弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年11月17日

日本史(戦後)

日本占領史 1945-1952
(霧山昴)
著者  福永文夫 、 出版  中公新書

  本書は、戦後体制がつくられた7年間を濃密な7年間と呼んでいます。本当に、そうなのでしょうか・・・。
  1945年7月26日、アメリカ、イギリス、中国の3ヶ国はポツダム宣言を発した。このとき、トルーマンは、ソ連をはずした。
  ポツダム宣言の内容は、軍事主義の排除。日本の領土を本州・北海道・九州・四国そして周辺小島に限定する。日本軍の武装解除の民主主義的傾向を復活強化する。言論・宗教・思想の自由と基本的人権を尊重する。
7月27日、最高戦争指導会議は、黙殺することにした。連合国は、黙殺を拒否と受けとった。8月6日の広島そして9日の長崎への原爆投下につながった。
  マッカーサーは、1951年4月に解任されるまで、東京を離れることはほとんどなかった。そして、日本人の目の前に姿を現すことも、直接語りかけることもなかった。
  マッカーサーは自分の部下たちに絶対的な忠誠を要求した。
  そして、日本人自身の問題に介入することを嫌い、日本人自身によって処理させる方針を貫いた。
  日本の占領は、マッカーサーの占領となった。アメリカ政府は、もともと交戦中の直接軍政を前提に、日本進駐を考えていた。しかし、ポツダム宣言では、日本政府を通じての間接統治をうたっていた。日本の降伏が予想よりかなり早かったため、ポツダム宣言を受けて日本本土の間接統治以外に方針がないまま、連合国の占領は始まった。
  ホイットニー民政局長は、GHQでもただ一人、マッカーサーと約束なしに面会でき、2人は、毎夕5時から1時間ほど話すのを常とした。ホイットニーは、マッカーサーの非常に複雑多様な思考を正確に読みとることのできる才能をもち、いかなる問題についても、マッカーサーの考えを正確に表現でき、筆跡までも似ていた。
  GHQは、決して一枚岩ではなかった。
  日本の敗戦により、沖縄の占領目的があいまいになり、ワシントンでも、沖縄の処理が定まっていなかった。沖縄の現地アメリカ軍は、本国政府から明確な統治方針や予算を得られないまま、統治にのぞむことになった。そこで、その政策は、計画性を欠き、場当たり的なものとなった。
  憲法制定前に、主権在民を唱えたのは共産党のみだった。政府と進歩党は天皇に、自由・社会の両党は主権は国家にあるとしていた。
  マッカーサーは、天皇の存在が占領を円滑に進めるために必要と考え、明確に天皇擁護へと動き出した。
  民生局は、GHQの他のセクションを排して憲法草案をつくることで、マッカーサーの「政治的参謀」としての位置を確立した。以後、日本の「民主化のエンジン」として機能し、改革の旗手にふさわしい維識再編を行っていった。
3月6日の憲法草案の公表は、アメリカ国務省にとって、寝耳に水だった。草案の実物は国務省になかった。しかし、内容自体は、ワシントンをあわてさせるものではなかった。
  公職追放をめぐって、軍諜報部の代表(ウィロビー)を先鋒に、軍関係の4局はかたく結託して追放に反対した。しかし、追放を民生局が指示した。ホイットニーは、他局を排して、公務追放、選挙法改正問題を解決したことでGHQ内部での民政局の立場を強化した。
  1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、6年8ヶ月に及ぶ占領が終結した。
  日本の戦後の実際がコンパクトによくまとめられた新書です。
(2014年12月刊。900円+税)

日曜日、早起きして仏検(準一級)を受けてきました。年に2回の苦行です。これまでは単語中心にしていましたが、今年は文章を書いて覚えることに重点を置きました。動詞を名詞に、名詞を動詞に置き換えるというときに、単語だけでなく、文章として覚えようというのです。やはりコトバは単語ではなくて文章なのです。基本文型を覚えるときに、覚えた単語を増やしていきます。
昨年は安保法の講師を引き受けたために受験できませんでした。実は、1997年度から欠かさず(昨年の1回だけ抜けていますが)、受験してきたのです。ですから、過去問を復習するといっても一週間はかかってしまいます。
土曜日と日曜日に早朝からフランス語文章を書いた成果でしょうか。自己採点で87点でした。120点満点ですから、7割とったことになります。書きとりなんて、もうバッチリです。なにしろ、NHKラジオ講座(CD)で毎朝かきとりしているのですから、準一級の書きとりなんて、やさしいものです。

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