弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2017年8月19日

武田氏滅亡

日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版  角川選書

ええっ、この本は何なの・・・。新書でないことは覚悟のうえ。選書といっても、こんな厚さの本って、ないでしょ。なんと、この本は750頁もあるのです。
主人公は、織田信長に滅ぼされた武田勝頼です。勝頼については、偉大な父・信玄のバカ息子というイメージが強かったのですが、最近は見直されて、信長は、何度となく息子の信忠に勝頼をあなどってはいけないと警告しています。実際、勝頼は知謀もあり、武力もすぐれていたのですが、時の運には見捨てられた存在でした。この本も、勝頼=バカ殿様説はとっていません。
勝頼の最期は、「天目山」とされているが、実際には、そのような名前の山はない。そして、正確には、武田氏が滅亡したのは、「天目山」ではなく、「田野」(たの)である。
勝頼に最後まで付き添っていた武田軍の武将たちも裏切り、脱走が相次いでいて、ついに勝頼たちは、この「田野」で進退谷(きわ)まった。勝頼は、このとき37歳、妻は19歳、長男信勝は16歳だった。信勝は、最初で最後の戦場で亡くなったことになる。
勝頼の最期は、戦死したのか自刃したのか、まだ確定していない。
武田氏は天正15年(1582年)3月11日に滅亡した。このとき、勝頼の周囲にいたのは、武士40人ほど、侍女50人ほどだった。
その前、信長は、長男の信忠に対して、勝頼を弱敵と侮っていけないと再三再四、いさめる書面を送りつけていた。指示を無視して、とんでもないことになったら、もう会うこともないという脅しまで書いていた。つまり、信長にとって、武田勝頼は決して「バカ殿様」という存在、ではなかったのです。
では、勝頼は、なぜ、時の運がなかったのか・・・。この本は、その点について、徹底的に考察しています。
武田信玄は、1573年に53歳で亡くなったのですね。早すぎる死でした。
勝頼は、突然の父死亡により、当初から権力基盤は不安定だった。それは、そうでしょう。若いというだけではなく、勝頼は「諏方」(すわ)勝頼であって、武田勝頼ではなかったのですから・・・。
長篠合戦で武田軍が大敗したのも、勝頼が「バカ殿様」だったからというのではないようです。ただし、勝頼は、織田軍の勢力を過小評価していたようではあります。索敵が甘かったと著者は評しています。
長篠合戦での鉄砲三段撃ちは、ありえないという批判が克服されて、今では、三段撃ちもありえるということになっています。そして、武田軍にも、それなりに鉄砲隊はいたようなのです・・・。
勝頼は、上杉家の内紛、そして北条家とのたたかいなど、まさに戦国の厳しい時代を戦い抜かなければいけなかったのですが、いかんせん時の運から完全に見放されてしまいました。信長方の謀略にひっかかって寝返りをうつ武将が相次ぐのを止められなかったのです。時の流れというのは恐ろしいものです。
ともかく、武田勝頼を「暗愚」な戦国大名とみるわけにはいかないことを決定づける大著です。学者は、すごいです。
(2017年4月刊。2800円+税)

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