弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年9月10日

幕末史

日本史(江戸)


(霧山昴)
著者  佐々木 克、 出版  ちくま新書
 ペリーの来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、アメリカ大統領フィルモアの日本に開国を勧める親書をたずさえて、四隻の軍艦とともに浦賀に来航した。1853年6月のこと。ミシシッピ号は全長69メートル、1692トン、大砲12門、乗員268人の外輪式フリゲート艦。
当時の日本には、軍艦というものがない。最大の千石船は150トン、乗員20人、もちろん大砲は積んでいない。
そうだったんですね。1桁ちがう大きさの船に、大砲が12門も積んであれば脅威そのものです。しかも、その大砲の威力がすごいのです。
新型の大砲パクサンズ砲は、6000メートルの有効射程距離にあるから、江戸城はやすやすと攻撃可能だった。
私が驚いたのは、浦賀奉行の与力・中島三郎助が大砲を見てパクサンズ砲ではないかとたずねたという事実です。江戸幕府も、外国の新鋭兵器について相当の知識をもっていたのです。
1867年、長崎でイギリス人水兵が何者かに殺害された。イギリス公使パークスが土佐の高知に乗り込んで、土佐藩政・後藤象二郎と談判した。パークスは、テ-ブルを叩き、床を踏み鳴らすなどして傲慢な態度で後藤を威嚇した。ところが、これに対して後藤はひるまない。
「大英帝国の外交官・紳士がそのような節度のない、粗野な態度では、いかがなものか」と、逆にたしなめた。
卑屈にならず、ぶれず、礼節をわきまえ、高い志をもつ。この幕末日本の外交姿勢は、中国とは違っていた。日本を侮っていた欧米列強をたじろがせた。
これはすごいことです。今のアメリカの言いなりになる屈辱的外交とは、まるで違いますよね。首都圏に外国軍の基地がある国なんて、日本だけだと思います。しかも、その基地に入管もパスポートも無用のままアメリカの将兵が自由に入出国しているというのです。信じられません、、、。
1862年(文久2年)、薩摩藩の島津久光(44歳)は、藩兵1000の大軍を率いて京都に着いた。幕府の許可なく、届出もしていない。ただし、天皇の内命(上京するように)は得ていた。そして、浪士を取り締まる役目を、天皇が京都所司代をさしおいて、幕府に断りもなく直接、特定の諸候(大名格の久光)に命じた。近世社会の常識ではありえないことがおこなわれた。幕府の権威の失墜であるが、幕府は異議を申立することもなく、これを黙認してしまった。
民衆が尊王攘夷運動を支持したのには明白な理由があった。このころの日本は、かつて経験したことのない急激なインフレーションが進行していた。開港このかた、よいことが一つもなく、生活が苦しくなるばかりだと幕府をうらんでいた民衆が、尊攘運動に期待したのは、自然のなりゆきだった。
1864年(元治 元年)、徳川慶喜25歳、松平春嶽34歳、島津久光45歳。山内容堂35歳。みな若かったのですね、、、。
1863年(文久3年)、孝明天皇が賀茂神社に行幸した。天皇が禁裏御所を出るのは237年ぶり。このとき、天皇は徳川将軍と大名を従えて行列した。天皇が日本国家の最上位に位置する存在であることを誇示したのである。
1863年の秋、天皇は島津久光に心境を打ち明けて相談した。久光は、無位無官であって、朝廷では庶民の扱いであるから、御所の座敷に上がることは許されず、廊下に座ることを命じられる。そのような人物に天皇は相談をもちかけた。これは、近現代の天皇と国民のあいだでは想像もつかないことだった。ただし、あとで、久光は従四位下左近衛少将に叙任している。
1865年4月、薩摩の汽船が大坂を出港した。この船には、家老・小松帯刀(29歳)、側役(そばやく)・西郷隆盛(36歳)、そして坂本龍馬(29歳)が乗っていた。本当に若いですね、、、。
1866年(慶応2年)1月の薩長誓約は、西郷が口頭で述べた運動方針を木戸が6ヶ条に整理して書きとめたもので、朝廷は再起不能の状態にあって期待できないので、誓約しますという趣旨である。
 幕長戦争では、統制のとれていない幕府連合軍に対して、長州藩では、武士・農民・町民が一体となった日夜、厳しい訓練に耐えてきた。そして、日本再建の一翼を担うため負けてはならない戦争だと位置づけていた。戦場における幕府軍劣勢の報が相次ぐなか、将軍家茂は20歳で大坂城中において病死した。死因は脚気による心不全。
幕末の状況を生き生きと再現していて、とても考えさせられる面白い本でした。
(2014年12月刊。1000円+税)

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