弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2017年12月15日

闘いを記憶する百姓たち

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者 八鍬 友広、 出版 吉川弘文館

百姓一揆の訴状が読み書き教材として広く普及していたというのです。驚きです。
どこかで一揆が起きて支配層への異議申立として訴状を書いた。すると、やがて我が村でも起ち上がらなければいけなくなるかもしれないので、訴状の書き方を勉強しておこうと村の主立(おもだ)ち衆が考えていたようです。
この前提として、日本の農村の多くの人が読み書きは出来るということが不可欠です。
江戸時代には読み書き計算などのような基礎的な能力が社会の中に一定の密度で分布していた。このような力量を身につけた民衆は、もはや「もの言わぬ民」などではなく、武士に対してさえ強情に「もの言う」百姓たちだった。時代劇で描かれる「悲惨な民」とは異なり、近世の百姓は、自らの利益のために積極的に訴訟を起こし、武士に対しても堂々と自己主張する存在だった。
江戸時代は、「訴訟知」を身につけた民衆が頻繁に訴訟を起こす「健訴社会」だった。
17世紀前半に起きた百姓一揆や地域間紛争のなかで作成された訴状が読み書きのための教科書になっていた。
これを目安往来物(めやすおうらいもの)という。「目安」とは、箇条書きされた訴状のこと。「往来物」とは、読み書き学習用のテキストブックのこと。「往来物」の最盛期は、じつは明治初期だった。学校制度が始まったけれど、まだ新しい教科書はなかったからだ。
寛永白岩一揆で作成された訴状を白岩目安といった。寛永10年(1633年)、出羽国村山郡白岩郷(山形県西村山郡西川町から寒河江市にかけて・・・)の百姓たちが領主の悲法を幕府へ訴えた。直訴である。租税の負担増、年貢率の上昇に不満をもった百姓たちは、保科家に騙され、36名ものリーダーが磔刑(たっけい)に処された。ただし、領主であった酒井長門守忠重も白岩郷から排除されている。
この寛永・白岩一揆は違法性が強いものであったはずなのに、その訴状は広く東北一円に流布している。
境界争論に関する目安も往来物にふくまれている。白峯(しらぶつ)鉱山目安として伝わり、広まった。
対立する村人は実力行使で争ったが、それでケリがつかなかったので、ついに幕府に訴状を提出した。
このように、文書作成上の知識は、村役人クラスの人々にとって常に必須のものだった。聖徳太子以来、日本人は裁判を好まなかったという俗説はまったくの間違いだと私は確信しています。聖徳太子は裁判が多すぎるからほどほどにしろ、仲良くしなさいと人々をさとしたのです。また、裁判官が賄賂を当然のようにもらっている風潮に対しても警告を発していました。  
この本を読むと、江戸時代の人々が裁判に命をかけていたことが良く分かります。日本人は条件さえととのえば、裁判を辞さないという国民性をもっています。今のLAC利用の急増をみても、ますます確信します。
(2017年10月刊。1700円+税)

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