼・紀行文でした。あったことのない故人の優しい人となりが素直ににじみ出ていて、すっと読めました。本当に惜しい人材を亡くしてしまいました。
(2018年5月刊。非売品)
2018年7月12日
沖縄からの本土爆撃
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 林 博史 、 出版 吉川 弘文館
アメリカ軍は日本に対して、都市も村も島も、無差別攻撃を繰り返しました。
そのあげくにヒロシマ・ナガサキへの原爆投下があります。都市への無差別爆撃を初めておこなったのは日本軍による南京爆撃です。これに対して、アメリカは戦犯調査の対象とはしませんでした。日本軍との戦争で無差別攻撃をアメリカ軍もしていたことが問題になるとまずいと判断したのです。
1945年6月の時点で、日本本土への侵攻作戦(コロネット)をはじめた。このコロネット作戦とあわせて、日本の突然の降伏に備えてのこと。ブラックリスト作戦と呼び、二つの作戦計画が同時並行ですすむことになった。
アメリカ軍の大佐は、次のように言った。
「日本の全住民は適切な軍事目標である。日本には民間人はいない。我々は戦争しており、アメリカ人の命を救い、永続的な平和をもたらすべき、そしてもたらすように追求している戦争の苦しみを短縮するような総力戦という方法でおこなっている。我々は、可能な限り短い時間で、男であろうと女であろうと最大限可能な人数の敵を殺し出し破壊するつもりである」
アメリカ軍が無差別爆撃したことについて、戦前の日本政府は国際法に違反すると、はっきり抗議した。これについて、アメリカ政府は、民間人を爆撃することを繰り返し非難してきたので、無差別爆撃を国際法違反ではないと主張したら、これまでの見解と矛盾することになる。また、国際法違反だと認めると、日本に捕まった航空機の搭乗員たちが戦争犯罪人として扱われる危険性もある。つまり、アメリカ政府は答えようがなくなって答弁しなかった、出来なかった。
沖縄に航空基地をつくって日本本土を無差別爆撃していたことをアメリカ側の資料も発掘して明らかにした貴重な労作でした。
(2018年6月刊。1800円+税)
2018年7月13日
原城の戦争と松平信綱
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 吉村 豊雄 、 出版 清文堂
これは面白い。ワクワクしながら読みすすめました。わずか150頁もない本なのですが、じっくり精読したため、私としては珍しく半日もかかって読了しました。
表紙の絵は島原の乱に出動した秋月藩の活躍ぶりを描いた屏風の一部です。わざわざ秋月にまでいって現物を見る価値のある屏風絵です。島原の乱の100年後に描かれたものではありますが、悲惨な原城の戦場が実にリアルに再現されていて、資料的価値は高いとされています。
この本の何が面白いかというと、島原の乱で抜け駆けした佐賀・鍋島藩主が将軍家光から特別表彰までもらったのに、一転して幕府の法廷で、被告席に立たされ、よくて国替え、あるいは藩としての存続すらあやぶまれる事態になったのです。将軍家光は熊本の加藤家の取りつぶしを断行した実績がありました。なぜ、そんなことになったのか・・・。
ここで、42歳の松平信綱が登場します。「知恵伊豆(ちえいず)」とまで言われるようになったのは、まさしく、この島原の乱の陣頭指揮と、その後の軍法裁判で将軍家光を巻き込んだからなのです。
それにしても、将軍家光が臣下(老中です)の邸宅に出かけ、信綱と夜を徹して語り明かし、朝帰りしたということまで記録がのこっているのですね。これって、毎日の新聞に首相動静が記事になっているのと同じです。
何を一晩、家光と信綱の二人は語りあったのか・・・。島原の乱の抜け駆けを軍法裁判にかけると同時に、先代からの老中たちをいかに辞めさせるのか、語りあっていたようです。
つまり、親子といえども、将軍が代替わりすると、親の将軍の取り巻きの老中たちは、新しく将軍になった子ども将軍にとっては、まさしくうっとうしい存在であって、それに替えて幼いころから周囲にいた気心の知れた者たちを老中にして、名実ともに実権を握りたいというわけです。
ところで、家光はこのころうつ症状にあったとのことです。そんなことは初耳でした。
原城に籠った一揆勢は、板倉重昌は総攻撃を強行して失敗し、取り残されたところを一揆勢に殺されてしまったのでした。そこで、今度は負けられないとして信綱は総攻撃の日を設定し、抜け駆けは許さない、抜け駆けしたら軍法裁判にかけると明言していたのでした。ところが、ここで幕府に恩を売ろうと考えた鍋島藩勢は前日に戦を仕掛けたのです。鍋島勢が抜け駆けしたのは総攻撃予定の前日でした。その状況を見て、慌てて他の軍勢も出撃し、幸運にも天草四郎を見つけ出し、首をはねたというわけです。
では、何が問題なのか・・・。決められた出撃予定を日になっていないのに、鍋島勢は二の丸を攻めはじめたのでした。では、なぜ、いったん家光が特別に鍋島軍勢を賞賛したのか。それには筆頭老中の土井利勝がからんでいます。土井利勝は鍋島藩主とは深い関係にあり、加増まで画策していました。
でも、戦場では臨機応変に機を見て予定を変更して突入すべきときがある。理屈ばかり言うな・・・。そんな声も出たようです。たとえば、有名な大久保彦左衛門も、その一員でした。なるほど、戦場では予期せぬことも起きるでしょう。でも家光の威光をバックとした信綱は、ひるまずに先輩老中の抵抗をはねのけ、軍法裁判の開催にこぎつけました。結局、家光将軍の下した裁判の結論は予想以上に軽かった。
前将軍・秀忠時代の重臣(土井利勝ら3人の老中)は、新将軍・家光の時代が動いていくときに邪魔になるということです。幕府の上層部における権力抗争、将軍を巻き込んだ派閥抗争の様子が活写され、果たしてこの軍法裁判はどうなるのか、頁を繰るのももどかしいほどでした。将軍って、必ずしも独裁者ではなかったのですね。この事件のあと、いよいよ老中たちによる集団指導体制が固まっていったようです。
江戸時代初期の幕府の内情を知ることができました。ご一読をおすすめします。
(2017年11月刊。1500円+税)
2018年7月14日
ぼくは虫ばかり採っていた
生物
(霧山昴)
著者 池田 清彦 、 出版 青土社
昆虫採集を大人になっても生き甲斐としている人が少なくありません。香川照之もその一人ですよね。海外にまで出かけて珍しい蝶を捕まえたりしていますし、それがテレビ番組になって紹介されています。
私は虫屋ではありませんが、虫にかかわる本や写真集、テレビ番組をみるのは大好きです。
採る楽しみ、集める楽しみ、そして形を見る楽しみがある。さらには、食べる楽しみまで出てきて、虫の楽しみ方は広がっている。
小さい虫は重力から自由なので、形がキテレツになったりする・・・。本当にそうなんですよね。奇妙奇天烈、とんでもなくありえない形をしているのを見ると、それだけでもワクワクしてきます。
チョウは、さなぎから成虫になると花の蜜を吸いに行くが、このとき最初に採蜜した花の色を覚えている。2回目以降も同じ花を探す。
モンシロチョウの成虫の期間は2~3週間しかないので、花の季節より寿命のほうが短い。蜜の吸える花の色を覚えておくと、ずっと食事にありつけるので、チョウは学習していく。
乾燥したクマムシは普通3%くらいまで、水が抜ける。0.05%の水しかないような状況になると代謝はしていない。ただの物質の固まりで生きていけない。これが最長20年続いても、水をかけると、命がよみがえる。
人間の脳は組織の50~60%が脂肪で形成され、そのうち3%強が多価不飽和脂肪酸、とくにアラキドン酸とドコサヘキサエン酸で、前者は肉や魚に、後者は魚に多くふくまれ、植物にはあまりふくまれていない。大きな脳を維持するためには肉食が不可欠なのである。
虫の話から生物一般の話まで、大変勉強になりました。著者は私と同じ団塊世代です。
生物って、知れば知るほど不思議です。人間だって・・・。
