弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年10月23日

生きる。劉 連仁の物語

社会

(霧山昴)
著者 森越 智子   出版 童心社
 
日本人って本当に悪知恵に長けているのですね、、、。アベ内閣のごまかし工作に憤慨した夏でしたが、戦前の日本政府もひどいごまかしで中国人を日本へ無理矢理に連行して、日本各地の炭鉱で働かせていたのです。九州にも、そして北海道にも。
日本へ「移入」する中国人労働者は、実際には強制的な労働力の「移動」であるにもかかわらず、表向きは「募集または斡旋」により自分の意思で労働契約を結んだ労働者、または訓練した捕虜や帰順兵としていた。実際には農民として働いていたのに、ただの「遊民」と扱われた。
軍服に着換えさせられ、一人ずつ写真を撮られ、顔写真の貼られた手帳に指紋を押させられた。この軍服も写真も指紋も、「人狩り」によって無差別に拉致されたのではなく、あくまで日本軍が捕えた中国の捕虜兵であり、かつ雇われた労工であることを証明するための偽装工作だった。
日本人って、こんなに細かな偽装工作までして強行連行を「合理化」したのです。恐れいりますね。そして、これが、戦後の日本で、政府答弁に「生きて」くるのです。強制連行でなかった証拠として、、、。ひどいものです。
194年から45年までの3年間に、4万人もの中国人が日本へ連行された。日本政府の政策であり、国内の労働力不足を補うためのものだった。「労工狩り作戦」「うさぎ狩り作戦」とも呼ばれた。
日本行きの貨物船に乗せられた中国人4万人のうち、最年少は11歳、最高齢は78歳。日本全国135ヶ所の事業所に到着する前に812人が亡くなった(船中の死亡564人)。疲労と飢えと寒さ、そして暴力によって命を落とした。
劉連仁は、北海道の炭鉱で働かされるようになったのです。苛酷な労働環境から逃れるため、ついに収容所を脱走します。便所の便槽にもぐり込んでの脱走でした。同じように脱走した仲間と5人で山中での生活に入ります。
北海道の雪深い冬をどうやって過ごしたのでしょうか、、、。よくぞ生きのびたものです。
仲間は次々に発見され、劉連仁は一人になって、北海道の山中を転々とします。31歳から45歳になるまでの14年間を、北海道の山中で一人で生きのびたのです。
雪山で発見されたときの劉連仁の顔は、絶望の表情しかなかった。それほど日本人は恐ろしい存在だった。
旭川市の近くの炭鉱を終戦直後の1945年7月に脱走し、稚内の方へ行き、網走へ、釧路へ行き、帯広から再び旭川の方へ戻り、札幌、小樽を通って当別町付近の山で発見された。この脱走経路は1400キロもの道のりになる。
ところが、日本政府は、劉連仁について、不法入国者、不法残留の疑いがあるとした。
そして、日本政府に対して損害賠償を求めた裁判で、東京地裁こそ劉連仁の請求を認めたものの、結局、東京高裁も最高裁も国の責任は問えない、なんていう訳の分からない理屈で請求を認めませんでした。ひどいものです。日本の司法も本当に間違っています。
劉連仁は、2000年9月、87歳で亡くなった。
日本政府が国策で中国人を強制連行してきて、日本全国で無理に働かせていたことは歴史的な事実です。その責任を認め、日本が国として正当な賠償をするのは当然のことだと思いませんか、、、。

(2015年7月刊。1600円+税)
 

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー