弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年10月 9日

天文学者たちの江戸時代

江戸時代

(霧山昴)
著者  嘉数 次人 、 出版  ちくま新書

 星を見ていて、それを数式にあらわして計算できるって、私の理解をこえます。暦をつくるというのも同じで、月の満ち欠けを見て美しいなんて思ってないで、それを1年365日と結びつける、なんていうのも私の想像をこえます。そして、和算です。アラビア数字をつかわないで、漢数字で、どうやって微分・積分などの計算が出来たのでしょうか。もう、私の小さな頭は破裂してしまいそうになります。
 日本の天文学の歴史は古く、文献によると、6世紀にまでさかのぼる。そして「日本書紀」にも天文学が登場する。
中国の天文学は支配者のための学問として発展した。「天」は自らの意思をもち、支配者にメッセージを下す存在だった。
6世紀から日本の朝廷内に天文や暦学をつかさどる「陰陽(おんよう)寮」という役所がつくられた。
17世紀の終わりに、800年ぶりに新しい暦が一人の日本人によってつくられた。渋川春海である。中国の暦法に独自の改良を加え、日本の天象にうまく合うように工夫した。
渋川春海のバックには、保科正之や水戸光圀といった幕府の有力者がいた。また、陰陽頭の土御門泰福の援助もあった。
そのころ、星座の名前もつけていたのですね。おどろきます。もちろん、オリオン座なんてものではありませんよ。大宰府という名前の星座までありました。
渋川春海は、望遠鏡にも接しています。望遠鏡は、1613年、徳川家康にイギリスから献上されたそうです。
日本で地動説を本格的に研究したのは、18世紀の後半。伊能忠敬が日本全国を実測してまわったころの江戸時代です。彗星の正体をさぐる研究も日本で始まった。
ところが、1828年に有名なシーボルト事件が起きてしまった。国家機密だった伊能忠敬による日本地図の写しをシーボルトに渡したことが発覚し、高橋景保は逮捕され、翌年には獄死してしまった。45歳だった。
江戸時代の人々の天文学の研究は、それなりに進んで、成果もあげていたのです。ところが、明治維新になって、一時は、まったく価値ないものとされてしまいました。それが明治の半ばになって、ようやく見直されたのでした。
江戸時代の人を今の私たちがバカにできるはずはありません。
(2016年7月刊。780円+税)

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