(2018年3月刊。1500円+税)
2018年7月15日
安土唐獅子画狂伝
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 谷津 矢車 、 出版 徳間書店
織田信長の安土城の天守閣に描いた画師は狩野永徳。その狩野永徳が主人公の物語です。ついつい画師の世界に引きずり込まれてしまいました。
本能寺の変で信長が亡くなったあと、狩野永徳は秀吉の依頼によって信長を描きます。肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)に身を包み、大小を差したまま座る老人。立ち上がった絵には実物と見紛(みまが)うほどの生々しさがある。肩をいからせるように座る男の像には、見る者を吞まんという気が満ち満ちている。
永徳は弟子に太筆と最上級の紙を買ってこさせた。一畳では収まらない大きな紙を、普段は空けてある大作(たいさく)用の画室に並べさせた。
永徳は気を張りめぐらせながら墨を磨った。清冽(せいれつ)な高音があたりに響き渡る。己の魂を切り刻んで溶け込ませるような気持ちで硯に向かう、そのうちに弟子の一人が用意の終わった旨を告げた。永徳は乗り板の上に座り、筆を墨に浸した。まっさらの筆は吸いが悪い。それゆえ、いつもよりも丁寧に穂先を墨にくぐらせた。
気を吐く。天地に己しかいない。そう言い聞かせる。織田信長・羽柴秀吉・千宋易・長谷川信春(等伯)。そんなものは紙の上にはいない。あるのは、ただ己の画の意のみ。そう思いを定めて筆を落とす。永徳にとって、絵を描くことは、筆先で新たな三世を紙の上に開闢(かいびゃく)するがごときこと。紙の上に広がるものに実体はなく、どこまでいっても、所詮は嘘だ。だが、内奥に迫れば迫るほど、現(まこと)と幻(まぼろし)の区別がつかなくなっていく。筆一本で、この世の秘密に迫ることができる。そのことが楽しくて仕方がなかった。
安土城の天守閣に永徳の描いた絵が残っていたら、どんなに素晴らしかったことでしょう・・・。残念です。画師として信長に対等に生きようとした永徳の苦闘の日々が「再現」されていて、一気に読ませます。
私は安土城の天守閣の跡地に2度だけ立ちました。昔ここに信長が立っていたのだと思うと感慨深いものがありました。近くに狩野永徳の描いた壁画が再現されています。
(2018年3月刊。1600円+税)
2018年7月16日
法廷弁論
司法
(霧山昴)
著者 加茂 隆康 、 出版 講談社
司法界をめぐるリーガルサスペンスというと、やはり殺人事件が起きないといけません。
高村薫の有名な『マークスの山』を読み終わったとき、その迫力に押しつぶされてしまいそうになっていました。しかし、ふと気がついたのです。まてよ、この登場人物って私とほとんど同世代じゃないのか、とすると、それほど個々の人間に組織を動かす力があるとは思えない・・・、そう思うと、とたんに迫力がやわらぎました。
それはともかく、この本を読んで、ええっ、いったい殺人事件を起こすほどの動機が存在しうるのか、現役の弁護士としては納得できないところを感じざるをえませんでした。
この書評コーナーで紹介する本にケチをつけるのは、まったく私の本意とするものではありません。ただ、私も弁護士会の綱紀・懲戒手続にいささか関与していますので、いかに東京と地方の違いがあるにせよ、起案担当委員のみが独走するという仕組みだという記述は、いやいや、そんなことはありませんよ、他の委員を馬鹿にしすぎですと言わざるをえません。
そして、この本には東京ならではの記述があります。福岡では考えられないと思います。
2005億円の巨額訴訟を提起して制裁的損害賠償法が適用されたため、3倍の額の勝訴判決を受けたので、弁護士が一人で800億円という目のくらむような金額の報酬を得たというのです。税金もガッポリ払ったはずですが、それでも、地方ではまったく考えられもしない巨額の収入があったことでしょう。にもかかわらず弁護士を続けるというのですから、その仕事はいわば趣味の世界みたいものですよね、きっと・・・。
不倫関係を清算するための殺人事件というのは、小説でも現実でも、昔から無数にあったし、これからもあることでしょう。しかし、弁護士会長になりたくて、その選挙の票欲しさから懲戒手続を左右するため、殺人を依頼するなんて、あまりにも現実離れしていて、同じ業界人が書いたなんて信じられません。
弁護士会の綱紀・懲戒手続について詳しく紹介されているだけに、この手続は弁護士会の一部の有力者の意のままに操作されている、少なくとも、その可能性があるという誤ったイメージを世間に与える小説ではないかと心配してしまいました。すみません。
(2018年4月刊。1600円+税)
2018年7月17日
声のサイエンス
人間
(霧山昴)
著者 山﨑 広子 、 出版 NHK出版新書
男女で声が違うのは、なぜなのか・・・。このところ、ずっと疑問に思っていました。その答えは、要するに、男性は喉頭が前に突き出し、声帯が7ミリ長くなって1オクターブほど低い声になるということ。
声が低く太いのは、多くの生物の共通認識として、身体が大きいことを示す。
新生児(赤ちゃん)は、自分の母の声を間違いなく認識し、他の母親の声と聞き分けている。お腹のなかで聞いていた母の言葉、母国語に特徴的な発音に、生まれてすぐに反応する。
声という音は、話し手の実に多くの情報をふくんでいる。身体・体格・顔の骨格・性格・生育歴・体調から心理状態まで・・・。
声は、ひとりひとりの履歴書のようなもの。声を形成する要素の2割は、生まれもった体格・骨格や声帯の長さ、共鳴腔(口腔や鼻腔など)の形など、先天的な声の素質。残り8割は、生育環境や性格と、その時の心身の状態。したがって、声は履歴書というよりは、その時の体調や心情を実況放送しているようなもの。
人は、出したい音を、その周波数、つまり、その数だけ声帯を振動させて出している。 ド・レ・ミと歌うときには、1秒のあいだに、262回、293回、329回の振動数を出す張力に瞬間的に調整している。でも、この音は、まだ声ではない。声帯から出た音が声になるためには、「共鳴」が必要。話すためには、声帯から出た音を言葉に応じた発音にしなければならない。発音は声帯から上の部分でつくられる。
260ヘルツの音を出すために、意識的に声帯を1秒間に260回振動させることは出来ない。脳が、生まれてから今までの声と聴覚の神経の蓄積から瞬時に司令を出して声帯を振動させる、この司令にしたがって出した声を、聴覚が即座に分析して、脳は音の大きさや発音を判断し、次の音への司令を出す。声帯の張り加減、声道や口腔や舌や唇の形、呼気量など、数十万通りのなかから必要な組みあわせを瞬時に選んで、100以上もの筋肉を動かして調整する。これを聴覚フィードバックと呼ぶ。
声を出して話すというのは、脳と聴覚と発生の驚異的な連携の賜物(たまもの)なのだ。
声帯は、声を出すことを目的とした器官ではなく、異物が肺に入らないようにするための門でしかない。
声を出すことは、身体の他の働きをしている機能を巧みに利用し、全身を共鳴させて出すもの。だから、声に身体の状態が出てしまうのはあたりまえのこと。
人は、話すときに聴覚で自分の声を確かめながら発生している。人は生まれたときから、環境音という膨大な音情報を「無意識に」取り込んで育つ。聴覚は、それらの音を吸収し続け、脳に集積して分析し、その結果として脳で自分の声が「つくられる」。
話すときに顔をほとんど動かさないと、音声が安定する。「まばたき」をすると声のピッチを下げて不安定にするので、話している途中でまばたきしないのは鉄則である。
人前で話すことの苦手意識と、自分への無能感は比例している。
緊張が高まって逃げ出したい気分になったら、軽く「コホン」とやってみる。そうすると、興奮していた身体の状態が瞬間的にリセットする仕掛けだ。
なるほど、そうだったのか・・・、説得力のある話の展開でした。
