弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2015年9月 1日
海軍の日中戦争
日本史
(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版 平凡社
目からウロコが落ちる、とはよく言われますが、まさしくこの本のことです。私も、すっかり騙されていたのですね。しかも、大山事件という謀略事件のあったことを初めて知りました。満州某重大事件というのは、張作霖爆殺事件でしたが、こちらは、帝国海軍が大山中尉にオトリになって死んで来いと命令していたというのです。
そして、戦後、帝国海軍は、陸軍が悪かったのだ、海軍は戦争に反対していた、善玉だという事実に反するキャンペーンを展開して、それに成功したのでした。私も、それに騙されていたというわけです。安倍政権と防衛省幹部の危険性がますます明らかになりつつありますが、軍部独走を許したら、とんでもないことになることが、よく分かる本です。400頁、2500円という大作ではありますが、私はぜひ一人でも多くの人に読んでほしいと思いました。
陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。
戦後、海軍は陸軍の東條英機に次いで開戦責任のあった海軍の嶋田繁太郎の死刑判決を免れるために口裏あわせの工作をした。
東京裁判にあわせて、海軍は陸軍に引きずられて太平洋戦争に突入したのであり、海軍は本来、「平和的、開明的、国際的」であったという「海軍、善玉論イメージ」を意図的に流布した。そして、マッカーサーと会い、天皇の免責とあわせて海軍の免責をも勝ちとった。
マッカーサーも、古領政策を容易にするため、陸軍の東條らに全責任を負わせることにし、ここに「談合」が成立した。
うむむっ、なに、なに、そういうことだったのか・・・。まったく欺されていました。恐るべき海軍の知能犯。
帝国海軍は、国の命運や国家利益、さらには国防よりも海軍という組織の利益を優先させる、強いセクショナリズム集団だった。
国防という本来の任務から乖離し、組織を肥大化させることを自己目的にした。海軍あって国家なしだった。
海軍の首脳部は、陸軍に対抗して、いかに多くの海軍の軍事費を獲得し、軍備を拡張するか、海軍組織のことばかりを考えていて、国家の存亡や国民の命は二の次に考える組織だった。戦争は軍がやるものだ。軍にまかせておけ。軍のことには干渉するな。
開戦前の昭和16年11月5日、海軍は、次のような命令を発した。
「帝国は自存自衛のため、12月上旬、米・英・蘭に対し開戦を予期し、諸般の作戦準備を完整するに決す」
客観的には明らかな侵略戦争を始めるときでも、このように「自存自衛」だというのですよね。安倍政権による集団的「自衛」権の行使のための戦争立法案と同じ論理です。
ところで、開戦前の和平工作にあたっていたはずの広田弘毅外務大臣について、部下である外務省の局長が次のように評しているのを知りました。広田弘毅は戦犯として処刑されましたが、福岡県弁護士会の3階にその書が掲げてあったため、故諌山博弁護士が問題にしました。
「広田外務大臣が、これほど都合主義な、無定見な人物であるとは思わなかった。非常時日本に、彼のごとき外務大臣をいただいたのは日本の不幸であるとつくづく思う」(7月17日)
「広田外相は時局に対する定見も政策もなく、まったくその日暮らし、いくら策を説いても、それが自分の責任になりそうだと逃げをはる。頭がよくて、ずるく立ちまわること以外にメリットを見いだしえない。それが国土型に見られているのは不思議だ」(8月18日)
「ご都合主義、無定見」というのは、いまの安倍首相そのものですね。このような首相をいただいたのは、日本の不幸だとつくづく思います。
大山事件というのは、1937年7月7日の廬溝橋事件の直後におきた大山勇夫中尉が8月9日夜に中国軍の飛行場付近で射殺された事件のことです。これによって海軍は和平工作を破綻させて第二次上海事変に突入し、日中戦争が全面化していったのでした。
大山中尉は、大川内伝七・上海海軍特別陸戦隊司令官から、口頭で「お国のために死んでくれ」と命令され、現地に赴いたことが証明されています。
「名誉の殉職を遂げ」た大山中尉は、すぐに大尉となり、正七位に叙せられ、遺族にはそれなりの補償金が支給されています。
それにしても、軍隊とは、むごいことをするものですね。26歳の独身男性に対して、侵略戦争の口実をつくるために死んでこいと命令するのです。これが軍隊なんですね。
本当に恐ろしいところです。
軍隊では、威勢のいいのが幅を利かす。国家の前途を憂えるとか、軍縮とか、そういうことを考え、口に出すような軍人は軍中枢から次々にはじき出されていった。
開戦前、海軍が「アメリカとは戦えない」と言ったらどうなったか。海軍は今まで、軍備拡張のためにずい分な予算をつかってきたじゃないか。それでいながらアメリカと戦えないと言うんだったら、海軍の予算を削って、陸軍によこせと言われてしまう。だから、陸軍からそんなことを言われないように、負けるとか、戦えないとか、一切言わないようにした。
海軍は「対米航空決戦」に備えることを口実として膨大な予算を獲得し、航空部隊の軍備を拡充し、兵員の大増員をはかり、日中戦争を利用して、十分な戦闘訓練を重ねてきた。それでいながら、「今さらアメリカと戦争できないとは何事だ」という陸軍の批判・攻撃をかわすために戦争をはじめた。陸軍に非難され、けなされた海軍の面子を保つために日米戦争を始めたわけである。「身内の論理」そのものと言ってよい。
そこでは日本という国の運命よりも、陸軍と海軍というセクショナリズムの対立と張りあいの果ての対米戦争突入なのである。
悲惨な結果をもたらす戦争というものが、このような馬鹿馬鹿しい「論法」の下で始まることに呆れ、かつ怒りを覚えます。自民・公明の安倍政権の戦争立法の成立を許してはなりません。
まさしくタイムリーな出版です。ぜひ、あなたも早めにお読みください。
(2015年6月刊。2500円+税)
ことしの夏はどこにも行かず、安保法案の廃案を目ざす取り組みに汗を流しました。日本の行く末を誤らせないため、引き続きがんばります。
この夏の楽しみは孫に遊んでもらったことでした。来たときには生後4ヵ月で、寝返りもちゃんとできなかったのに、1ヵ月ではいずりまわるまでになりました。
赤ちゃんの顔の百面相は見飽きることがありません。目線があってニッコリしてくれるのも可愛いいし、甘え顔もすぐ分かります。そして、激しく泣いて自己主張するときは強烈です。まさに全存在をかけて叫びます。
赤ちゃんは早寝早起きですから、私も朝6時には起きて、一緒に遊んでいました。
1ヵ月間、わが家にいて赤ちゃん中心の生活でしたが、その顔を思い出すだけでも、自然に笑みがこぼれ出します。小さな赤ちゃんの威力は絶大なものがありますね、、、。
2015年9月 2日
朝鮮と日本に生きる
朝鮮(韓国)
(霧山昴)
著者 金 時鐘 、 出版 岩波新書
著者は、少年時代を済州島で過ごしました。
若者の父は、謎めいた人物だった。築港工事の現場で働いていたにしては、相当の物知りだった。朝日や毎日という日本語の日刊新聞も読んでいたし、日本語の本が家にたくさんあった。トルストイ全集まであった。
しかし、父親は著者に対して家のなかで日本語を話すことはなかったというのです。
