弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年11月21日

忍性

日本史(鎌倉時代)

(霧山昴)
著者 松尾 剛次 、 出版  ミネルヴァ書房

鎌倉時代に、ハンセン病患者に挺身していた高僧がいたのですね。ちっとも知りませんでした。良観房忍性(にんしょう)という僧です。ハンセン病患者の患部に自ら薬を付けるなど、直接的な看護を目指していたというのです。すごいですね。
忍性たちの教団はその時代に10万人近くの信者を獲得し、1500の末寺を保有していた。鎌倉時代、最大の信者数を誇る新興教団だった。その規模は、当時の日本で最大の人口を有していた平安京が12万人ほどと推測されていることからも想像できる。
忍性の生きた時代、すなわち13世紀の後期・末期から14世紀初頭の鎌倉時代は、日蓮や一遍といった鎌倉新仏教僧が活躍した時代であり、また蒙古襲来という未曾有の危機に見舞われた時代でもあった。
忍性は、奈良や鎌倉で精力的にハンセン病患者の救済活動をすすめた。
当時、ハンセン病患者は、人間に非ざる存在(非人)とされ、筆舌に尽くしがたい差別を受けた。前世あるいは現世における悪業によって仏罰を受けた存在だと認識されていた。それは、ハンセン病患者の救済に従事した叡尊らも例外ではなかった。
ハンセン病患者たちは、もっとけがれた存在だと考えられていて、非人と呼ばれ、人々との交際も拒否されていた。そうした彼らに忍性らは救済の手をさしのべた。こうした慈善救済事業と戒律護持の態度などから、忍性は北条時頼、重時、実時ら鎌倉幕府の幕閣たちの尊敬をも集めた。
当時、僧侶の妻帯は一般化していたし、僧兵という、僧侶でありながら武芸を誇る者が多数いた。忍性は戒律を重視し、その護持を誓い、他者にもその護持を求める律僧であるとともに、密教僧でもあった。このころ僧侶の破戒は一般的だった。戒律復興を叫び、戒律護持を勧めた叡尊、忍性らが注目されたこと自体が、そのことを逆説的に証明している。
中世において、僧侶には、官僧と遁世僧という二つのタイプがあった。叡尊らは、不治の病とされたハンセン病患者救済をはじめ、橋・港湾の整備、寺社の修造、尼寺の創出など、さまざまな社会救済事業を行った。その結果、叡尊の教団は、10万をこえる信者を擁する鎌倉時代最大の仏教勢力の一つとなった。
叡尊や忍性らは行基の活動をモデルとしていた。彼らは行基信仰をもっていた。
忍性をライバル視し、激しく批判したのが日蓮だった。忍性と日蓮は、宿敵と思えるほど激しく対立した。その背景には、都市鎌倉での信者をめぐる獲得競争があった。
忍性は、1303年(嘉元元年)7月12日に87歳で亡くなった。
鎌倉時代の社会の実相を再認識させられる本でした。
長年の友人である裁判官からすすめられて読みました。いい本をすすめていただき、ありがとうございました。
(2004年11月刊。2400円+税)

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