(2018年4月刊。820円+税)
フランス語検定試験(仏検一級)の結果が判明しました。もちろん不合格なのですが、51点(150点満点)でした。合格点は89点ですので、38点も加点しなければなりません。まだまだ道遠し、です。実は自己採点で57点でしたので、あわよくば60点(4割)まで届くかとひそかに期待していたのです。仏作文と書き取りが思ったより悪かったようです。
毎朝、NHKフランス語の応用編を書き取りして、丸暗記につとめています。今にみていろ、ぼくだって・・・。あすなろうの心境です。
2018年7月18日
未来を拓く人
司法
(霧山昴)
著者 池永満弁護士追悼集編集委員会 、 出版 木星社
あしたをひらくひと、と読みます。弁護士池永満の遺したもの、というサブタイトルのついた330頁もの大作です。
故池永弁護士の多方面にわたる活動の一端をしのぶことのできる見事な追悼集です。
といっても、池永満弁護士が亡くなって早いもので、もう5年半がたってしまいましたので、池永弁護士って誰?という若手弁護士も少なくないことでしょう。
池永さん、以下いつものように池永さんと呼びます、は2009年(平成21年)4月から1年間、福岡県弁護士会長をつとめました。その1年間に、池永さんは、なんと西日本新聞(朝刊)の一面トップ記事を3回も飾りました。これは、まさしく空前絶後の記録だと思います。
裁判員裁判がスタートした年です。市民モニター制度を発足させ、市民が法廷を傍聴して裁判員裁判をより市民のものにしようとしたのです。
医療ADRを発足させたのも池永さんが会長のときです。医療問題は池永さんの専門分野の一つですが、ADRのなかに医療機関とのトラブル解決を盛り込みました。
そして、韓国の釜山弁護士会との連携・交流に続き、中国の大連律師(弁護士)協会との交流も実現したのです。
池永さんは弁護士会館のすぐ近くのマンションの一室を借りて、記者の皆さんと月1回の交流会をもつなかで、これらの一面記事を書いてもらうことに結びつけたのです。
池永さんの活動分野は医療分野に特化していたのではありません。博多湾の自然を守る運動、千代町再開発に住民の声を生かす町づくり運動、ハンセン病元患者の権利救済活動、中国残留孤児事件、脱原発訴訟、直方駅舎保存運動そして、法曹の後継者育成・・・。まことに多彩です。
池永さんは、いつも夢とロマンを語り、それを他人と共有し、大勢の人を巻き込んで実現してきました。
そして、そのなかで「被害者」となった弁護士たちが、この追悼集のなかで愚痴をこぼしつつ、池永さんへの感謝の言葉を捧げています。安部尚志弁護士は、池永さんのことを「火つけ盗賊」と名づけていたとのこと。池永さんは、思いついたら直ちに組織のシステム、人選、資金繰りを検討し、たちまち組織づくりに着手する。人集めが上手で、この組織はこの人でいくと決めたら最後、その人に猛烈にアタックして落としてしまう。私利私欲がないだけに優秀な弁護士たちがコロッと口説かれてしまう。そして、組織を立ちあげると、はじめうちは先頭に立っているものの、軌道に乗ってきたら、そこの人たちにまかせて、自分はまた新しい組織づくりを始める。人狩りをして市民運動に送り込み、市民運動の火が燃えあがると自分はいなくなる・・・。
なるほど、そういうこともあったよね、と思いました。私は被害にあっていませんが・・・。
池永さんは新人弁護士に「一流のプロって、何だか分かる?」とたずねます。その答えは、「他のプロから信頼されて訴ごとの依頼が来る人だよ」。なるほど、そのとおりです。
新人弁護士へ与えた教訓その一は、凡事(ぼんじ)を徹底すること。小さな事件を誠実に処理できず、些末なルールを守れないような人は、大きく困難な事件をまともに取り扱えるはずがない。
その二は、専門的知識を要する事件にあたるときは、自分が専門分野を勉強するのは当然のこととして、その分野の第一線の専門家と協働すること。
その三は、出産・子育てを経験しても、しなくても何でも仕事の肥やしになるのが法曹のいいところ。
この追悼集を私は二日間かけて完読しましたが、そのあいだじゅうずっと、いつものように池永さんと対話している幸せな気分に浸っていました。
八尋光秀弁護士が池永さんは、人間性のひかりを照らす灯だったと書いていますが、まったくそのとりです。追悼集を読んで、本当に惜しい人を早々に亡くしてしまったと残念に思うと同時に、「あんたも、もう少しがんばりなよ」と励まされている気がして、ほっこりした気分で読み終え、巻末にある元気なころの池永さんの顔写真に見入ったのでした。
(2018年7月刊。3000円+税)
2018年7月19日
ソウルの市民民主主義
朝鮮・韓国
(霧山昴)
著者 白石 孝 ・ 朴 元淳 、 出版 コモンズ
いま、日本人は韓国の人々から大いに学ぶべき、いや学ぶだけでなく、見習って行動に立ち上がるべきだと痛感します。
ソウルの広場を埋め尽くしたキャンドル革命は朴クネ元大統領の弾劾を実現し、刑務所に入れることに成功しました。同じように身内優先の利権政治をすすめているアベ首相は今ものうのうと高笑いして夫婦そろっての外遊しながら、なんと支持率を回復しているなんて、まるで間違ったアベコベ政治の典型です。
韓国では、キャンドル革命を原動力として文大統領を実現しました。朝鮮半島の平和確保を至上命題として政治生命を懸けた必死の取り組みが南北会談の実現そして米朝共同声明に結実したのです。これから紆余曲折は何度もあると思いますが、朝鮮半島の平和に向かって一歩一歩すすんでいくことは間違いありませんし、また、それを目ざして私たち日本人も応援すべきです。
この本は、キャンドル革命を支えたソウル市長との対話をふくんでいます。何十万人という人々が広場に集まることを想定して、ソウル市は万全の支援・救援措置を講じたのでした。衛生面、トイレ、ゴミ収集、安全面、地下鉄の運行など、至れり尽くせりです。すごいです。
そして、ソウル市は、朴元淳市長(人権派弁護士でした)のもとで、非正規職員を大胆に正規職員に切り替えていったのです。そのため人件費支出が増大したかと思うと、かえって減少したのです。なぜか・・・。人材派遣業への支払うマージンがなくなったからなのです。
そして、非正規から正規に転換した人については「校務職」と命名したのでした。プライドの尊重です。朴元淳市長は3大公務の実現に取り組んでいます。
その一は、小・中学校給食の完全無償化、その二は、ソウル市立大学の授業料半減、そして、その三が先ほどの非正規を正規へ転換する、です。
人権派弁護士が大統領とソウル市長になって大活躍しているのを知ると、いよいよ日本の人権派弁護士も負けてはおれないという気分になってきます。
ルポあり、ソウル市長との対談ありで、とても充実した韓国レポートになっています。
(2018年3月刊。1500円+税)
2018年7月20日
マーティン・ルーサー・キング
アメリカ
(霧山昴)
著者 黒崎 真 、 出版 岩波新書
私にとっては、マルティン・ルーサー・キングですので、そう呼びます。彼がメンフィスで凶弾にたおれたのは1968年4月のこと。私は大学2年生です。東大闘争が2ヶ月後の6月に始まりました。全世界がなんとなく騒然としていたころのことです。
といっても、日本の学生デモはまだ平穏な状況にありました。アメリカのような黒人の群衆がたちあがり、白人がいらだって武力で弾圧するというのは、対岸の火事でしかありませんでした。ヨーロッパ、フランスやドイツが騒がしくなるのも5月以降のことです。
等身大のキングが描かれていると思いました。英雄として美化されすぎることもなく、その苦悩の日々が紹介されています。
キングは、アメリカにおける黒人解放運動が、インドのガンジーのような非暴力主義路線で成果をあげることができるのかという難問に直面していたのです。白人側は野蛮な、むき出しの暴力で襲いかかってくるのです。それを非暴力で迎えたら、しばり首で木に吊り下げるだけではないのか・・・。とても重い問いかけです。生半可なことではやってられません。
