弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年6月 5日

八甲田山、消された真実

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 伊藤 薫 、 出版  山と渓谷社

日清戦争(1894年)で日本が勝ち、日露戦争(1904年)が始まる2年前の明治35年(1902年)1月、雪中訓練のために八甲田山に向かった歩兵第5連隊第2大隊は山中で遭難し、将兵199人が亡くなった。
この事件については、新田次郎『八甲田山、死の彷徨』が書かれ、映画「八甲田山」になりました。
この本の著者は元自衛隊員で、八甲田演習に10回ほど参加した経験がありますので、説得力があります。
遭難後の事故報告は、都合の悪いことは陰蔽あるいは捏造し、ちょっとした成果は誇張するのが常のとおりだった。
予行行軍と予備行軍の違い・・・。予行行軍は、本番とほとんど同じ編成・装備で田代まで行軍し、露営すること。予備行軍は、編成・装備・距離等に関係なく、たとえば本番のために1個小隊40名が10キロ行軍するようなこと。
行軍計画と軍命令の違いは何か・・・。紙に書いたものが計画、それを下達すれば命令となる。
行軍計画で一番重要なのは、時間計画である。陸軍の夕食は17時。だから、遅くとも15時には露営地に到着していないと17時に給食はできない。
八甲田山に向かった将兵は、温泉に入って一杯やろうと考えていた。
当時の日本軍には、防寒・凍傷に関する教育不足があった。それは軍の防寒に対する未熟さと制度の問題があった。下士官以下の兵士には下着は支給品で木綿だった。ところが綿は汗を吸収すると肌にぴったりとへばりついて身体を冷やすので、冬には不向き。毛にすると、汗をかいても身体に密着することなく、かつ保温性もあった。
そして、兵士はワラ靴をはいて行軍した。ワラ靴は、歩くときにはあたたかいけれど、運動止めると、それに付着した雪塊でかえって凍傷を起こしていた。さらにワラ靴を長くはいていると、編み目に入り込んだ雪がヒトの体温で溶けてワラが濡れ、じわじわと広がってワラ靴のなかがびちゃびちゃになる。気温が低いときには、そのまま凍ってしまう。
目的地の田代を知らず、計画と準備は不十分なまま、二大隊は悲劇へと突き進んでいった。このとき救出された将兵は、じっと同じ場所でほとんど動いていないことが判明した。
八甲田山事件は血気盛んな日本軍の将校が準備不足のまま成果を上げようとして起きた悲劇だった。そして、功名心にはやる福島の冒険を師団長が評価した。このことのもつ意味は大きい。通説や新田次郎の本とは違った視点から事件の真相を究明している本です。
(2018年2月刊。1700円+税)

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