弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年10月 2日

日本で初めて労働組合をつくった男

日本史(明治)

(霧山昴)
著者  牧 民雄 、 出版  同時代社

 今の日本ではストライキという言葉は、まるで死語同然です。ところが、江戸時代が終わって10数年たったばかりの明治の日本で、ストライキが起こり始めました。これも、江戸時代の「オカミ」に盾つく百姓一揆の伝統を受け継いでいたからなのでしょうか・・・。
 日本人が、昔から皆、従順で、モノ言わぬヒツジだったというのは、真っ赤な嘘です。それは江戸時代の一揆の規模・回数をまったく知らない人の言う妄言にすぎません。
 明治19年10月に靴職工のストライキは、日本初だった。この靴職工たちは、士族上りが多く、他の職工とは品性を異にし、気質温和、恥を知る美風があった。
 城(じょう)常太郎は、明治21年9月、25歳のとき、アメリカへ向けて旅だった。常太郎はアメリカはサンフランシスコに定着し、ホテルの客引きをしていた高野房太郎と出会った。
 アメリカで日本人のできる仕事で最も有望なのは、靴工業だった。靴が生活必需品であるアメリカでは、手先の器用な日本人靴工による靴の修理は大好評だった。
 明治22年11月、日本人靴職人14人がアメリカに集団移民した。日本人靴職人は修理費が格安で、納期をきちんと守ったことから顧客が増えた。
 1886年1月、サンフランシスコ市内の靴工は7000人いた。その多くを中国人靴工が占め、白人靴工は2割、1000人ほどだった。しかし、白人靴工の日給手当は2ドル、中国人靴工は1ドルだった。
 明治19年以降、東京や関西の靴工場で、工員たちによる労働争議が頻繁に起こり始めていた。
 明治25年12月、300人もの靴工たちが日比谷公園に集まり、衆議院に向かって堂々のデモ行進を遂行した。日比谷公園は、日本におけるデモ行進の発祥の地なのである。
 弁護士会も安保法制法案の成立反対を叫んで、日比谷公園から国会に向けて何回となくデモ行進をしました。もっとも、今は、パレードと呼ぶことが多いのですが・・・。
 明治20年1月、カリフォルニア市内で、城常太郎の音頭のもと、「加州日本人靴工同盟会」が発足した。白人靴工に対抗するとき、非暴力で相手の怒りを鎮めようとする平和的な道を選んだ。このころサンフランシスコ市内の日本人靴店は20店、靴工は60名いた。
 明治42年になると、会員数327人にまで膨れあがった。日本人靴店も76店あった。当時、ゲルマン人の食料品、フランス人の洗濯屋、イタリア人の魚商、中国人の薬舗、日本人の靴工と言われていた。
 明治29年の末、城常太郎は、ストライキに反対する者たちから袋叩きにあい、重傷を負った。
 明治30年6月、東京・神田の青年会館において職工義友会の主催する演説会が開催された。1200名の聴衆を前に、学歴のない城常太郎が一番に演説した。
労働組合期成会は、明治30年にわずか71名でスタートしたが、翌31年7月には2500人の会員を擁するまでに発展していた。初期の労働運動のピークは明治32年夏だった。
 城常太郎は、その後、中国大陸に渡ったが、明治38年7月に、42歳で肺結核のために死亡した。
明治29年に高野房太郎よりも早く日本に帰国し、日本の労働運動を大きく盛り上げたのが城常太郎だったことを初めて知りました。
 それにしても明治20年代ころのカリフォルニアに日本人靴店がたくさんあったことを知り、目を開かされました。今では、町に靴を修理してくれる店なんて、とんと見かけませんね・・・。
 歴史の掘り起こしは大切だと痛感した本でもありました。
(2015年6月刊。3200円+税)

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