南部において、黒人教会は黒人の社会生活の全領域に密着した最も重要な社会組織だった。都市では、黒人自身が黒人教会を所有しており、黒人牧師は白人に解雇される心配がなかった。黒人牧師は概して白人社会に経済的に依存しない分、言論と行動に関して相対的に自由な立場にあった。
キングは、3世代にわたる牧師の家系に生まれた。祖父アダムが教会を父が引き継いだ由緒ある黒人教会だった。家庭環境は、キングの人格形成に大きな影響をもった。それは何よりも、キングが心身ともに健康に成長し、肯定的な世界観をもつことを助けた。
黒人会衆がもっとも聴きたい説教とは何だったか・・・。それは、神は確実に自分たちの自由の問題に関与していること、そして最後には自分たちは確実に自由になれると説く説教だ。「神の臨在」の体験こそ、過酷な環境を生き抜き、たたかう霊的活力を黒人たちに与えてきたものだった。
キングの説教は、抽象論に陥ることなく、人々の日々の経験や生活に即して語るように努めたものだった。
キングは、神のご臨在を体験した。「マルティン・ルーサーよ、大義のために立て。正義のために立て。真理のために立て。見よ、私はおまえと共にいる。世の終わりまで共にいる」
キングは、たたかい抜けと呼びかけているイエスの御声をたしかに聞いた。イエスは決して一人にはしないと約束してくださった。1956年1月27日の夜、自宅のキッチンでの出来事だ。
1877年から1950年にかけて、南部では4000人(大半は黒人)がリンチされている。
キングは27歳のとき、公民権問題における全国的シンボルになった。
キングはガンジーの非暴力に共鳴した。①非暴力は、勇気ある人の生き方である。②非暴力は友情と理解を勝ちとろうとする。③非暴力は、人ではなく、不正を打ち倒そうとする。④非暴力は自ら招かざる苦しみが教育し、変容させると考える。⑤非暴力は憎悪の代わりに愛を選ぶ。⑥非暴力は、宇宙が正義の側に味方すると信じる。
1963年8月28日、ワシントンでの大集会でキングは演説の最後に5分間のアドリブを加えた。有名な歴史的演説です。先日、キングの孫娘が、銃をなくせという大集会で感動的な演説をしました。
私には夢があります。イエース。それは、いつの日か、この国は立ち上がり、すべての人間は平等につくられているという、この国の信条を生き抜くようになるだろうという夢です。イエース。私には夢があります。ウェル。それは、いつの日か自分の4人の小さな子どもたちが、皮膚の色によってではなく、人格の中身によって評価される国に住むようになるだろうという夢です。
このキングの演説を聞いた聴衆は万雷の拍手でこたえた。少しのあいだ、あたかも神の国が地上に出現したかのようだった。
何度きいても、また読み返しても素晴らしい演説です。残念なことに、その夢の実現はアメリカでも、そしてこの日本でも、ほど遠いのが現実です。ヘイト・スピーチなんて、やめてほしいです。
キングは、ベトナム戦争に公然と反対したのですが、それはアメリカ国民の反発を買ってしまったのでした。アメリカ国民の多くは、このころ、まだベトナムで正義の戦争をしているという幻想に浸っていたのです。
きびしい人種差別と貧困のため、黒人の若者は軍隊のほうがましだとベトナム戦争に志願し、その多くが戦死していった。しかも大義のない、間違った戦争のために・・・。
キング暗殺の実行犯は白人男性。共謀者がいたのではないかと疑われているが、真相は今なお不明。
キングは財産をほとんど残さなかった。5000ドル(50万円)の預金しかなかった。長く借家ずまいで、4人のこどものために買った家は1万ドル(100万円)だった。
キングは黒人の公民権運動だけでなく、経済的正義や貧困問題についても取り組んでいた。このことを忘れてはいけない。
キングは「普通の人」だった。子どもが大好きだったし、女性関係という矛盾もかかえていた。
それでも、キングを今の私たちは忘れてはいけない。強く思ったことでした。
240頁の新書です。ご一読を強くおすすめします。読むと、勇気というか元気が出てきます。
(2018年3月刊。820円+税)
2018年7月21日
江戸の骨は語る
江戸時代
(霧山昴)
著者 篠田 謙一 、 出版 岩波書店
2014年7月、東京の「切支丹屋敷跡」から3件の人骨が発見された。
新井白石が尋問し、藤沢周平が『市塵』に描いた江戸時代の潜入宣教師シドッチの人骨ではないのか・・・。
この謎を解いていくスリリングな過程が生き生きと描かれていて、人体をめぐる科学の進歩・発達を実感させてくれます。結論を先取りすると、今のDNA鑑定は、人骨となった人物がイタリアの中部地域に居住していたというところまで特定できるのです。ですから、そこまで判明したら、当然のことながら、その人骨はイタリア人のシドッチだと特定されます。
徳川幕府によるキリスト教信者の弾圧が強まり、潜入・潜伏していた宣教師たちが、あるいは残酷に処刑され、また棄教(ころび)していった。それを知ったローマ教皇庁は、日本への宣教師の派遣をついに断念した。
シドッチは、切支丹屋敷に幽閉されたものの、年に銅25両3分と銀3匁(もんめ)ずつを支給され、拷問もなく過ごした。しかし、4年後の1713年に、シドッチの世話をしていた長助とはるという夫婦がシドッチにより洗礼を受けたと告白したため、3人とも屋敷内の地下牢に監禁されることになった。シドッチは、10ヶ月後の1714年に47歳で衰弱死した。
シドッチが切支丹屋敷内に埋葬されたというのは、キリスト教関係者の間では広く知られていた。そして、実際に、その切支丹屋敷内から3件の人骨が保存状態も良く発見されたのです。では、本当にシドッチたちか、どれがシドッチか・・・。その探索が始まります。
東京の地下は、土質が粘土質で、嫌気的な環境が保たれやすいので、人骨は残りやすい。九州では、地面の下から人骨が消失していくのに対して、関東では、地面にしみ込んだ雨水が人骨を溶かすので、上面にあたる部分から骨が消失していく。
古代人骨のDNA分析では、歯の内側の空所である歯髄腔の内側面を削り、内部の象牙質を用いることが多い。
古代の人骨のなかで、最もDNAをふくむのは、頭骨の内耳の周辺の骨。人骨中に残るDNAの保存に関しては、水は大敵。酸性に傾いた日本の土壌では、しみこむ水も酸性を示し、骨中に残るDNAを破壊する。
DNA分析の技術の進展がこの人骨をイタリア人であると断定できるまで進んだタイミングで発掘されたことになる。
江戸時代の男性の平均身長は156センチ。ところが問題の人骨は身長が170センチをこえている。
シドッチの遺骨が発見されたのは、没後300年という節目(ふしめ)の年であり、2014年は日本とイタリア修交150周年でもあった。
すごいですね、人骨がイタリア人であることを確実に断定できるまでDNA分析ができるとは・・・。
(2018年4月刊。1500円+税)
2018年7月22日
日本史のツボ
日本史(古代史)
(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 文春新書
天皇家は、地域の王から出発して、中国大陸から押し寄せてくる外来文化を積極的にとり入れながら、その文化に独自の改変を加えることで、大陸文化とは異なる「日本文化」をつくり上げることに寄与した。
ヤマト朝廷が支配していたのは、畿内を中心として、東は新潟県、西は九州北部まで。関東や東北、そして九州南部は「化外(けがい)の地」として、支配対象ではなかった。そして、ヤマト朝廷にとって死活的に重要なのは、中国大陸と朝鮮半島の情勢だった。
ヤマト朝廷って、意外に国際情勢に敏感だったのですね・・・。
戦国時代のあとは、天皇は権力を失っていて、天皇の位は権力闘争の対象にはならなくなっている。
鎌倉時代に起きた承久の乱のあと、次の天皇を誰にするかは、朝廷の一存では決められず、鎌倉幕府の承認が必要だった。
室町時代、足利政権は、思うがままに天皇をつくり出すことが出来た。
