弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年6月27日

原節子の真実

日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 石井 妙子 、 出版 新潮社 

原節子主演の映画って、実はほとんど観たことがありません。テレビで『東京物語』をみたくらいではないでしょうか・・・。
団塊世代の私にとって、憧れの女優といえば、なんといっても吉永小百合ですね。今なおサユリストを自称しています。反戦・平和の声をあげているのを知るにつれ、ますます尊敬し、崇拝してしまいます。
原節子は、昭和10年(1935年)、わずか14歳で女優になった。そして、昭和37年(1962年)、42歳のときに銀幕を静かに去っていった。
28年間の女優人生で、出演した映画は112本。彼女の存在は他を圧している。画面に出るだけで、すべてを静かに制してしまう。
終戦を25歳で迎えた原節子は、もっとも美しかったころ、日本は戦争に明け暮れていた。戦意高揚映画にも原節子は出演している。
原節子が本当に女優として認められたのは戦後のこと。敗戦に打ちひしがれている日本人を慰撫し、鼓舞した。清く、正しく、美しい女優。それが原節子だった。
会田昌江として大正9年(1920年)に生まれ、平成27年(2015年)11月25日、その死亡が報道された。原節子は、50年以上も人前に姿をあらわさず、95歳で亡くなった。
小学生のころの原節子は、色が黒くて、やせていて、眼だけが大きくてギョロギョロしていた。美貌の姉の隠れて目立つ存在ではなかった。勉強は出来て、成績は常に一番だった。 
原節子が女優の道に入ったのは、実家が経済的に苦しくなり、家計を助けたり、親孝行をしたいという気持ちからだった。だから、女優を長くやる気持ちなどなかった。
原節子は、撮影が終わると、まっすぐ帰宅し、家事をやっていた。映画人との付き合いもほとんどしなかった。
16歳の原節子は、ドイツ人の映画監督に見出されて、ドイツ人向けの日本紹介のような映画に出演した。この映画は成功し、ドイツ国内2600の映画館で上映され、600万人のドイツ人がみた。
原節子は、監督にもスタッフにも媚びなかった。無駄口を叩かず、人と飲食をともにせず、まっすぐ家に帰るので、「愛想がない」と言われた。監督への「付け届け」もしなかった。
育ちの良さからくる気品、理性と知性、思慮深さがあり、おとなしい外見の下に隠された強固な自我があった。
「女学校をやめて14歳からこういう仕事をしてるでしょ。だから勉強しなくてはいけないの・・・」
トルストイ、ドストエフスキー、チェホフなど、原節子は手あたり次第に本を読みふけった。
戦後の食糧難の時代には、原節子も自ら買い出しに出かけた。
『青い山脈』によって、原節子は、まさに国民的女優となった。2週間に500万人が映画館に詰めかけた。
原節子は、代表作は何かと訊かれる、「まだありません」と答えた。それでは、「好きな作品は?」と問われると、『わが青春に悔なし』などをあげた。小津作品をあげることはなかった。
『東京物語』を撮ったとき、原節子は33歳だった。
昭和35年ころ、原節子は、時代が変わったことを知り、映画界への失望をはっきり口にするようになった。なるほど、そんなことから、映画界、そして人々の前から姿を消したのですね。それにしても、すごく意思強固な女性だったんだと改めて識り、驚嘆させられました。
(2016年5月刊。1600円+税)

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