弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年7月15日

昭和史のかたち

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者  保阪 正康 、 出版  岩波新書

 昭和という時代は、62年と2週間のあいだ続いた。明治は45年までですからね。
 東條英機は陸軍士学校出身の高級軍人、吉田茂は東京帝大法学部出身の外交官、
田中角栄は自らの力でのし上がっていった庶民。この三人の総理大臣の共通点は何か...。三人とも獄につながれた経験があるということ。
 東條は巣鴨プリズンに収容され、絞首刑となった。吉田は敗戦の年(1945年)4月に陸軍憲兵隊から逮捕された。目黒区の小学校の教室が牢獄代わりになっていた。田中は、戦後まもなく逮捕されたのは、一審有罪、二審無罪になったが、ロッキード事件で逮捕され、その裁判の途中で亡くなった。
なぜ特攻を、海軍兵学校や、陸軍士官学校で軍事教育を受けた軍人たちが、行わなかったのか...。
1人の軍人を育てるために、国がどれだけのお金を使うか。一般の給料が40円とか50円の時代に、軍の学校では一人1,000円とか2,000円を使っていた。そうして育てた軍人を、なんで特攻なんかで死なせることができるものか...。軍事のためにどれだけ役に立つか、それこそが戦時下における「人間の価値」であり、「値段」なのだ。つまり、軍事的な価値のない者から先に死んでいけというのが日本軍国主義の考え方なのだ。学徒兵や少年兵には、国はお金を使っていない。
軍部は天皇に対して真実を伝えないようにしていた。「統師権の独立」というのは、天皇からも「独立」していた実態がある。
 陸軍当局は、エリート意識に凝り固まって、戦争とは自分たちの面子(メンツ)を賭けた国策であるとし、そのために「天皇の名において」国民の生命と財産を恣意的に用いて戦争を続けた。戦争とは高級軍人の存在を確かめるための愚劣な政治行為でしかなかった。
 太平洋戦争が進められていた3年8ヶ月のあいだに、大本営発表は、846回あった。1941年(昭和16年)12月には、88回の発表があった。しかし、戦況が不利になっていくにつれ、虚偽、誇大、日本の被害を逆にする捏造などに、変化していき、最終的には、まったく発表せず、沈黙に逃げ込んだ。
 戦争という国策を選択したのは、議会でも国民でもなく、軍官僚とその一派だった。
 憲法上に明記されていない大本営政府連絡会議が決定し、それを御前会議が追認するという形の決定だった。
 東亜新秩序をつくるという意味は、ヒットラーや、ムッソリーニと共に世界新秩序を作る戦いであり、「東亜解放」など、露ほども目的とされていなかった。
 特攻作戦を国家のシステムとして採用した国は第二次世界大戦では日本だけ。
 天皇に戦争責任はあるか...。責任はあると考えるのは、当たり前のこと。なにより昭和天皇自身がそう考えていた。責任があるということを否定すること自体、昭和天皇に非礼なのである。
よくよく考え抜かれた新書だと思いました。
(2015年10月刊。780円+税)

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