江戸時代、将軍の代替わりには必ず改元が行われているのに対し、天皇の代替わりでは改元されていない。
天皇は御所から出ることを禁じられ、外出するにも幕府の許可が必要だった。
江戸時代の一般の人々にとって、天皇は視野に入ってなかった。江戸後期になって、庶民が力をつけてくると、天皇を「再発見」した。
天皇家では、新道より仏教が重視されてきた。江戸時代まで、天皇家の葬儀は、神式ではなく、仏式で行なわれていた。神式にしたのは、明治以降のこと。
北条政子がいて、日野富子がいて、日本史のなかで女性が力を発揮した時代があったことは事実。ただし、彼女ら個人に限定された権力だった。女性は、政治というシステムの外側に置かれていた。
戦国時代の墓は夫婦墓が多い。つまり、夫婦で二つ墓が並んでいた。夫婦別性を反映している。江戸時代の元禄期になって以降、家族墓がふえてきた。夫婦同姓になっていった。
江戸時代になって女性の地位が低下したが、これは、世の中が平和な時代になったから。
日本史の現実を考えるときのヒント満載の本でした。いろいろ勉強になります。学者って本当にたいしたものです。
(2018年3月刊。840円+税)
2018年7月23日
脳は回復する
人間
(霧山昴)
著者 鈴木 大介 、 出版 新潮新書
脳梗塞で倒れた人が、徐々に以前のような状態に戻っていく過程で起きた驚くべき出来事が描かれています。
脳にとっては、言語もその他の音も匂いも光も、すべては「情報」なのだ。
人が人ごみのなかで他人に当たらずに歩くというのは、それだけでも脳内で非常に高度な情報処理が求められる行動だ。互いに少し歩く方向をずらして当らないようにしているし、歩む速度を緩めずに、即座に相手の身体全体の動きや目線を読んで、瞬時に、自らのルートを選択している。
ところが、著者は情報の奔流の中から、必要なもののみをピックアップすることができず、すべての情報を受け入れて、結局、すべての情報を処理できない。結果として、何もできなくなって、苦痛だけが膨れ上がっていく。
高性能耳栓で不快な音をカットし、サングラスで不要な光という情報もシャット。キャップ(帽子)はうつむくだけで、強すぎる光や見る必要のないものを視野から排除してくれる。
出かける前には、財布、ケータイ、キャップ、耳栓、サングラス、そしてメモ帳。指差し確認よし。これでようやく出かけることができます。
脳梗塞を起こすと、性格や僕という人物が変わってしまったのではなく、病前の僕と同じようなパーソナリティでいるための「僕自身のコントロール」が失われてしまった。自分で自分が変だと分かっていながら、「変でない自分」であることができないのだ。
相槌とは、きちんとした言葉を発さずとも、自分の意思を伝えることのできる、超便利なツールである。会話と言う言葉のキャッチボールをするうえで、相手のボールを受けとりましたよ、という意思表示や、「こちらが、そろそろボールを投げ返しますよ」であるとか、「投げ返すボールの方向や強さは、こんな感じですよ」なんてことまで伝えられる、万能なツールである。
伴走者は、本人のつらさを全面的に肯定してやってほしい。まちがっても、次のようなコトバを投げかけないでほしい。
「みんな、そんなものだよ」
「つらいのはキミだけじゃないよ」
「それは病気なの?」
「その程度の障害で良かったね」
「いつまでも病気に甘えないで、がんばろうよ」
「なんでも障害のせいにするな」
これらは、どれもこれも、残酷な、全否定と拒絶と攻撃のコトバだ。
脳梗塞、脳卒中になっても、脳は機能回復するのですね。この本が、いわば、その証明です。その人が苦しいって言ってたら、苦しいんです。この前提でつくられた社会は、最終的には、誰にとっても生きやすく、誰にとってもローリスクな社会になる。
なーるほど、そういうことなんですね。すべて、明日は我が身に起きることなのです。
(2018年2月刊。820円+税)
2018年7月24日
新たな弁護士自治の研究
司法
(霧山昴)
著者 弁護士自治研究会 、 出版 商事法務
日本の弁護士は弁護士会に強制加入させられます。弁護士会の会員でなければ弁護士としての仕事は出来ないシステムなのです。
弁護士自治にとって、強制加入は不可欠とまではいえないかもしれないが、必要な要素である。また、他の資格保持者や一般人が同一の法律業務をすることができるのであれば、規制と負担を引き受けてまで自治に参加しないことが常であると思われる。したがって、「業務独占」も自治を支える制度である。
この本では、「日弁連30年」(1981年)に「残念ながら、弁護士自治は弁護士の手で自らたたかいとったものとは言えない」としているのは、「その歴史認識において大きな誤りがある」としています。この点は、私も同感です。「日弁連30年」は、三ヶ月章教授の「弁護士」論文に引きずられてしまったのです。三ヶ月章は、弁護士出身の議員たちがGHQに日参してお願いして(とりいって)成立したにすぎないと非難したのでした。しかし、そのような事実はありませんでした。
弁護士会は、内閣提出法案とするのはあきらめ、議員立法の方式で行くことに方向転換した。裁判所と司法官僚は弁護士自治に消極的だったが、弁護士会は衆議院法制局とともに、各方面を獲得してまわり、ついに、1949年5月、弁護士法改正が成立した。参議院で修正案が可決されたものの、再度、衆議院で原案を可決して法改正は実現した。このように、新しい弁護士法は、大変な難度の末に生まれた。GHQのお恵みで成立したのではなかった。
裁判官は弁護士出身に限るという法曹一元については、戦前から弁護士に対して優越感、差別的意識を抱き続けてきた判事・検事たちは、ホンネとして法曹一元論に賛成ではなかった。
この点は、恐らく今も変わりはなく、同じだと思います。
「客観的に拝見して、最近までの日弁連や各弁護士会の活動については、いささかいかがなものかと、思わせられることが多く、所属会員の総意というものが反映されていないのではないか、一部の偏った考え方が主として反映されるような体質が最近あるのではないかということを率直に言って感じざるをえない」
この言葉は、今の日弁連や弁護士会に対する批判ではありません。なんと今から40年も前の国会での伊藤栄樹刑事局長(のちの検事総長)の答弁です。いやはや、昔も今も、日弁連批判というのは、まったく同じことを言うんですね。
アメリカは強制加入の弁護士会なんてないものとばかり思っていましたが、なんと、強制加入型の弁護士会のほうが任意型弁護士会よりも多いとのことです(2017年7月現在)。アメリカでも3分の2の州は強制加入型弁護士会となっている。
フランスの弁護士は、弁護士会を大切に思っていて、帰属意識は高い。弁護士会なくして弁護士という職業はありえない。弁護士会は、自らの職業アイデンティティである。フランスでは「弁護士の独立」がまず中心的に論じられ、それを担保するものとして「弁護士会の自律」がある。
フランス革命のときに活躍したダントン、ロベスピエール、カミーユ・デムーランは、いずれも弁護士。フランス革命の時代には、弁護士会は解散され、弁護士は弁護権限の独占を失った。ナポレオンは1810年に弁護士を統制するため弁護士会を復興した。ルイ16世にもマリーアントワネットにも弁護士がついた。ただし、ルイ16世の3人の弁護士のうちの1人は、国王に肩を入れすぎたとして反革命の罪で断頭台の露として消えた。
フランスでは弁護士会は強制加入であり、6万5000人の弁護士のうち4割がパリ弁護士会の会員。弁護士の独立が強調されるため、企業内弁護士は認められていない。
弁護士会はファミリーで、会長はお父さんというイメージ。
弁護士が扱う事件の送金は、すべて弁護士会の管理するカルパを通す。これによって個々の弁護士の不正を防止しているし、パリ弁護士会だけでも年間3000万ユーロもの運用益をもたらしている。
