弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2017年2月19日

日本史のなぞ

日本史(鎌倉時代)


(霧山昴)
著者  大澤 真幸 、 出版  朝日新書

 著者は日本の歴史上ただ一人の革命家は、信長でもなければ龍馬でもなく、北条泰時だと主張しています。
日本社会の歴史のなかで、天皇や朝廷に全面的に反抗して、なお成功したものは承久の乱のときの北条泰時のみ。それ以外には一人もいない。
そもそも、天皇に真っ向から完全に対決した者は非常に少ない。
承久の乱のあと、鎌倉幕府は、ときの仲恭天皇を廃し、三人いた上皇を、隠岐、佐渡そして土佐に流した(流罪)。非皇室関係から皇室関係者が一方的に断罪されたのは、これが初めてで、その後もない。
承久の乱(1221年)のとき、鎌倉幕府が執権北条得宗家を中心にしてまとまったのは、承久の乱を戦うことを通じてだった。この戦いのなかで武士たちは連帯した。鎌倉幕府は、京都からの軍を鎌倉で迎撃するのではなくて、積極的な攻撃に出た。
北条泰時は、地方の武士を連合させて中央の政争に介入して皇室軍に勝利した。
そして、日本列島全域に及ぶ権力を獲得し、独自の法(御成敗式目)を公布した。これによって「武者の世」が本格的に始まり、明治時代の幕開けまで続いた。泰時のなし遂げた革命とは、このことである。
北条泰時は、執権として関東御成敗式目(ごせいばいしきもく)を定めた。この法では裁判の公正性がもっとも重要だった。この御成敗式目は、中国の法律を受け継いだというものではなく、日本史上初めての体系的な固有法である。
北条泰時は、日本社会の歴史のなかで唯一の成功した革命家である。北条泰時は日本社会に初めて体系的な固有法をもたらし、この法は広く深く日本人の生活に浸透し、定着した。
北条泰時は、院宣に反して幕府軍を率いて天皇軍を打ち負かした。そして、天皇の一陪臣の身でありながら、三人の上皇を配流した。だから天皇制支持者から罵詈雑言をあびせられても不思議ではない。ところが、逆に天皇を熱烈に支持する学者からも激賞されている。
なるほど、こういう見方も出来るんだと、驚嘆しました。
(2017年1月刊。720円+税)

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