著者は、このトルストイ全集を小学(国民学校)6年生のころから読みはじめました。トルストイの『復活』を読んだというのです。すごいですよね・・・。
日本軍が敗れ、済州島が解放されると、徴兵徴用で徴発されていた3万人の若者をふくめて6万人もの済州島出身者が島に帰還してきた。島の人口は29万人にふくれあがった。
日本の敗戦直前の大阪市には、32万人もの在日朝鮮人がいた。そのうちの6割強が済州島出身者だった。
四・三事件の前後、済州人は「済州の輩」という悪し様に呼び捨てされるほど、嫌われた。
「謀利輩」(もりべ)と済州島民は本土の人たちから、さげすんで呼ばれた。もうけのためには、なりふりかまわない輩(やから)たちという意味のコトバ。
これは、日本から帰国してきた済州島民の一部が思いあまって始めた密貿易に由来する。済州島の人民委員会は本土の組織が滅亡したあとも健在だった。それだけに、本土からみると、済州島は「赤(パルゲンイ)の島」に見えていた。
1945年、解放された韓国では、筋金入りの右翼反共主義者・趙炳玉がアメリカ軍政によって重用された。国防警備隊は趙炳玉の配下にあり、趙は6.25事案のときに内務部長官をつとめた。趙炳玉は、アメリカの「マッカーシズム」が青ざめるほどの共産主義撲滅推進者だった。趙炳玉にとって、アメリカ軍政に同調しない者は、すべて「アカ」であり、撲滅しなければならない赤色分子だった。
著者は、1946年暮れ、18歳のとき、南労党に入党した。朴憲永指導部は南労党に改編してまもなく、指導部の拠点を北朝鮮に移した。南労党に入った著者は予備党員として、レポ(連絡員)の仕事についた。レポ要員に決まると、党事務所への出入りが禁止された。非合法活動に入ったのです。
南労党は済州島内に3000人からの党員をかかえた。そして、その指導する青年組織である「民愛青」は、四・三武装蜂起時の核心勢力となった。
四・三事件のあと、民愛青の同盟員は、それだけで討伐隊に惨殺された。しかし、四・三事件の前には、同知事が祝辞を述べ、警察署の主任が結成時に臨席して祝うという関係にあった。
1948年に起きた四・三事件の直前の3.1島民大会には島民の1割をこえる3万人もの大群衆が大会に結集した。3.1島民大会のとき警察が発砲して死傷者が出た。これに対する抗議行動は、ゼネストに広がり、官吏の75%がストライキに参加した。
4月から5月10日ころまでは、「山部隊」(蜂起側)が抗争の主導権を握っていた。しかし、その後、アメリカ軍に支援された韓国政府は焦土作戦をとり、山部隊を根こそぎ殺戮していった。
そのさなかに著者は済州島を脱出して、日本へ渡るのでした。まさしく間一髪の危機の下の脱出です。四・三事件当事者の一人としての貴重な体験記です。
(2015年2月刊。860円+税)
8月26日、東京の日弁連会館で法曹と学者の合同記者会見があり、その他大勢の一人として参加しました。前列に最高裁元判事、内閣法制局の元長官、学術会議の前会長、長谷川、石川といった名だたる憲法学者などが座り、一人ひとり自分の言葉で安保法案は憲法違反だと明確に断言します。いわば政府側にいた人たちが、口をそろえて安保法案は違法だと言っていることの意味はとても重いと思います。私は、歴史的な一瞬を目撃している気分でした。
この共同会見を取材している報道陣は50人ほどもいたと思います。言論、表現の自由も危ないのだから、マスコミ陣も「中立」とかではなく、廃案めざしてともにがんばりましょうという力強い呼びかけが学者からなされたのが強く印象に残りました。
2015年9月 3日
クリミア戦争(下)
ロシア
(霧山昴)
著者 オーランドー・ファイジズ 、 出版 白水社
戦場に冬が到来したとき、イギリス軍とフランス軍に差があらわれた。軍隊の経営能力が証明された。フランス軍は辛くも合格したが、イギリス軍は惨めな不合格点をとった。
両軍ともクリミア半島の冬の気温がどこまで下がるかの認識すらなかった。フランス軍は、兵士に好きなだけ重ね着することを許した。イギリス軍は兵士に常に「紳士らしい」外装を要求した。そして、兵士が風雨をしのぐための居住環境について何ら配慮しなかった。
フランス軍は、士官と兵士の生活条件にはほとんど差がなかった。これに対して、イギリス軍は高級な将校は快適な生活を送っていたが、兵士たちは悲惨な生活を強いられていた。泥の中で眠っていた。
フランス軍とちがって、イギリス軍には、組織的にタキギを集めるというシステムがなかった。
フランス軍には糧食の供給と調理、負傷者の手当てなど、兵士の基本的な需要にこたえる専門家がすべての連隊に随行していた。すべての連隊に一人のパン焼き職人と数人の料理人がいた。酒保と軍隊食堂の経営は女将に任されることが多かった。
フランス軍の食事は、共同調理と集団給食が普通だった。フランス軍の食事の眼目はスープ。そしてコーヒー豆も十分な量が供給された。フランス人はコーヒーなしでは生きられない。
フランス軍の兵士に供給される肉はイギリス兵の3分の1でしかなかったが、健康を維持しえた。フランス兵は農村出身者が多く、食べられるものなら、どんなものでもカエルやカメでも捕まえて料理して食べた。
イギリス兵は、その大半が土地をもたない都市貧困層の出身者だったので、自分の手で食料を調達し、自力で窮状を切りぬけるという習慣がなかった。イギリス軍に随行する女性がフランス軍に比べて多かったのは、この理由による。イギリス兵には肉とラム酒が十分に供給されていた。しかし、イギリス兵の食事は、フランス軍に比べて貧弱だった。
フランス軍の病院は、清潔さ、快適さ、看護の手厚さで、イギリス軍よりはるかに優れていた。フランス軍の病院には陽気な生命力が感じられた。
戦場の外科医療システムを世界に先駆けて確立したのはロシア軍だった。手術の緊急性に応じて患者を区分するシステムであるトリアージを始めたのは、ニコライ・ピロゴーフ。
ピロゴーフは麻酔術を導入し、1日7時間に100件以上の切断手術をこなした。そして、腕の切断手術を受けたロシア兵の生存率は65%にまで向上した。
クリミア派遣軍には、看護婦が随行していなかった。ナイチンゲールはロンドンの女性のための病院で無給の院長をつとめていた。ナイチンゲールは、優れた管理能力の持ち主だった。ナイチンゲールは、下層階級出身の年若い女性を採用したが、中産階級の善意の女性は採用しなかった。感受性の敏感な中流夫人の「扱いの難しさ」を恐れていたからである。そして、看護の経験をもつカトリックの修道女たちを採用した。
蒸気船と電信の出現によって、戦争特派員は記事を書いて新聞記事になるまで5日かかっていたのが、ついには、数時間にまで短縮された。人々が最大の関心を寄せたのは、写真と挿絵だった。
インケルマンで敗北してから、ロシア軍の最高指導部は、権威と自信の両方を失くしていた。皇帝ニコライ一世は司令官たちへの信頼を失い、前にもまして意気消沈して陰うつな顔つきになり、戦争に勝利する希望を失ったばかりか、そもそも戦争を始めたこと自体を後悔しはじめていた。
休戦状態になったとき、イギリス軍とロシア軍の将兵はタバコを分け合い、ラム酒を飲み交わした。気晴らしに射撃ゲームを始める者もあった。
パリ和平条約によってロシアは領土の一部を失った。しかし、それよりもむしろ重大だったのは国家の威信が失われたことである。クリミア戦争の敗北は、ロシア国内に深刻な影響を残した。軍隊への信頼が揺らぎ、国防を近代化する必要性が痛感された。鉄道の開発、工業化の促進、財政の健全化を求める世論が高まった。