ところで、日本で事件のお金を銀行から送金するときに、判決や和解調書の提供を求められることがあると書かれています(176頁)が、わたしはそんな体験はありません。果たして東京だけのことなのでしょうか・・。ぜひ、各地の実情を教えてください。
弁護士自治がこれからも十分に機能し、守られることを改めて強く望みます。
わずか200頁あまりの本ですので、いくら内容が良くても5500円というのは高すぎます。それだけが残念でした。
(2018年5月刊。5500円+税)
2018年7月25日
1937年の日本人
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 山崎 雅弘 、 出版 朝日新聞出版
15年戦争とも言われていますが、一般には、1937年7月7日に中国の北京郊外で起きた蘆溝橋事件をきっかけとして日本は日中戦争に突入していったのでした。
北支事変、のちの支那事変の始まりです。事変とは戦争のことなのですが、宣戦布告されていないので、事変とごまかしたのです。
それは、ある日、突然に「平和の時代」から「戦争の時代」に激変したというものではなかった。むしろ、ゆるやかなグラデーションのような形で、人々の生活は少しずつ、戦争という特別なものに染まっていった。
この本は、少しずつ戦争への道に突きすすんでいった戦前の日本の状況を浮きぼりにしています。
2・26の起きた1936年は、国民が既成政党へ強い不信を抱き、また、軍部が政治的発言力を増大させていた。軍部は、軍事予算を拡張したいという思惑のもとで、「非常時」とか「準戦時」、「国難」というコトバで国民の危機感を煽るべく多用していた。
満州事変の1931年度の決算と、1937年度の予算を比較すると、予算総額は倍加し、陸海軍省費は3倍となった。
1937年5月、日本帝国政府としては支那に対し、侵略的な意図などないと発表した。そして、1940年に東京オリンピックの開催に向けて準備がすすんでいた。
北支事変において、紛争の原因は、あくまで中国側にあり、日本軍の対応は受け身であると日本側は発表した。
1937年の時点で、中国にいる日本人居留民は7万4千人。上海に2万6千人、青島の1万3千人。天津の1万1千人。北京は4千人でしかなかった。
中国の民衆からすると、日本軍はなにかと理由をつけては自国の領土に勝手に入りこんでくる外国軍だった。日本軍が「自衛」という名目で繰り返し行っている武力行使は、中国市民の目には「侵略」だった。
日本の財界人は、「北支事変」を、まさに天佑である」と信じ込んだ。
先の見通しが立たないまま拡大の一途をたどる日中戦争の長期化は、「挙国一致」という立派な大義名分の影で、じわじわと国民の生活を圧迫していった。
盧溝橋事件から、わずか3ヶ月で1万人ほどの日本軍が戦死した。おそるべき数字だ。中国側の死傷者数は42万人に達した。
1937年12月に検挙された人民戦線事件は、日本ですでに少数派になっていた政府批判者に決定的な打撃を与えた。戦争に反対したり、疑問を表明するものは、自動的に「国家への反逆者」とみなされ、社会的制裁の対象となった。
こうやって戦前の動きを振り返ってみると、まさしくアベ政権は日本の戦前の過ちを繰り返しつつあることがよく分かります。
(2018年4月刊。1800円+税)
2018年7月26日
雪ぐ人
司法
(霧山昴)
著者 佐々木 健一 、 出版 NHK出版
「雪ぐ」とは、冤罪をそそぐ(晴らす)という意味です。なかなか読めませんよね。
NHK特集番組「ブレイブ-勇敢なる者」(えん罪弁護士)が本になりました。東京の今村核弁護士が主人公です。なにしろ既に無罪判決を14件も獲得しているというのですから、すごいです。そして、それに至る努力がまさしく超人的で、ちょっと真似できそうもありません。
この本を読むと、それにしても裁判官はひどいとつくづく思います。頭から被告人は有罪と決めつけていて、弁護人が合理的疑いを提起したくらいでは、その「確信」はびくともしないのです。
そして、若いころには青法協会員だったり謙虚だった裁判官が、いつのまにか権力にすり寄ってしまっているという実例が示され、悲しくなってしまいます。
この本では、NHKテレビで放映されなかった父親との葛藤、東大でのセツルメント活動などにも触れられていて、等身大の今村弁護士がその悩みとともに紹介されています。そうか、そうなのか、決してスーパーマンのような、悩みのない弁護士ではないんだと知ることができて、少しばかり安心もします。
えん罪弁護士は、たとえ人権派弁護士であっても軽々しくは手が出せない領域だ。
本気で有罪率99.9%と対峙し続けると、その先には破滅しかない。
では、なぜ今村弁護士はえん罪弁護士を続けるのか。
それは、生きている理由、そのものだから・・・。
ちなみに私は、弁護士生活45年で無罪判決をとったのは2件だけです。1件は公選法違反事件でした。演説会の案内ビラを商店街で声をかけながら配布したのが戸別訪問禁止にあたるというのです。一審の福岡地裁柳川支部(平湯真人裁判官)は、そんなことを処罰する公選法のほうが憲法違反なのだから罪とならないとしました。画期的な違憲無罪判決です。当然の常識的判断だと今でも私は考えていますが、残念なことに福岡高裁で逆転有罪となり、最高裁も上告棄却でした。もう一件は恐喝罪でした。「被害者」の証言があまりにも変転して(少なくとも3回の公判で「被害者」を延々と尋問した記憶です)、裁判所は「被害者」の証言は信用できないとして無罪判決を出しました。検事は控訴せずに(とても控訴できなかったと思います)確定しました。
いやはや、無罪判決を裁判官にまかせるというのは本当に大変なことなのです。それを14件もとったというのは、信じられない偉業です。
犯行していない無実の人が「犯行を自白する」。なぜ、そんな一見すると馬鹿げた、信じられないことが起きるのか・・・。
社会との交通を遮断された密室で孤独なまま長い時間、尋問を受ける。そのなかで、自白しないで貫き通すのは非常に難しい。とにかく、その場の圧力から逃げたい。なんでもいいから、ここから自由になりたいという心理が強くなる。取調にあたった警察官のほうは、やっていない人を無理矢理に自白させているという自覚はない。「やっている」と思っている。根拠はないけれど、犯人だと思い込んでいる。警察は、全部、容疑者に言わせようとする。そうやって、正解を全部、暗記させたいわけ。
「放火」事件では、消防研究所で火災実験までします。当然、費用がかかります。200万円ほどかかったようです。普通なら二の足を踏むところを、日本国民救援会の力も借りて、カンパを募るのです。すごい力です。
そして、今村弁護士は鑑定人獲得に力を発揮します。迫力というか、人徳というか、並みの力ではありません。
ところで、えん罪事件で無罪を勝ちとった元「被告人」が幸せになれたのか・・・。
テレビ番組で紹介された「放火」事件も「痴漢」事件も、元「被告人」には取材できなかったとのことです。「放火」事件では、夫の無実を晴らすためにがんばった妻だったけれど、結局、離婚したといいます。
この番組ではありませんが、関西で起きたコンビニ強盗事件で無罪を勝ち取った若者(ミュージシャン)は顔を出して警察の捜査でひどさを訴えていましたが、そのほうが例外的なのですよね・・・。
この本は、自由法曹団の元団長だった故・上田誠吉弁護士に少しだけ触れています。私が弁護士になったころの団長で、まさしく「ミスター自由法曹団」でした。上田弁護士は今村弁護士に対して、「被告人にとっては、疑わしきは被告人の利益に、という言葉はない」と言った。弁護側が積極的に無罪を立証していく。これしかないというのが自由法曹団の弁護士だ。
ホント、私もそう思います。これは、もちろん法の建て前とは違います。でも、これが司法の現実なんです。したがって、弁護人は被告人と一緒になって死物狂いで積極的に無罪を立証していくしかありません。
私には今村弁護士とは大学時代にセツルメント活動に打ち込んだという一点で共通項があります。
