弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2017年6月14日

守柔・・・現代の護民官を志して

司法


(霧山昴)
著者 守屋 克彦 、 出版 日本評論社

守柔って、いったい何だろうと思いました。老子52章に「守柔曰強」という表現があるとのこと。「柔を守るを強という」、つまり、柔弱の道を守るのは、かえって剛強の道であると解釈されている。
著者は東北大学出身で判官になり、青法協の熱心な会員となります。それは、まだ司法反動の嵐が吹き荒れていない、のどかな時代を過ごします。東京地裁にいたとき、青法協会員の裁判官の集まりとして「J・J会」をつくって研究会活動を始めてもいます。
東京J・J会が始まったとき101人、最終的には240人の会員を擁していた。
信じられない人数です。ところが、その会報に会員の異動をのせていたところ、それが「敵」の手にわたり、「裁判所の共産党員」とデッチ上げられてしまうのでした。
東北大学生として司法試験には現役での合格ですが、9人いたとのことです。著者は実質8ヶ月間の勉強で合格しています。
病気のため1年間療養して、12期として司法研修所に入った。あとで再任拒否された宮本康昭氏も同期。のちに最高裁長官となった町田顕裁判官は、司法修習生のときから青法協会員として活発に活動していて、東京J・J会にも当初から入会するという、熱心な青法協会員だった。
平賀書簡という地裁所長による裁判干渉事件が起きたとき、福島重雄裁判官から著者は真っ先に相談を受けた。
「正面から問題にしようと言っている福島さんを孤立させるわけにはいかないという決断には時間はかからなかった。しかし、裁判所のなかで、多分ただではすまないだろうなという不安はあった」
「父親から、何かあると黒星判事と言われて、地方回りをさせられるそうだと聞かされていたことを思い出した」
著者は所長からの事情聴取を3回うけた。青法協からの脱会の意思の有無を問われ、「会にとどまって事態を収拾したい」と答えた。
著者は最高裁による再任拒否者の筆頭とみられていた。ところが、著者ではなく、宮本康昭氏が拒否された。
全国裁判官懇話会が始まったのは昭和46年10月のこと。昭和47年2月、大阪で開かれたときには全国から255人もの裁判官が参集した。
14期では再任拒否は出なかった。
そして、1999年11月の懇話会に矢口洪一・最高裁元長官を招いて講演してもらった。
矢口洪一は、全然反省していない。矢口のなかでは宮本氏の首を切ったことも、懇話会に出て話すことも、まったく矛盾していないと思われる。
著者自身は肯定的に評価しているけれど、「矢口を呼んだのは絶対に間違いだ」と言う人も少なくない。
私の同期の元裁判官もその一人です。当時、わざわざ席をはずしたとのことです。
その結果、裁判所はどうなったか。上の方ばかり見ている、いわゆるヒラメ裁判官が多くなり、裁判所の活気が低下していく気配が生まれた。矢口長官のご機嫌をうかがうような人たちが矢口長官の意向を先取りして(忖度して)締め付けをした。これは官僚組織の通弊だ。
宮本氏の再任拒否に対して、東京の裁判所では要望書を集めることは出来なかった。
やがて、最高裁の局付判事補10数名が青法協会員だったところ、集団で脱退した。その先頭を切ったのが町田顕だった。
青法協には、東大のセツルメント出身の人が多かった。町田顕もその一人だった。
本当によい裁判をしようと思っていた人間の集まりがJ・J会だった。
自分がすすんで加入した会に対する退会の意思を内容証明郵便で出して、司法行政の管理職に報告するところまで追い込まれた行動を転向にはあたらないと言えるものなのか、疑問を感じる。
脱会しないで残った方にしても、余計な不利益は避けたいという自己規制が働くことになる。全体として、組織の活性化には大変なマイナスになったことは否定できない。
このような雰囲気に失望して辞めていた裁判官の仲間が多かったし、優れた人材が新任拒否で裁判所に入れなかったりして、日本の司法にとって取り返しのつかない損失がもたらされた時代だった。
どうでしょうか、今も、日本の裁判所のなかはその「損失」が拡大再生産されたまま、活気に乏しいままのような気がしてなりません。本書は決して過去の話ではなく、現代に生きている深刻な問いかけをなしていると思います。
聞き書きが本になっていますので、大変わかりやすい読みものとなっています。「司法の危機」に関心のある人には欠かせない本だと思います。一読を強くおすすめします。
なお、最新の判例時報に宮本康昭氏が連載をはじめました。心ある裁判官には社会から課せられた重い任務から、逃げずに誠実に遂行してほしいと心から願っています。
(2017年5月刊。1400円+税)

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