トルストイも改革を求める人々のひとりだった。そんな人生観と文学観は、クリミア戦争の経験を通じて形成されたトルストイは将校の無能ぶりと腐敗墜落を目撃した。そして、将校は兵士を残忍に虐待していた。一般兵士の勇敢さと粘り強さに心を動かされたトルストイは、農奴出身の兵士たちに親近感をかんじはじめた。
ロシア農民兵士は、ほぼ全員が読み書き能力をもたず、近代的な戦争に適さないことが明らかになった。
クリミア戦争には、31万人のフランス人が兵士として動員され、そのうち3人に1人が帰らぬ人となった。クリミア戦争に出征したイギリス兵は10万人近く。生きて帰れなかった2万人の80%は傷病死だった。
クリミア戦争は、兵士に対するイギリス国民の見方に大きな変化をもたらした。兵士は国の名誉と権利と自由を守る存在であるという近代的な国民意識の基礎が築かれた。将軍たちの愚かな失態にもかかわらず、一般兵士が英雄として扱われる時代がはじまった。勇敢に戦ってイギリスに勝利をもたらしたのは平凡な兵士であるという伝説はクリミア戦争から始まった。
貴族階級出身の戦争指導部が犯した過誤は、中流階級が自信を強める契機にもなった。中流階級が新たに獲得した自信をもっともよく体現していたのはナイチンゲールだった。クリミア戦争は、イギリスの国民性に大きな影響を与えた。クリミア戦争についての上下2冊の大部な本ですが、無謀にも戦争を始めてしまった皇帝と将軍たちの戦争遂行上の愚かな過ちの下で悲惨な目にあう兵士たちの苦難がよく紹介されています。教訓としてひき出すべきものも大きいと思いました。ご一読をおすすめしたい本です。
(2015年6月刊。3600円+税)
2015年9月 4日
メモリアル病院の5日間
アメリカ
(霧山昴)
著者 シェリ・フィンク 出版 カドカワ
今から10年前の2005年8月、アメリカは、ルイジアナ州のニューオーリンズを襲った強大なハリケーン「カトリーナ」によって、メモリアル病院が孤立したとき、入院患者がどうなったのか。患者の死亡を早めたとして逮捕・起訴された事件の顚末を追った本です。
ハリケーンが上陸して以来、ニューオーリンズは理性をなくした野蛮な環境に変わっていた。
ニューオーリンズ市が避難命令を出しても、貧しい黒人の多くは車をもっていなかった。もっていたとしても、早々に交通渋滞にはまってしまった。郡刑務所の職員も、囚人を避難させる予定はないので、例外に指定された。囚人も職員も避難が許されなかったということですね、、、。
ついにハリケーンが襲来し、メモリアル病院の周囲は水に浸ってしまいます。
沿岸警備隊のヘリコプターで患者を搬送するのですが、メモリアル病院の患者は187人から130人に減っただけ。スタッフ460人、家族447人、ライフケアの患者とスタッフ52人が残されている。
病院のトイレは不快な場所と化していた。電気が止まり、非常用発電もうまく作動しない。うだるような暑さのなかにおかれた。
デマが横行した。近隣の強盗団が病院を制圧し、薬局から薬を強奪しているという連絡を受けて警察官がやってきた。来たのは警察のSWATチーム。もちろん、真っ赤な嘘。早々に退散していった。
患者はやせ細り、裸に近い姿で横になっている。病院の温度は38度をこえていた。服を着ていないのは少しは身体を涼しく保てるのと、排泄物を手早く処理できるから。
医師と看護師が、9人の生きている蘇生禁止患者に静脈注射しているのを見た。
電源が喪失し、吸引装置が動かなくなると、医療スタッフは、気道から効果的に分泌物を吸引することができない。患者を楽にするため、鎮静剤のアチバンとモルヒネが投与された。
2階にいる患者が死んでいき、何が起きているのか噂が広まるにつれ、安楽死は間違っていると考える看護師が増えてきた。
結局、ニューオーリンズでは、カトリーナ襲来後、すぐに入院患者、貧困層、高齢者を中心に1000人以上が死に、その後も、ストレスや医療手当を受けられずに死んだ人は少なくなかった。
しかし、公立チャリティ病院では、わずか3人しか死者は出なかった。スタッフが逃げ出さず、患者のケアを続けたから。チャリティー病院は、病気の悪い患者から優先して助けた。チャリティー病院は、低所得層の多い地域にあり、スタッフは混乱や危険に慣れていて、たくましかった。スタッフは、非常時でもルーティンを守り、シフトを維持し、ケアを忘れず、パニックを抑えた。あらぬ噂の拡散も防いだ。なーるほど、やはり、日頃が大切なのですね、、、。
結局、メモリアル病院で安楽死をもたらしたとした医師は、大陪審で不起訴とすることになった。
アメリカの医療制度の欠陥(問題点)が、事態を深刻にしたのではないかと私は疑いました。アメリカは日本のような国民皆保険制度ではありません。お金さえもっていれば、十分な医療を受けられる国ですが、お金がないと、アメリカでは悲惨です。そこにも「自己責任」という間違った原理が働くのです。
日本をアメリカのような、金持ちのみ栄える、軍事大国にしてはいけません。
(2015年5月刊。2500円+税)
2015年9月 5日
フランスの美しい村
世界(フランス)
(霧山昴)
著者 粟野 真理子 、 出版 集英社
このところフランスに行っていません。残念です。この夏は、アベ世間の戦争法案をつぶすために汗を流そうと決意しましたから仕方がありませんが、来年は久しぶりに行きたいなと考えています。フランス語も、毎朝、聞きとり、書きとりは欠かしていません。仏検だって6月に受けましたし、11月にも受けるつもりです。語学ほどボケ防止になるものはありません。
フランスには「もっとも美しい村」に認定された村が156もあるということです。私も、そのうちいくつかは行ったことがあります。この本には、私の行った村も紹介されています。
アメリカには、もう久しく行っていませんが、まったく行く気がしません。戦争する国・アメリカというイメージというより、「食(しょく)を大切にしない国」というイメージが嫌やなのです。どでか過ぎるステーキ、そして甘ったるくてボリューム満点すぎるアイスクリーム。いずれも私の好みではありません。
その点、フランスはどんな辺ぴな村に行っても、美味しい郷土料理があり、口当たりのいいワインを堪能できるという楽しみがあります。しかも、安いのですよ・・・。
ディジョンのマルシェ脇のレストランには、2晩かよいましたが、エスカルゴもフォアグラも天下一品でした。また、ぜひ行きたいものです。
映画「ショコラ」の舞台になったのはフラヴィニー・シュル・オズランです。私はディジョンからタクシーで行きました。小さな村の真ん中に、いかにも古ぼけた教会があります。映画にも出てきます。8世紀の建立というのですから、古ぼけているのも当然です。ここには昔ながらのアニス・キャンディがあります。そして、教会前の広場に面したレストランでは、地元の人たちが料理を提供してくれます。牛肉赤ワイン煮込みが名物です。
もう一つ。南仏にあるレ・ボー・ド・プロヴァンスです。「レ・ボー」は、ごつごつした岩山からなる有名な観光地です。松本清張の本の舞台にもなりました。ここにも、私はアヴィニヨンからタクシーで行きました。レンタカーでまわる勇気がなければ、「美しい村」めぐりにタクシーは欠かせません。レ・ボーに行ったときには、迎えのタクシーが時間どおりに来てくれるか、私は心配してしまいました。だって、他には何の選択肢もないのですから・・・。
このレ・ボーは、フランスではモン・サン・ミッシェル、そしてゴルド(私は行ったことがありません)に次いで3番目に観光客が多いそうです。たしかに大平原にぽこっとそそり立つ岩山は奇岩城を思わせます。レ・ボーには中世の吟遊詩人をしのばせるものがあります。