テレビで特集番組をみた人も、みてない人も、この本をぜひ手にとって刑事司法の現実の厳しさをじっくり体感してほしいと思います。
(2018年6月刊。1500円+税)
2018年7月27日
風は西から
社会
(霧山昴)
著者 村山 由佳 、 出版 幻冬舎
巻末の参考文献の一つに『検証ワタミ過労自殺』(岩波書店)があげられていますので、ワタミが経営する居酒屋の店長が過労自殺をしたことをモデルとした小説だと推察しました。
それにしても、過労自殺する人の心理描写はすごいです。驚嘆してしまいました。
なるほど、責任感の強い真面目な若者が、こうやって自分を追い込んでいくんだろうな、辛かっただろうな・・・と、その心理状況は涙なくしては読めませんでした。
でも、この本に救いがあるのは、彼の両親と彼女が全国的に有名な居酒屋チェーンに立ち向かい、苦労して過労自殺に至る経過を少しずつ明らかにしていき、労災認定を勝ちとり、ついには社長に謝罪させ、相応の賠償金も得た経緯も同時に明らかにされていることです。そして、その勝利には我らが弁護士も大いに貢献しているのでした。世の中には、苦労しても報われないことも多いのが現実ですが、苦労は、やはり報われてほしいものです。
辞めていった店員を店長が率先して悪く言う。完全な人格否定だ。なぜ、そうするか。必要だからやる。辞めていった奴を、今いる人間にうらやましいとか賢いと思わせたら終わり。みんな、後に続いて辞めていき、使える奴なんて誰もいなくなってしまう。だから、残ってる奴に、辞めることは無責任で、はた迷惑で、最低最悪の選択だってことをとことん刷り込んでおく。そして、たまに、おごってやって誰かの悪口を言わせると、いい具合のガス抜きにもなるし・・・。なーるほど、そういうことなんですね。
テンプク。店長が全体のコントロールを誤って赤字を出してしまうこと。
ドッグ。毎週土曜日の本社での定例役員会議に店長が呼び出されること。役員の前で、なぜテンプクしたのか報告する。中身は、吊るし上げ。言葉のリンチ。どれだけ説明しても、まともに聞き届けてもらえない。何を言っても、店長としての自覚や努力が足りないことにされてしまう。揚げ足をとられたり、あからさまに挑発されたり・・・。
土曜日の朝のドッグ入り。土・日は忙しい。下準備が必要。少しでも寝ていたい。それが分かって呼びつける。こんなに不名誉で、面倒で、体力的にもとことんきつい日に二度とあいたくなければ、自分の無様なテンプクぶりを反省しろってこと。つまりは、見せしめ。
「正確なデータもなしに、なんでもいいから成績を上げろなどという無茶は言っていない。常識的なラインに、あと少しの挑戦や努力があれば達成できる範囲のプラスアルファを加味して、無理なく設定された売上目標・・・。要するに、会社が店長に望むのは、ある程度の強固な意志さえあれば、今後実現可能な目標を、毎日、着実にクリアすることだけ。じつに簡単なことだ」
このように理詰めで言われるのです。店長は売上が良くないときには、人件費を減らすため、パートを早く帰らせ、自分のタイムカードを早く帰ったようにして、実際には店に泊まりこんでしまうのです。
安倍政権の「働きかた改革」というのは、結局のところ、このような過労自殺を助長するだけだという批判はあたっているとしか言いようがありません。
「カローシ」が世界で通用するなんて、不名誉なこと、恥だと日本人は自覚しなくてはいけません。
(2018年3月刊。1600円+税)
2018年7月28日
大根の底ぢから
生物
(霧山昴)
著者 林 望 、 出版 フィルムアート社
われらがリンボー先生は、お酒を飲まない代わりに、美食家、しかも手づくり派なのですね。恐れ入りました。私は、「あなた、つくる人。わたし、食べる人」なのですが、料理できる人はうらやましいとも思っているのです。
「たべる」と「のむ」というのは、古くは違いがなかった。「酒を食べませう」、「水たべむ」と言った。「たふ」とは漢字で「給(た)ふ」と書く。いただく、ちょうだいするという、敬意のふくまれる丁重な言葉なのだ。敬意がないときには、単に、「食う」と言った。ええっ、そ、そうなんですか・・・、ちっとも知りませんでした。リンボー先生の博識には、まさしく脱帽です。
初夏の何よりの楽しみとして、柿の若葉の天ぷらがあげられています。これまた、驚きです。
タケノコは孟宗竹(もうそうちく)と思っていますが、孟宗竹とは、渡来植物で江戸時代に薩摩に中国からもたらされたのが全国に広がったもの。これまた、全国津々浦々でタケノコつまり孟宗竹がとれると思っていた私は、思わずひっくり返りそうなほどの衝撃でした。
しかも、リンボー先生は、旬(しゅん)のタケノコを茹(ゆ)でて、マリネにして食べるんだそうです。なんとも想像を絶します。
関東は柏餅(かしわもち)、関西(とくに京都)は、粽(ちまき)を食べる。九州生まれ育ちの私は、子どものころ、実はどちらも食べた記憶はありません。
リンボー家では、料理は、朝晩ともリンボー先生の担当で、奥様は料理しない。そして、家でつくる料理は飽きがこない。うむむ、これは分かります。
でも、実は、リンボー先生は、月に2回か3回は、なじみの寿司屋で握りをつまんでいるのです。私などは、寿司を食べるのは、それこそ、年に2回か3回もあればいいくらいです。回転寿司など、これまで一度も行ったことはありませんし、これからも行きたいと思いません。
寿司屋に行って、カウンターに座って寿司が差し出されたら、すぐに食べるのが、まず何より大切なこと。職人の手を放れて目前の寿司皿にすっと置かれたその瞬間に、まさしく阿吽(あうん)の呼吸でこちらの口中に運ばなくてはならない。それでこそ、握るほうと食べるほうの気合いが通いあってほんとうの寿司の味が分かるのだ。
リンボー先生が「なまめかしい食欲」なんて書いているので、例の「女体盛り」かと下司(げす)に期待すると、なんと、「なまめかしい」とは「飾り気のない素地としての美しさ」ということで、拍子抜けします。
私と同じ団塊世代(私が一つだけ年長)のリンボー先生は、緑内障になってしまったとのこと。私は、幸い、まだ、そこまでは至っていません。白内障とは言われているのですが・・・。
季節の食材をおいしくいただく喜び。こんな美食こそ人生の最良の楽しみの一つだと痛感させてくれる本でした。リンボー先生、ますます元気に美味しい本を書いてくださいね。
(2018年3月刊。1800円+税)
2018年7月29日
旅する江戸前鮨
社会
(霧山昴)
著者 一志 治夫 、 出版 文芸春秋
この本を読むと無性に江戸前鮨が食べたくなります。江戸前鮨と海鮮寿司とは違うものだというのを初めて知りました。海鮮寿司はナマモノだけど、江戸前鮨は煮たり焼いたりして手を加えているので、食中毒の危険がない。
この違いを世間が知らないうちに食中毒で誰かが死んだりしたら、生レバー刺しがたちまち禁止されたように、寿司店でも「ナマ禁止、手袋着用」となるだろう。
カウンターに座って、目の前の寿司職人が手袋をしていたら、やはり興冷めですよね。
私は回転寿司なるものを一度も食べたことはありません。寿司にしても、娘たちが帰ってきたときに「特上にぎり」を奮発するくらいですので、年に2回あるかないか、です。それでも、一度は銀座でおまかせコース2万円というのを食べてみたいという夢はもっています。そんな店は予約が半年先まで埋まっているそうなので、無理な話でしょうか・・・。
これからの鮨屋にとって一番大切なのに、人間を仕込むとか、人間をつくることになってくる。鮨を売るというよりも、自分を売る。人間力がカギ。
江戸前鮨の真骨頂として、コハダの握りがある。コハダはシンコ、コハダ、ナカスミ、コノシロと名前の変わっていく出世魚。塩と酢の加減、締め方、身の硬さ柔らかさ、酢と飯の一体感、そして姿の美しさ・・・。
江戸前鮨とは、シャリに合うように魚を手当すること。魚に塩をあて、昆布じめにしたり、漬けにしたり、煮付けにしたりする。ときに火も通す。これに対して海鮮寿司は、単に酢飯の上に新鮮な魚をのせるだけ。
