弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2016年2月14日

日本陸軍とモンゴル

日本史(戦前)

(霧山昴)
著者  楊 海英 、 出版  中公新書

 ノモンハン戦争で日本軍が負けた原因の一つに、日本軍のモンゴル人部隊の処遇があることを初めて知りました。この戦場では敵味方の双方にモンゴル人兵士がいたのでした。
 日本軍は、モンゴル民族を自分のいいように利用したということがよく分かる本です。
 モンゴル人も日本を利用しようとしたようですが、結局、漢民族を主体とする中国の圧制下に取り込まれてしまったのでした。
 やはり、当事者からの鋭い告発ないしには知りえない歴史があるのだと痛感した次第です。内モンゴル、外モンゴルと日本人である私たちは気安く呼んでいます。しかし、これは清朝(中国)がモンゴルを政治的に分断するための概念であって、モンゴル人自身は、そういう名称を好まない。モンゴル人は、南モンゴルと北モンゴルという地理的な呼称を愛してきた。
モンゴルの民族主義者たちは、日本の力を借りて中国からの独立をねらってモンゴル聯合自治政府をつくった。内モンゴル人民革命党の若い軍人たちは、満州国とモンゴル自治邦に暮らし、日本と協力しながら、民族自決の時を待った。
 他民族の支配下にあったモンゴル人は、近代化を先駆けていた日本から騎兵の術を学ぶために大挙して日本にきて、陸軍士官学校で日本人と机を並べて学びあった。
モンゴル人は、日本の力を借りて中国からの独立を果たそうとしただけで、日本の下僕になる気はなかった。
中国人は、日本式の訓練で育ったモンゴルの軍人を「日本刀を吊るした奴ら」と呼んで侮辱した。
モンゴル人の同盟者だった満州人は、それまで中国人の草原への入植を禁止していた。日本が内モンゴルで設置した興安軍官学校は、モンゴル民族にとってもっとも人気のある学校となった。
興安軍官学校は、モンゴル民族の復興とチンギス・ハーン時代の栄光を復活させる目的で創設された、モンゴル人からなる学校だった。
満州の「馬賊」と言えばロマンを誘うが、実態は中国人の侵略と入植に抵抗していたモンゴル人の自衛団である。
日本は常にロシア(ソ連)を意識していた。ロシアもまた日本の出方を注目していた。犠牲にされたのはモンゴル民族で、漁夫の利を得たのは中国だった。
モンゴルは中華ではないし、モンゴル人も、中国人ではない。
『夕陽と拳銃』(檀一雄)のモデルとなった伊達順之助(仙台藩主の本裔)はモンゴル独立に共鳴した日本人馬賊として知られ、戦後、戦犯として処刑された。
中国からの独立を獲得するのに日本は利用できる勢力だとモンゴル人はみていた。そこで、モンゴル人は積極的に日本に「協力する」よう変わった。
3000人のモンゴル独立軍に関東軍は3000丁の銃と20万発の弾薬を提供して支援した。関東軍でモンゴル人と接触していたのは甘粕正彦だった。甘粕はアナーキストの大杉栄らを虐殺した張本人だ。
日本が思い描く楽天地は日本人主導のものだった。モンゴル人は民族の独立を目指していた。両者の思惑は最初から異なっていた。
関東軍首脳部がモンゴル独立軍を自治軍に変えたのはモンゴル民族には独立の権利はなく、あくまでも自治権しか付与しないと宣言したようなものだった。
新生の満州国によって、モンゴル軍は治安維持だけでなく、ソ連の南進と中国の侵略を食い止めるに欠かせない戦力だった事実に日本側は気がついていた。
戦後の日本は、満州と内モンゴルを占領した中国政府と中国人に対しては過去の侵略行為を反省したが、モンゴル人と満州人に対しては何ら意思表示をしてこなかった。
今日、中国政府は、モンゴルもチベットも、そしてウイグルも民族ではなく、単なる「族群」(エスニック・グループ)だと定義している。
モンゴル人は、とにかく草原が開墾されるのに心底から嫌悪感を抱く。
モンゴル人と日本が戦前に深い交流があったことを初めて知りました。歴史の奥深さを見た思いです。
                           (2015年11月刊。840円+税)

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