風景写真だけでなく、おいしそうな料理の写真まである、楽しいフランス旅行に誘う本です。
(2015年5月刊。1800円+税)
2015年9月 6日
おとなの絵本・玄奘三蔵
世界史(中国)
(霧山昴)
著者 清原雅彦 、 出版 スーパーエディション
これは、すばらしいロマンあふれる、おとなのための絵本です。
テーマは、中国は唐の時代に、はるばるインドまで歩いて仏教典を探し求めて帰国した僧玄奘です。
玄奘は26歳のとき、中国の都・長安を発ってインドへ向かいます。当時の中国は、国外へ人々が出ることを禁止していたので、玄奘は農民に変装し、お忍びで出かけたのでした。
この本は、絵本ですから、たくさんの絵があります。素朴なタッチの絵です。私は『嵐の夜に』の絵本を思い出しました。
私も一度だけトルファンに言ったことがあります。高昌故城があります。炎熱の地です。昔は、地底に縦横無尽に通路をつくり、地底の住居で生活していたのでした。
三蔵法師と言えば、火焔山です。灼熱の地です。紅い、草木のない岩だらけの山がそそり立っています。まさしく地の果てという感じです。
著者は、私の尊敬する北九州の弁護士です。音楽に堪能だというのは昔から聞いて知っていました。とこらが、今回の絵本に接して、こんなにも味わい深い絵を描けるとは、驚きました。しかも、奥様が絵を補足しているとのことです。私も行ったことのある大雁塔については見事な切り絵です。すごいです。
夫婦合作というのも素晴らしい、大変な傑作絵本です。
著者は、なんと1977年から今日まで、毎年のようにシルクロードや中央アジアを旅行してきたとのことです。例のタリバンに爆破されてしまったバーミヤン谷の大仏も現地で拝んだことがあるそうです。
玄奘は26歳のときに中国を出て、43歳になって帰国したのでした。途中で何度となく強盗に襲われ、危ない目にあっています。そのたびに奇跡が起きました。
そして、中国に持って帰った仏教典を弟子たちとともに翻訳していったのです。それが、「大唐西域記」という旅行記とは別に、1335巻にものぼるのです。引用文を引用します。
「玄奘は長身白皙で、血色はよく、眉目は画いたように端麗であった。声は澄み、言葉はさわやかで対談の相手を倦ませなかった。長時間、人と語っていても態度がくずれず、清潔な白木綿の衣を常用していた。
歩くときは、あせらず、せまらず、前方を直視して、そちこちと目を動かすことがなかった。態度の落ち着いて清らかなことは池中の蓮花にたとえられようか。自身は戒律を厳しく守ったけれども、他人に対しては寛大であった。しかし、孤独を楽しみ、交遊は好まぬ方であった」
ながいあいだのシルクロードへの旅が、このように見事な絵本に結実したのですね。すばらしいことです。長年のご労苦の結晶を贈呈していただきました。本当にありがとうございます。
今後ともお元気にお過ごしください。
(2015年2月刊。4800円+税)
2015年9月 7日
日本の森・列伝
生物(木)
(霧山昴)
著者 米倉 久邦 、 出版 ヤマケイ新書
私は、秋田県の白神山地のブナを見学に行ったことがあります。見事なブナの木でした。
日本のブナの北限は北海道。
ブナという種が地球上に誕生したのは150万年前のこと。そしてブナの森は、今よりずっと北側にまであった。しかし、地球が氷河期に入ると、ずっと南へ生息域を移していった。
地球が再び温暖化して、1万2000年前に、ブナは反転攻勢して北上していった。本州の北端にブナがたどり着いたのは9000年前のこと。
ブナが北上するといっても、根があるから、タネを誰かが運んで芽を出すという方法しかない。ブナは発芽してからタネをつけるまでに50年かかる。だから100年で100メートルしか北上できない。ブナのタネを運んだのは鳥だ。ホシガラスやカケスが「犯人」として考えられる。
北海道において、道南のブナは、アイヌの人々の暮らしとともに栄えてきた。
北海道のブナは、葉が大きい。その代わり、葉の枚数が少ない。ブナの若木は、ミズナラやホオノキが葉をつける前に太陽の光を独占しようとして、早く太り、背を伸ばして大きな葉を広げる。
北限のブナは、まっすぐに幹を伸ばし、高いところに枝葉を広げる。下枝もない。
ブナの寿命は一般には250年。しかし、北限のブナは170年で枯死する。
ブナは雪の申し子だ。冷温で、たっぷりの水を供給してくれる土地が好き。でも、湿地は好まない。水はけがよくないと困る。
ブナが実生で、発芽してから育つのは10%未満でしかない。ブナの実は、ヒグマの大好物だ。
ブナは、保水力のある土壌が好きだ。ブナの森の土壌は、スポンジのようになっている。ブナの葉は、とても固い。そこで、まずは菌類が分解する。そして、ミミズやダニが食べられるようになり、フカフカの土壌になる。
ブナは保水力があるところが好きだ。ブナがあるところは、さらに保水力がアップする。
東北地方に、もともとクロマツはなかった。海岸防災に一番適した木だと分かって、クロマツの評価が一挙に高まった。クロマツが海岸林として形を成すまでに20年以上もかかった。
動くことのできないブナは、水を寄せ集める仕組みを、木全体でつくり上げている。雨も霧も、樹幹流といって、水を見事に誘導するシステムがある。
ブナの次は、スギ。スギにもいろいろな形があるのですね・・・。
佐渡には一度だけ行ったことがあります。あまりに人間にとって劣悪な自然の環境のためにスギの天然林があるといいます。樹齢500年の大木まであるそうです。
木も動いていく生物なのですよね。楽しい、不思議な話が満載でした。
(2015年6月刊。880円+税)
大刀洗町に今村天主堂という立派なカトリックの教会堂があります。この地域は江戸時代を通じて潜伏キリシタンがいて、明治になって「発見」されたのでした。
江戸時代の直前、1600年ころ筑後地方のキリシタン人口は7000人、1605年には8000人をこえていた。現在、筑後地方のカトリック信者は2900人ほどなので、当時のほうがはるかに多い。
この今村地域は、今もほとんどがキリスト教信者です。
なぜ、陸の孤島でもないのに大量の潜伏キリシタンがなぜ可能だったのか。秘密が厳守されていたこと、全村が潜伏キリシタンだったこと、年貢を確保するためには藩としても農民を殺すわけにはいかなかったこと、そのため村役人は「見ざる、言わざる、聞かざる」を通していたことが理由として考えられるとされています。
私の個人ブログに、その堂々たる教会堂の写真を紹介していますので、のぞいてみてください。
2015年9月 8日
証拠は天から地から
司法
(霧山昴)
著者 岡田 尚 、 出版 新日本出版社
著者は司法研修所で私と同期(26期)で、同クラスでした。実は、実務修習地も同じ横浜だったのです。
著者の扱った事件からタイトルがとられていますが、本としても大変面白く、一気に読了しました。では、タイトルにちなむ話を紹介しましょう、本書の後半に出てくる話です。
国鉄の分割・民営化の過程で、当時の日本で最強の労働組合と言われていた国労や全動労の組合員は徹底して弾圧され、迫害を受けた。1986年12月、横浜貨車区で国労の組合員5人が助役に傷害を負わせたとして逮捕された。逮捕当日の夕刊各紙は大きく事件を報道し、国労つぶしキャンペーンに加担した。
しかし、起訴されたとき、助役に対する傷害罪は消え、公務執行妨害罪しかなかった。いったいどういうことか?