鮨屋は、いまや、あらゆる職業のなかで最後に残った「理不尽の砦」だ。労働基準法を守れば鮨屋は成りたたないとはよく言われる。職人の拘束時間は長く、技術を習得するまでの修業は辛い。上下関係も厳しい。
鮨屋は、人間力が問われる場であり、客も職人も勘違いしやすいところでもある。
「すし匠」では、入ってきた見習いが飯場にすぐに立つことはない。早くて数年の歳月が必要。
「無駄な時期というのは大切。無駄な時期をいかに与えるか、無駄な時期を無駄と思わせないでやらせることも大切。人間って、無駄がないとダメなんだ」
東京・四ツ谷で超有名な鮨店を営んでいた著者は50歳にしてハワイへ旅立ち、そこで今では評判高い鮨店を営業しています。この店の食材は基本的にハワイ原産のもの。日本の魚よりハワイの魚は味がすべて薄いので、塩や昆布を日本より強めにする。
すごいですね。ハワイ原産の魚を素材として江戸前鮨をハワイの客に出しているのです。「すし匠ワイキキ」は、ひとり300ドル。つまり3万円ほど、ですね。
私はハワイには行ったことがありません。フランス語を勉強している私は、やっぱりニュー・カレドニアのほうがいいんですよ・・・。
(2018年4月刊。1300円+税)
2018年7月30日
ありがとうもごめんなさいもいらない森の民
人間
(霧山昴)
著者 奥野 克已 、 出版 亜紀書房
この本のタイトルは、まだ続いていて、「と暮らして人類学者が考えたこと」となっています。
ボルネオ島に暮らす人口1万人の狩猟採集民あるいは元・狩猟採集民をプナンと呼びます。そのプナンの人々と共同生活した学者による興味深いレポートです。
プナンが旧石器時代からの生き方を今日まで維持しているという証拠はない。しかしプナンが定住農耕民とは異なる遊動民のエートスをもち、人類は元来こうだったのではないかと思わせてくれる行動やアイデアにあふれている。
マレーシアのサラワク州を流れるプラガ川の上流域の熱帯雨林に現在、およそ500人のプナンが暮らしている。
プナンは、生きるために、生き抜くために食べようとする。プナンは、森の中に食べ物を探すことに1日のほとんどを費やす。食べ物を手に入れたら調理して食べて、あとはぶらぶらと過ごしている。プナンにとって、食べ物を手に入れること以上に重要なことは他にない。プナンは「生きるために食べる」人々である。
森に獲物がないときは、何日も食べられないことがある。獲物がとれたときは、食べたいだけ肉を頬張る。食べては寝、寝ては食べる。1日に4度も5度も食べ続ける。
赤ん坊にオシメはない。赤ん坊が便を垂れ流すと、母親は特定の飼い犬を呼び寄せて、肛門を舐めさせきれいにする。犬が赤ん坊のこう門をぺろぺろと舐めると、赤ん坊は気持ちがいいのと、こそばゆいのとで、きゃっきゃっと騒いで喜ぶ。
プナン語に「反省する」という言葉はない。プナンは、後悔はたまにするが、反省は恐らくしない。プナンは状況主義だ。くよくよと後悔したり、それを反省へと段階を上げても、何も始まらないことをよく知っている。
プナンに生年月日を尋ねても、答えられる人は誰ひとりとしていない。自分がいつ生まれたのか覚えていないし、周りの誰も知らない。プナン社会にはカレンダーがない。
プナン社会では、人の死は、ふつうの出来事である。プナンは遺体を土中に埋めたあと、死者を思い出させる遺品をことごとく破壊し尽くし、死者の名前を口に出さないようにして、死者と親族関係にある人々の名前を一時変える。
プナンは未来を語ることもしない。子どもに対して、「将来、何になりたいの?」と、将来の夢を尋ねることは、まったく意味がない。プナンは生まれ育った森での暮らしのなかに自己完結するような人々であり、職業や生き方に選択肢はない。
プナンは腕時計をはめる。しかし、その腕時計は単なるファッションであって、時間はあっていない。時間はどうでもいいのである。
プナンは、すべての人物に、あらゆる機会に参画することを認める。機会もまた分け与えられる。何かをするときに、独占的にするのではなく、みなで一緒にしようとする。
プナンは、参画したメンバーの間の平等な分配に執拗なまでこだわる。プナンは、あるものを、得たものを均分することにこだわって生きてきた。
プナンは独占しようとする欲望を集合的に認めない。分け与えられたものは、独り占めするのではなく、周囲にも分配するよう方向づける。
プナンの父母と子どもたちは、食事の機会をふくめて、常にできるだけ一緒にいよう、行動をともにしようとする。プナン社会では、子が親の膝もとで生きていくすべをゆっくり、じっくりと学び、ゆるやかに親のもとを巣立ちながらも、その後も親たちの近くで暮らす傾向にある。
プナンは学校に行きたがらない。父母や家族と離れてまで、そんなことはしたくない。プナンの子どもたちは、学校に行きたくないから、行かない。学校教育は定着しない。
プナンは、遠くに長く出稼ぎに行くようなことはしない。都市生活をするプナンはいない。プナンは一生涯、森の周囲で暮らす。森の中では、掛け算や割り算は役に立たないし、英語を身につけても使う機会がない。
ボルネオ島の熱帯にこんな人々が住んでいたのですね。人間の欲望とは一体何なのかを考えさせられました。
(2018年6月刊。1800円+税)
2018年7月31日
琑尾録(下)
朝鮮・韓国
(霧山昴)
著者 呉 希文 、 出版 日朝協会愛知県支部
豊臣秀吉による朝鮮出兵のころ、朝鮮国の人々がどんな暮らしをしていたのか、それを知ることのできる貴重な記録です。
当時の朝鮮では、虎が村人を襲うことが現実にあっていたことも知りました。加藤清正の虎退治は話として有名ですが、朝鮮の村人たちは実際に虎に襲われていたのです。
もう一つ、科挙試験が実施されていたということに驚きました。日本軍の侵攻によって朝鮮の国土が荒廃してしまったという印象が強かったのですが、意外にも朝鮮の人々はしぶとく復興して科挙試験を続けていたのです。
上巻で紹介しましたが、著者は、ソウルに代々住んでいた両班です。
壬辰倭乱(じんしんわらん。豊臣秀吉の朝鮮出兵を朝鮮側は、このように呼びます)のとき、著者は54歳。75歳で亡くなっています。科挙には合格しなかったので、官界では出世できなかった。儒学を学び、文筆にすぐれ、 篤実な人柄で、高い見識をもっていた。
著者の息子(允謙)は科挙に合格し、のちの光海君時代に通信使として日本へ行き、その後は、仁祖朝で領議政というトップ8人の官僚になった有名な政治家である。
12月13日。落とし穴に大きな虎がかかったという。
2月26日。昨夜半、この役所の官婢が虎に襲われ、くわえ去られた。助けを求める声が響いたが、村人たちは恐れて出ていかなかった。
2月27日。賊将の小西行長が日本に兵を要請し、清賊(加藤清正)とともに左右に分かれて上って来るという。大変だ。
3月6日。科挙合格者の掲示が出た。
3月7日。また、虎が山すその民家の庭に入り、寝ていた人を連れ去った。その場で奪い返すことができず、朝探しに行くと、半分食われていたという。何たる痛慣事。凶悪な獣が横行し・・・。誰もが恐れおののき、日が落ちると門戸を固く閉じ、外出しない。
3月21日。科挙試験の合格証書授与のときに着る礼服のことでもめている。
1597年、豊臣秀吉が再び侵略してきた。ソウルは明軍でみちあふれ、国の財政はすでに尽きたという。国家がどのように対応していこうとしているのか、不明だ。何と嘆かわしいことか。明の官庁を置き、明の官僚に住を与え、明の政治をさせるのであれば、わが国のことが明人の手によって操縦されることになり、わが国王は、形ばかりの地位にされる。行く末がどうなるのか分からない。
民の暮しの窮状はますます甚だしくなる。慨嘆の極みだ。
B5判サイズで400頁をこえる大作(別に上巻があります)です。
戦乱に追われる日々のなかで日記にあれこれ書きしるしたことによって、当時の朝鮮の人々の置かれていた状況を少しばかり実感することが出来ました。翻訳、ありがとうございます。
(2018年6月刊。3000円+税)