弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2018年3月24日

東大教授の「忠臣蔵」講義

日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  山本 博文 、 出版  角川新書

 私が生まれたのは「師走半ばの14日」です。つまり、赤穂浪士の討入りの日です。とはいっても、今のカレンダーでいえば2月になるのでしょうか・・・。
 大石内蔵助は、本当に敵をあざむくために京都の祇園で遊蕩したのか・・・。どうやら史実ではないようです。
驚くべきことに、藩の財政の一部を活動資金として、いつ、その収支明細がきちんと記帳されていたのです。さすがは日本人です。こまかい計算が好きな人は昔も今も多いのですね。
 吉良家は高家(こうけ)ですが、この「高」というのは足利高氏(たかうじ)の「高」なのですね。つまり室町将軍の血筋を引く家ということ。知りませんでした。
浅野が吉良に切りかかったとき声をかけたのは、それが武士の作法だから。そうしないと卑怯な行動になってしまう。
吉良は逃げただけで、刀に手をかけなかった。もし刀に手をかけていたら両成敗になって吉良も切腹するはめになっていた。
吉良が諸大名から贈り物を受けるのは、当時の慣行からすると、悪いことではなかった。江戸時代の慣行として、人にものを教わったときに、それ相応のお礼をするのは当然のことで、賄賂(ワイロ)ではなかった。
吉良が老中の面前で浅野の面子(メンツ)をつぶしたのは問題があった。当時の武士は、人前で悪口を言われて黙っていたら「臆病」とされ、切腹するか出奔するしか道はなかった。
実際に討入りしたのは47人だったが、盟約に加わった同志は100人ほどいた。それがいろんな事情で減っていき、ついに半分以下になった。
内蔵助は祇園や伏見に踊りを見に行っているが、息子の主税と一緒。なので、遊郭で遊んではいないのではないか。しかし、内蔵助は京都には可留(かる)という妾がいて、子どももいた(幼くして死亡)。
討ち入りの前になると内蔵助の軍資金が尽きかけていた。それで、もう延期はできなくなっていた。
浪士たちは、全員、自分たちは死ぬものだと考えていた。討ち入りが成功しても、幕府の厳しい処分が予想された。再就職のためなんて、とんでもない誤り。死ぬと分かっている討ち入りに進んで加わった。
江戸時代の武士の社会では「武士道」という道徳がなにより優先された。今日の道徳とは、まったく違うもの。
吉良邸にも100人ほどの家来がいた。しかし、非番の家臣たちは長屋にいて、浪士たちが出口を固め、長屋に閉じ込めてしまった。それで浪士たちと戦った者は40人もいなかった。
浪士たちは「火事だ」と叫んでいるが、こんなだまし討ちも、手段を選ばないのが当たり前なので、非難されることではない。
吉良家側で戦った武士のうち16人が討ち死にし、21人が負傷(重症は4人)。このほか12人が逃げ出した。討ち入りは1時間ほどしかかかっていない。
さすがによく調べてあると感嘆しながら一気に読みあげました。
(2017年12月刊。880円+税)

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