この刑事裁判で、検察側は、物的証拠としてマイクロカセットテープ一本を提出した。助役が事件の現場で隠しどりしたというもの。
弁護団は当然のことながらテープをダビングして聞いていた。すると、坂本堤弁護士(オウム真理教から妻子ともども無惨に殺されてしまいました)が「あれ、なんか違うのが入ってるな」と、つぶやいた。このテープには、当局側の事件直前の打合せまで録音されていて、それとも知らずに消去されることなく裁判所へ提出されていたのです。
ところが、雑音がひどくて、とても聞きとれない。そこで音楽スタジオを借りて、大変な苦労をして2年かけてテープ全部の反訳書を完成させた。
「やつら、たくさんいるんでね。動かないんですよ、、、、。公安関係の人、残っていただいてね」
「皆さん、ここに隠れてもらって、なにかあったときは、すぐ飛び出してもらいます」
「うちのほうは隠れていてね、やつらにやらせるように仕向けますから。決定的なやつをね、、、、、皆さんにみてもらえば、、、、」
「ワーワーやったところで、現認してもらえばいいですから」
このような当局の内部打ち合せが27分間も録音されていた。
このテープの謀議場面を著者はテレビ局に提供した。深夜に、「刻まれた謀議」として1時間番組として放映され、2桁の視聴率をとった。
助役のズボンのポケットにカセットテープレコーダーが入っていたというが、国労組合員による具体的「暴力行為」に触れた発言がどこにも出てこないことも明らかになった。
そこで、裁判所は、「(暴力があったら聞けるはずの)衣擦れ音等をまったく聴取できない」「本件テープは、暴力の裏付けとならないばかりか、問題性を広げてみせるばかりである」「管理者側の挑発の策謀といった、これまた不明瞭な事情が認められる」
などとして、無罪判決を下した。検察官による控訴はなく、一審で確定した。
要するに、国鉄当局が公安警察としめしあわせて「傷害」事件をデッチあげたのです。
次は、海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」で、いじめにあって自殺した若い自衛官の事件です。
一審判決は遺族が勝訴(国は440万円支払え)したものの、自殺とイジメの因果関係を裁判所は認めなかった。東京高裁へ控訴した段階で、一審で国側代理人だった自衛官が内部告発したのです。自衛隊は、この自衛官が自殺した直後に乗組員全員にアンケートをとり、実情をつかんでいたのに、それを裁判の証拠として提出していなかったのです。
この勇気ある自衛官は、ついに裁判所あてに陳述書まで書いたのでした。
証拠隠しがバレた自衛隊側は、当然のことながら敗訴(国は7350万円を支払え)します。
そして、自衛隊のトップは遺族宅に出向いて直接、謝罪し、告発した自衛官は差別されないような措置がとられたのでした。
著者は、「あとがき」で次のように書いています。
「弁護士生活41年だから、負けたこともあるし、勝利も、そこで私が果たした役割がどれほどのものか分からないが、それでも私は、これまで幸せな弁護士人生であった」
弁護士の仕事に全力投球したため、家庭のほうはいささかおろそかな面があったようです。著者も、その点は反省しきりです。
ともかく、熊本県玉名市で生まれ育ち、横浜での41年あまりの弁護士生活を振り返っている本書は、あとに続く弁護士にとって大変教訓に富むテキストにもなっていると思います。ぜひ、ご一読ください。
著者の今後ひき続きのご健闘を心より祈念しています。
(2015年7月刊。1700円+税)
2015年9月 9日
大江戸・商い白書
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 山室 恭子 、 出版 講談社選書メチエ
江戸時代の町人の生活の実情を統計処理を通じて明らかにした画期的な本です。一見、無意味に見える数値の山も、きちんとした統計処理をすると、意味のある物語になってくるのですね、、、。業者による地道な統計処理が生きている本になっています。
江戸の町奉行所の調査はすごい。1853年(嘉永6年)に、男性29万5453人、女性27万9474人、合計57万4927人の町人が住んでいるとしている。
ただ、どの町に何人が住んでいるというところまでは分からない。
江戸の店の名前は、1位に伊勢屋、2位に万屋(よろずや)、3位は三河屋。越後屋は6位。屋号の存続年数は、伊勢屋が一番長くて17年、万屋は15年、越後屋は12年。全体の平均は15,7年。要するに、江戸の店は、目まぐるしく参入と退出がくり返され、商人の顔ぶれは、どんどん入れ替わっていた。
店の移動は、第三者への譲渡が5割、身内への相続は1割にみたない。
商人は非血縁原理による承継をメインとしていて、血縁相続による承継は部分的でしかなかった。そして、非血縁者に金銭で譲り渡す譲渡のほうが、承継されたあとの存続年数が長く、安定性も高い。
江戸の店で多いのは、炭薪(すみたきぎ)仲買(なかがい)823件、次いで搗米屋(つきこめや)771件の二つで、3位の両替屋209件を大きく引き離している。
店の存続期間が50年以上というのは、石灰等仲買と札差。差札については、100年をこえる店も珍しくない。公儀の家臣に顧客を限定した金融業ということで、特殊かつ専門性が高いので、参入障壁は高かった。
米屋や炭屋は、株の譲渡や改廃が頻繁で流動性が激しく、10年ほどで店主がくるくる交代する短命な業種だった。
呉服屋や薬屋は、株があまり移動せず、固定的で、店主も30年ほどじっくり継続する長寿な業種。
札差は、全店舗が浅草の蔵前地区に集中している。
薬種問屋の92%は、日本橋北地区に集中している。『江戸買物獨(ひとり)案内』という本が売られていた。ひとりでも江戸の町で迷わず買い物ができるための初心者向けのガイドブック。すごいですね。こんなガイドブックまであったのですか、、、、。まるで、『地球の歩き方』です。
この本のもとになっているデータは、『江戸商豪商人名データ総覧』です。全7巻データ総数7万4000件。そこからデータを抽出して3939人分の商人の履歴データを整理してつくられたのが本書なのです。実に根気のいる作業でした。それでも、そのおかげで、私たちは江戸の町人生活の実情を統計的にも確認できるわけです。ありがたいことです。
江戸に少しでも関心のある人には必須不可欠な本だと思います。
(2015年7月刊。1600円+税)
2015年9月10日
幕末史
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 佐々木 克、 出版 ちくま新書
ペリーの来航。アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、アメリカ大統領フィルモアの日本に開国を勧める親書をたずさえて、四隻の軍艦とともに浦賀に来航した。1853年6月のこと。ミシシッピ号は全長69メートル、1692トン、大砲12門、乗員268人の外輪式フリゲート艦。
当時の日本には、軍艦というものがない。最大の千石船は150トン、乗員20人、もちろん大砲は積んでいない。
そうだったんですね。1桁ちがう大きさの船に、大砲が12門も積んであれば脅威そのものです。しかも、その大砲の威力がすごいのです。
新型の大砲パクサンズ砲は、6000メートルの有効射程距離にあるから、江戸城はやすやすと攻撃可能だった。
私が驚いたのは、浦賀奉行の与力・中島三郎助が大砲を見てパクサンズ砲ではないかとたずねたという事実です。江戸幕府も、外国の新鋭兵器について相当の知識をもっていたのです。
1867年、長崎でイギリス人水兵が何者かに殺害された。イギリス公使パークスが土佐の高知に乗り込んで、土佐藩政・後藤象二郎と談判した。パークスは、テ-ブルを叩き、床を踏み鳴らすなどして傲慢な態度で後藤を威嚇した。ところが、これに対して後藤はひるまない。
「大英帝国の外交官・紳士がそのような節度のない、粗野な態度では、いかがなものか」と、逆にたしなめた。
卑屈にならず、ぶれず、礼節をわきまえ、高い志をもつ。この幕末日本の外交姿勢は、中国とは違っていた。日本を侮っていた欧米列強をたじろがせた。
これはすごいことです。今のアメリカの言いなりになる屈辱的外交とは、まるで違いますよね。首都圏に外国軍の基地がある国なんて、日本だけだと思います。しかも、その基地に入管もパスポートも無用のままアメリカの将兵が自由に入出国しているというのです。信じられません、、、。
1862年(文久2年)、薩摩藩の島津久光(44歳)は、藩兵1000の大軍を率いて京都に着いた。幕府の許可なく、届出もしていない。ただし、天皇の内命(上京するように)は得ていた。そして、浪士を取り締まる役目を、天皇が京都所司代をさしおいて、幕府に断りもなく直接、特定の諸候(大名格の久光)に命じた。近世社会の常識ではありえないことがおこなわれた。幕府の権威の失墜であるが、幕府は異議を申立することもなく、これを黙認してしまった。
民衆が尊王攘夷運動を支持したのには明白な理由があった。このころの日本は、かつて経験したことのない急激なインフレーションが進行していた。開港このかた、よいことが一つもなく、生活が苦しくなるばかりだと幕府をうらんでいた民衆が、尊攘運動に期待したのは、自然のなりゆきだった。
