弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2018年1月24日
ヴェトナム戦争・ソンミ村虐殺の悲劇
アメリカ・ベトナム
著者 マイケル・ビルトン、ケヴェン・シム 出版 明石書店
私の大学生のころ、ベトナム戦争が真最中で、何度も何度も「アメリカのベトナム侵略戦争、反対」を叫びながらデモ行進したものです。
ベトナム戦争が終わったのは、私が弁護士になった年の5月1日、メーデーの日でした。たくさんのベトナム人が殺されました。そして、ベトナムのジャングルで意味もなくアメリカ兵が死んでいきました。5万5000人もアメリカの青年が死んだのです。でも、ベトナム人の死者はその10倍なんかではありません。数百万人です。
いったい何のためにアメリカは遠いベトナムに50万人もの大軍を送り込んだのか、まったく壮大な誤りとしか言いようがありません。ベトナム戦争で利益を得たのは軍需産業と一部の軍トップだけです。
ベトナムでアメリカ軍は残虐な集団殺人を繰り返しました。それは、ベトナムの共産化を防ぐため、ベトナムの国民を共産主義の脅威から救うため、ベトナムに民主主義を定義させるためというのが口実でした。しかし、現実には、アメリカ人はベトナム人を人間とは思っていなかったのです。それは、ナチス・ヒトラーがユダヤ人を人間と思っていなかったのと同じです。
この本は560貢もの大作です。
ソンミ村の大虐殺事件が起きたのは1968年3月16日。わずか4時間のうちに500人以上の罪なき村民が、子どもをふくめて虐殺された。犯人は第20歩兵連隊第1大隊チャーリー中隊の45人の隊員。アメリカ全土からベトナムにやってきた20歳前後の典型的なアメリカ青年たち。その出身は中流階級から労働者階級。
大虐殺事件が明るみに出て、小隊長1人だけが刑務所にわずか数ヶ月間だけ入れられ、そのあと「無罪」放免となった。むしろ、アメリカ国民の一部からは「英雄」かのように迎えられた。
このソンミ村大虐殺事件は、次のことを教えている。
戦争では、現場で戦っている軍隊に統率力と道徳的決意の明確な意義がないときには、まともな家庭の善良な若者たちでさえ、事件に巻き込まれ、罪のない無力な人々を故意に残虐に殺害するという恐ろしい悪習に巻き込まれることになる。
第1小隊の隊長カリー中尉は、無防備な老人を井戸に投げ込み射殺した。カリー中尉は、死者で一杯になった用水路から這い出てきた赤ん坊を見て、その足をつかんで穴の中に再び放り込んで射殺した。そして、ソンミ事件で有罪となったのはカリー中尉の一人だけ。1971年に重労働をともなう終身刑を宣告された。ところが、ニクソン大統領は一審判決の30日後にはカリー中尉の釈放を命じた。1974年にカリー中尉が保釈されたが、実はそれまでも基地内で特権的な自由を享有していた。
ソンミ事件で虐殺したアメリカ兵の平均年齢は20歳前後。アメリカル師団第11軽歩兵旅団の部隊であるチャーリー中隊は、ベトナムに駐留してまだ3カ月ほどしかたっていなかった。
1968年3月というと、私も彼らと同じ19歳なのです。まったく私と同じ年齢の「善良」なアメリカの青年たちが、武装していない老人、女性、子どもたちを冷酷に4時間にも及んで殺害し続けたのです。信じられないことです。しかも、強姦、肛門性交、四肢の切断など、、、。想像を絶するあらん限りの虐待を繰り広げました。
今では、アメリカ人のなかにソンミ村の大虐殺は完全に忘れ去られている。せいぜい、ベトナム戦争中に起きた不愉快な事件として、あいまいに記憶されているだけでしかない。
ベトナムでは、そうではない。ソンミ村の現場には、2階建の立派な博物館があり、毎年3月16日には、追悼式典が開かれている。
ベトナム戦争の最盛時、50万人のアメリカ兵がベトナムに滞在し、毎月20億ドルも費やしていた。世界最強の軍隊が50万人いても、侵略者は最終的に勝利することが出来ないことを実証したのが、ベトナム戦争でした。
1968年というのは、1月にテト攻勢があり、サイゴン(現ホーチミン市)にあったアメリカ大使館が解放戦後(べトコン)の兵士によって1日中、占拠されたのでした。この様子がアメリカ全土に実況中継され、アメリカ政府の言っていることは信用ならない、ベトナムから手を引けというベトナム反戦運動を一気に高掲させました。
ソンミ村で虐殺した兵士たちは正常な心理状態を奪われてしまいました。今もなおPTSDに苛まれているアメリカ人が28万人いて、12万人が治療を受けているのです。
しかし、アメリカ社会は全体として、カリー中尉たちを容認し、アメリカ兵が虐殺したことを忘れることに努めているようです。それはアメリカが戦争国家だからです。私は日本がそんな国にならないことを、ひたすら願います。貴重な本です。ぜひ図書館で借りてお読み下さい。 (2017年6月刊。5800円+税)