1864年(元治 元年)、徳川慶喜25歳、松平春嶽34歳、島津久光45歳。山内容堂35歳。みな若かったのですね、、、。
1863年(文久3年)、孝明天皇が賀茂神社に行幸した。天皇が禁裏御所を出るのは237年ぶり。このとき、天皇は徳川将軍と大名を従えて行列した。天皇が日本国家の最上位に位置する存在であることを誇示したのである。
1863年の秋、天皇は島津久光に心境を打ち明けて相談した。久光は、無位無官であって、朝廷では庶民の扱いであるから、御所の座敷に上がることは許されず、廊下に座ることを命じられる。そのような人物に天皇は相談をもちかけた。これは、近現代の天皇と国民のあいだでは想像もつかないことだった。ただし、あとで、久光は従四位下左近衛少将に叙任している。
1865年4月、薩摩の汽船が大坂を出港した。この船には、家老・小松帯刀(29歳)、側役(そばやく)・西郷隆盛(36歳)、そして坂本龍馬(29歳)が乗っていた。本当に若いですね、、、。
1866年(慶応2年)1月の薩長誓約は、西郷が口頭で述べた運動方針を木戸が6ヶ条に整理して書きとめたもので、朝廷は再起不能の状態にあって期待できないので、誓約しますという趣旨である。
幕長戦争では、統制のとれていない幕府連合軍に対して、長州藩では、武士・農民・町民が一体となった日夜、厳しい訓練に耐えてきた。そして、日本再建の一翼を担うため負けてはならない戦争だと位置づけていた。戦場における幕府軍劣勢の報が相次ぐなか、将軍家茂は20歳で大坂城中において病死した。死因は脚気による心不全。
幕末の状況を生き生きと再現していて、とても考えさせられる面白い本でした。
(2014年12月刊。1000円+税)
2015年9月11日
人びとはなぜ満州へ渡ったのか
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 小林 信介 出版 世界思想社
戦前の満州(現在の中国東北部)には、100万人をこえる日本人がいた。その3分の1は農業移民だった。そして、長野県は満州移民をもっとも多く送り出した。
満州への農業移民には、3つのパターンがあった。
自由移民・・・個人単位で満州に渡った。
分村移民・・・ひとつの村が送り出しの母体となって移民を送り出す。
分郷移民・・・近隣町村が合同してひとつの開拓団を組織した。
戦前の恐慌は1934年が底で、その後は長野県の経済は回復傾向にあった。そして、徴兵・徴用が相次いだことから、農村は労働力不足の状況となった。そこで、農家の過剰人口を前提とする大量の移民送出は困難になったが、大陸政策上の理由から、満州移民は要求され続けた。
一般開拓団が行き詰まりをみせはじめると、多くの青少年が義勇軍として満州へ送られた。関東軍の予備兵力である。
1945年8月9日、ソ連軍は満州へ侵攻を始めた。このとき、関東軍は主力が南方に派遣されており、また、関東軍による「根こそぎ動員」によって満州各地の開拓村には壮年男子はおらず、老人、女性、子どもが残されていた。
満州開拓は、日本の大陸侵略を前提としたものであり、満州の大地に根をおろしていなかった。現地の中国人は、開拓民をうらんでおり、日本人を歓迎するどころではなかった。
長野県が送り出した開拓民2万6000人のうち、日本に帰還したのは1万1000人ほど。半数以上が日本に帰国していない。帰国できなかった。
この本は、阿智村の長岳寺の住職・山本慈昭氏の活動を紹介しています。私も先日、映画『望郷の鐘』をみました。山本慈昭氏ら開拓民の悲惨な体験を身近に実感できる内容の映画です。泣けて仕方がありませんでした。2013年4月には、満蒙開拓平和記念館が開館しています。
長野県が青少年を満州へ義勇軍として送り出すのが多かった原因の一つに、教師が農家の二・三男をそそのかしたことがあげられる。それは、前段に長野県では「教員赤化」事件で138人という、大量の意欲的な教師が特高警察から逮捕されたこと、このとき信濃教育会も当局からにらまれたことによる。そこで、信濃教育会は、「海外発展」を打ち出すことによって信濃教育会への風当たりを援和させようとしたのだろう。
国の政策(国策)は、コロコロ変わる。その犠牲(しわ寄せ)は国民にかぶってくる。
このことを改めて実感させられる本でした。アベ政権にだまされてはいけません。「国を守るため」というのは、「国民を守る」ことに直結しておらず、矛盾することが多いことを学ぶべきだと痛感させられました。
(2015年8月刊。2500円+税)
2015年9月12日
徹底批判!カジノ賭博合法化
社会
(霧山昴)
著者 全国カジノ反対連絡協議会 出版 合同出版
日本はすでに世界一のギャンブル大国と言われる。パチンコ、スロット、競輪、競馬、競艇、オートレースと、、、。
全国のパチンコ店は、減ったといっても、まだ1万2000店以上もある。
カジノの収益の90%は、10%のギャンブラーに依存している。大金を賭ける優良顧客は10%であり、優良顧客をいかに確保するかがカジノ収益を左右する。
カジノ企業は、1人でも多くの客をギャンブル依存の状態に誘導し、「滅びるまで賭け」させ、限られた「優良顧客」から高収益を得ている。
アメリカでは、一般受刑者の30%がギャンブル依存症だと言われている。
日本ではギャンブル依存症の60%に500万円以上の借金がある。
日本にカジノを設置しようとしているのは、日本に来る外国人の金持ちが狙いではない。あくまで、日本人ギャンブラーからお金を吸い上げようというもの。ここをカジノ協議連盟などのカジノ推進派はごまかしている。
カジノの「経済効果」とは、「不幸をまき散らすビジネス」でしかない。
カジノの実現を狙う議員の多くは、戦争法案の推進派でもあります。根っこはひとつ。自分の金もうけのためには、国民の多くが不幸になってもかまわないという我利我利亡者であるということです。情ない連中です。
(2014年8月刊。1200円+税)
2015年9月13日
ごみと日本人
日本史(江戸)
(霧山昴)
著者 稲村 光郎、 出版 ミネルヴァ書房
江戸時代の末期、開港させられた日本は、ヨーロッパにボロを輸出していた。金額にして8千ドル。これは、磁器や和紙より多い。ヨーロッパは、日本のボロを洋紙の原料にしていた。
当時の日本では、ボロは主として衣類の補強材として使われていた。
さらに、もっと価値ある輸出品として屑まゆや屑糸が、ヨーロッパでは工業製品である「絹糸」の素材になった。絹糸は、まゆから直接製糸する生糸とは異なり、屑糸や真綿など短い繊維を紡いでつくるもの。ヨーロッパは、絹糸紡績の原料をアジアで求めていた。
以上、二つは私の知らない話でした。
江戸時代、屎尿と同じようにごみも農村へ運ばれ、有機系肥料として利用されていた。
明治10年ころの日本にいたモースは、日本人の清潔さに驚いている。しかし、他方で、日本人は、町内のごみが腐敗臭を放っているのを問題とし、新聞は投書を載せていた。
明治10年代の日本でコレラが流行し、8000人が死亡した。
紙屑が本格的に洋紙原料として、重要視されるのは、さらに昭和になってからであり、古雑誌や新聞は一般市民が日常生活上で再使用するのが常識だった。
ごみをめぐる日本社会の扱いの変遷がまとめられていて、大変興味深い内容でした。
(2015年6月刊。2200円+税)
2015年9月14日
ウルフ・ウォーズ
生き物
(霧山昴)
著者 ハンク・フィッシャー 、 出版 白水社
アメリカのイエローストーン公園にオオカミを復活させる取り組みをたどった本です。
オオカミは、かつては嫌われものの筆頭でした。赤ずきんちゃんの話でも、オオカミは悪い奴として登場します。なので、オオカミを打ち殺すのは当然という風潮がしっかり社会に定着していました。同じようにピューマが家畜を襲っても、ピューマを根絶やしにしろという声が起きたことはありません。ピューマを見た人が少ないこともありましょうが・・・。
アメリカ北部のオオカミの回復は軌道に乗っている。そのための一つは、家畜生産者がオオカミの被害にあったとき、民間の基金によって補償金を支払うという制度をつくったことです。その二は、自分の土地でオオカミが子を産んだとき、その土地の所有者に5000ドルを提供するようにした。
オオカミを復活させるためには、やはり、このような経済的手当も必要なのですね・・・。
1930年、アメリカのほとんどの州からオオカミの姿は消えてしまった。かつて、イエローストーン地域だけでも、オオカミは3万5000頭以上いると推定されていた。オオカミがいなくなると、シカが急速に増えはじめた。
1995年1月、アメリカの魚類野生生物局は、カナダから空輸してきたオオカミ4頭を原生地域に放した。
いま、イエローストーン公園には、年間350万人もの観光客が押し寄せる。そして、その相当部分がオオカミ目当てだ、ここではオオカミによる人身事故は起きていない。オオカミ目あての観光客は、地域経済をうるおし、オオカミの復帰で回復した自然は世界中から来る観光客を魅了するだけでなく、教育の場として、多くの親子連れや学生たちでにぎわっている。
オオカミの大半は、発信機なしの野生のままの状態で生息している。人々は、それを見て、当たりまえのことと思っている。
日本でも、北海道でエゾシカやキタキツネが増えすぎていることが以前から問題になっています。それもオオカミがいないことによる現象の一つです。
日本でオオカミを復活させるのはできないのでしょうか?
ちなみに、オオカミが人を襲う心配は、ほとんどないということです。
(2015年4月刊。2600円+税)
2015年9月15日
ステーキ!
アメリカ
(霧山昴)
著者 マーク・シャッカー 出版 中公文庫
私は、マックは食べません。昔、食べたことがありますが、牛肉を食べているのか、添加物を食べているのか分からないようなものは今では食べる気がしません。恐ろしいからです。
牛肉だったら何でもいい。安ければいいというのは、私の信条にあわないのです。
そして、久しくアメリカには行っていませんが、アメリカに行きたくもありません。ステーキといったら、とてつもないボリュームです。しかも、塩とコショウの味つけのみ。繊細な牛肉の味わいを楽しむことができません。もちろん、高級な店では違うのでしょうが、、、。
1850年ころまで、牛は地元で解体されるものだった。生きた牛をカウボーイが都市部まで連れていって、肉屋がステーキやロースト用に切り分けていた。一切の品質管理は、カウボーイにゆだねられていた。
今や、牛肉は、とうもろこし、砂物、ゴム、大豆、ウラン、原油、銅、パーム油と同じ、量産品である。大量に生産され、画一的で、生産の予測ができる。
霜降り牛肉を手に入れるには、蒸したとうもろこしフレークを牛に大量に与える。
餌にまぜこまれた抗生剤のおかげで、肝臓や他の臓器の働きが保たれるため、98%の牛が精肉工場からのトラックで迎えに来るまで生きている。牛を大きくして肉を安くするために投与するホルモン剤は、味に影響しない。
牛はストレスに弱い。牛も鶏も豚も、なんでもかんでも早く成長させようとしすぎだ。それでは、風味は生まれない。
おいしい牛を育てるには草を食べさせること。自然な状態にある牛は草を食べたがる。草を食べていると肝膿瘍にならないし、第一胃も酸性化しない。穀物肥育の牛の体脂肪は、飽和状態で、脂分過剰で動脈を詰まらせかねない。これに対して、草肥育の牛の脂肪は、天然の鮭の脂肪に似て、より健康的。草肥育牛は、牛肉らしい味がする。
日本の名産牛も、もちろん登場します。ここでは、九州の佐賀牛と鹿児島牛についての記述を紹介します。
どっちも、サイコロ型の肉を上下の奥歯でつぶすとジェル状の中味がプシュッと飛び出す食感が面白い。牛肉のおいしさがあふれ出す様子は強烈。完熟バナナみたいにやわらかくて、かといってベチャベチャでもドロドロでもないし、組織はちゃんとあるのに、嚙んでも抵抗がない。
日本の牛は30ヶ月かけて完成する。アメリカの肥育場の5ヶ月と比べて、ずい分長い。松坂では、35ヶ月かけて仕上げた牛には、検査官が5よりもさらに高いランクを付ける。特産松阪牛と呼ばれるその肉の霜降りとやわらかさは、他の追随を許さない。
現代のステーキの風味は、牛肉の風味とは違う。大量生産されるものと、甘酸っぱいソースの風味。そんなものは混じり気のないおいしさとは言えない。本物のステーキを一度でも味わったら、とてもおいしいとは思えなくなる。
福岡の西中州にある「和田門」で、私も本当の牛肉の美味しさに開眼しました。また、地元の肉屋さんから、とび切り美味しい牛肉を何回か分けていただきました。いずれも素材の違いを実感しました。食べる餌と飼育方法がまったく異なるのですね。
アメリカ式の大量生産方式の牛肉は、マックのように化学調味料で味付けして、ごまかすわけです。
美味しい牛肉を食べたら、あとは、もうベジタリアンになるしかないですよね、、、。
(2015年1月刊。1100円+税)
2015年9月16日
空のプロの仕事術
社会
(霧山昴)
著者 杉江 弘 出版 交通新聞社新書
月に1回か2回は上京しています。もちろん飛行機を利用します。本心は、飛行機は怖いのですが、もはや新幹線に乗って上京しようとは思いません。時間がかかるうえに疲れてしまうからです。大学時代には、上京するときは寝台特急「みずほ」を利用していました。夕方ころ出発して、翌朝遅くに東京に到着していたと思います。今では、このブルートレインはなくなってしまいました。
私の身近には、飛行機は怖いから乗らないという人が何人もいます。その一人、福岡の弁護士は、北海道まで新幹線を乗り継いで行ったというのです。すごく疲れたことでしょうね、、、。飛行機は、なんといっても安全を第一にしてほしいと思います。
アメリカの政府専用機、いわゆるエアフォースワンは、エンジンが4基あるボーイング747の200Bを使っている。なぜか? 安全性で優れているから。エンジンが4基あると、一つのエンジンが故障しても、残りの3基のエンジンによって目的地まで飛行できる。エンジンが2貴だと、一つのエンジンが故障したら、ただちにも最寄りの空港へ緊急着陸しなければならない。シベリア大陸の上を飛んでいたら、なかなか空港は見つからない。太平洋上だと海上着水しか選択肢はないこともありうる。
エアフォースワンには、航空機関士1人、航空士1人も搭乗して、2人のパイロットとあわせて4人で運航している。
日本のボーイング新型機は、エンジン2基で、パイロット2人でしかない。本当に大丈夫なのだろうか、、、。
航空会社の経営陣にとって、コスト削減で一番かんたんなのは整備費を少なくすること。今では、自主整備をしている会社は一社もなく、すべて整備専門の会社に外注している。これでは自社に人材が育たない。育つはずがない。
飛行機の運航の安全性を確保するうえで大切なものの一つに労働組合を尊重し、きちんと対話することだと思います。労組を統制の対象としてしかみない古いやり方から一刻も早く脱してほしいと思います。『沈まぬ太陽』(山崎豊子)を読んだとき、JALの理不尽な労務政策を知って怒りを燃やしました。今もJALとたたかっている人たちがいます。私は飛行機に乗るたびに、彼らが現場作業を監視してくれていると感謝しています。
飛行の安全性は、ぜひ今後ともぜひ厳守してほしいものです。
(2015年2月刊。800円+税)
2015年9月17日
生きて帰ってきた男
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 小熊 英二 出版 岩波新書
著者の父親の伝記です。さすがに社会学者だけあって、裏付け調査がすごいのです。父親の語る話が細かいところまで具体的なのには驚かされます。この親にして、この子あり、という気がしました。よくぞ、ここまで調べ尽くしたものです。
実は、私も父の聞き書きをもとにして、同じような伝記を完成させたことがあります。父が病気(癌)のため入院しているときに、テープレコーダーを病室に持ち込み、その生い立ちを語ってもらい、あとでテープ起こしをし、また、私なりに歴史を調べ、父が語った事実を裏付けていったのです。
たとえば、私の父は「三井」の労務係の一員として、朝鮮半島に徴用に行っています。朝鮮人の強制連行は炭鉱でひどかったのですが、化学工場では無理でした。勤労意欲のない人を、精密な化学工場で無理に働かせても、まともな商品はつくれなかったというのです。なるほど、と私は思いました。強制労働は単純肉体労働でしか役に立たない、このことを父からの聞きとりで理解しました。
この本は新書版で390頁もある、大変な労作です。最後に紹介された言葉がいいです。さまざまな質問の最後に、人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何だったかを訊いた。
父親はシベリアに抑留され、また戦後の日本で結核療養所に入っていた。未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか?
「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」
この答えだけでも、本書はここに紹介する価値があると思いました。
著者は、最後に、こう書いています。
父はやがて死ぬ。それは避けえない必然である。しかし、父の経験を聞き、意味を与え、永らえさせることはできる。それは、今を生きている私たちにできることであり、また私たちにしかできないことである。
なるほど、そうなんですよね。団塊世代の私たちは、みな定年退職してしまっていて、自分を振り返っています。先日、私が母のことをまとめた本(こちらも新書版)をネットで知ったとして、私の見知らぬ人から手続をもらいました。なんと、私と同じ年に生まれ、同じ年に東大に入った人でした。母の異母姉の夫の孫にあたる人ですから、私とまんざら縁のない人ではありません。世の中は狭いものだと痛感しましたし、ネットの威力を改めて思い知らされました。
1937年12月、南京が陥落したとき、「提灯行列」があった。下のほうは冷めていた。戦争について、勝った話ばかりが伝わってきて、そのたびに日本軍が占領した場所に地国の上に旗を立てる。ところが、いくら旗を立てても、戦争が終わらない。
なるほど、こんな冷めた見方が当時もあったのですね。
旧制中学の国語教師は、乃木希典について、こう言った。
「乃木さんは、日本では偉いことになっていますが、外国では、軍人としては能力不足で、そのため多くの犠牲者が出たと言われている」
ホント、そうなんですよね、、、。
サイパンで日本軍が「玉砕」し、東京が空襲されるようになって、日本の敗北が論理的に考えると必至になった。このとき、人々は、それ以上のことは考えられなかった。考える能力もなければ、情報もなかった。考えたくなかったのかもしれない、、、。人間は悪いことは信じたくない。 いつでも希望的観測をもってしまう。
シベリア抑留で、日本人が次々に死んでいった。おそらくロシア人は、日本兵がこんなに寒さに弱くて、犠牲者が続出するとは思っていなかったのだろう。
栄養失調になると小便が近くなる。もう少しひどくなると、下痢になる。夜中に、みんな頻繁に起きて小便に行っていた。便所で尻を出しても、尻は丸いから凍傷にはならない。凍傷になるのは、鼻とか指だ。鼻が赤くなっていたら、気をつけてゆっくり暖めないと、鼻が落ちる。誰もが、他人の消息を気づかうような、人間的な感情が失せていた。
戦前、「生きて虜囚の集めを受けず」という戦陣訓を教え込まれていた将兵は、自決に失敗した東条英機を軽蔑したし、昭和天皇は終戦の責任をとって自決すると思っていた。
著者の父親は、日本に帰ってきた昭和26年から4年間、結核のために療養所生活を余儀なくされた。
淡々と、体験した事実を具体的かつ詳細に語っていくのには、言葉が出ないほど圧倒されてしまいます。でも、こうやってフツーの日本人の戦前・戦後の歩みが語られ、明らかにされるのは、とてもいいことだと思いました。そこには「自虐史観」というナンセンスな非難は存在する余地がありません。
(2015年6月刊。940円+税)
2015年9月18日
満州難民
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 井上 卓弥 、 出版 幻冬舎
いざというとき、国家は国民を助けず、冷酷に見捨ててしまう。
そのことを証明しているのが、戦争末期の満州難民です。軍隊も国も、さっさと自分たちは列車に乗って日本に帰り、寄る辺なき大勢の日本人家族が満州の地に取り残されてしまいました。
王道楽士をつくるという幻想にかられて満州へ移住していった日本人を、今の私たちが馬鹿な人々だと切り捨てるのは簡単ですが、それは日本の国策だったのです。その国策にしたがった人たちを日本の国家が見捨ててしまったのですから、国家指導者の責任は重いというべきです。
いま、自民・公明の安倍政権は嘘八百を並べたてて戦争法案を強引に成立させようとしています。日本の自衛隊をアメリカと一緒になって地球の裏側まで派遣して海外での戦争に参加させようとする憲法違反の法案なのに、国民に対しては中国や北朝鮮の脅威をあおりたてて法案の必要性をことさら言いつのっています。マスコミでは桜井よし子が安倍政権の応援団です。こんなひどいウソを一国の首相が言い続けて、それをNHKなどのマスコミがそのまま垂れ流しているのです。許せません。
主戦直後の8月9日、10日の2日間に、関東軍と軍属そしてその家族3万7000人が鉄道をフル稼働させて新京を発って南へ向かい、日本本土へ引き揚げていった。
当時、満州在住の日本人は155万人いて、開拓移民は2割ほど。その3割近い8万人ほどが生命を失った。日本政府は、満州に住む日本人の一般住民(民間人)の日本本国への帰還について、きわめて冷淡だった。満州での日本人死者17万6000人のうち、開拓移民の犠牲者は8万人近かった。
満州各都市における日本人死者は、終戦前に48万人の日本人人口をかかえた奉天が3万人で、一番多い。新京特別市は15万人の日本人人口が敗戦後は20万人にまでふくれあがり、うち2万7000人が亡くなった。
ある子どもは亡くなる前に、「僕を穴のなかに埋めないでね」と言い残して息を引きとった。本当に可哀想です。何度読んでも涙が出てきます。
終戦当時、朝鮮半島にいた日本人は、北緯38度線より北に30~40万人、南側に50~60万人。合計80~100万人。朝鮮北部にとめおかれた日本人は難民7万人をふくめて40万人。そして、1年間で3万4000人が亡くなった。その犠牲者の大半が子どもと女性。厳冬期のことだった。
戦争の悲惨さを改めて実感させる本となっています。
このような事態を引き起こした政府の責任は厳しく追及されるべきですし、いま再び安倍政権は同じ道に突きすすもうとしています。許せません。
(2015年5月刊。1900円+税)
2015年9月19日
日本とイスラームが出会うとき
社会
(霧山昴)
著者 小林 明子 出版 現代書館
2014年現在、日本全国にあるモスクやムサッラーは80ヶ所。
ムサッラーは簡単な礼拝施設のこと。
日本のムスリム人口は10万人。
山梨県甲州市には、1万平方メートル(2700坪)のイスラム霊園がある。
日本人がイスラムへ改宗する理由の多くが結婚による。一般に、イスラームにおいて「棄教」は認められない。それは、刑罰では死刑になる。
日本自動車ユーザーユニオンで活躍していた安倍治夫弁護士(故人)が、日本イスラム教団の専務理事だったことを初めて知りました。
これまで日本にイスラームが広まらなかったのは、宗教的な感覚、あるいは価値観の違いが原因と思われる。イスラームは一神教の価値観で実践される宗教・文化であり、それは日本社会の習慣にあっていない。日本の宗教的伝統は、多神教的であり、非常にあいまいである。宗教の教義により社会や日常生活に厳密な規定があるイスラームとは根本的に異なっている。
イスラームでは、他の宗教のように「輪廻転生」(りんねてんしょう)を認めてはおらず、人間は楽園か火獄(かごく)のどちらかに行き、永遠の命を与えられる。だから、イスラムには、来世を楽園で過ごすために、現世でイスラームの教義に則した生活を送るよう努めることが求められる。
楽園は水と緑にあふれ、いくら飲んでも悪酔いしない酒を飲み、好きなだけ食べ物を食べることができる。火獄に行くと、業火(ごうか)によって永久にその身を焼かれることになる。
日本とイスラームとの関わりの現実と問題状況を知ることのできる本です。
(2015年6月刊。2600円+税)
2015年9月20日
太閣の巨いなる遺命
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 岩井 三四二 、 出版 講談社
ときは戦国時代。江戸時代がまだ始まる前のこと。日本人は、東南アジアとの交易を盛んにしていたのです。タイのアユタヤに出かけていきます。
鹿皮はシャムの国の特産品。ほかには、染料のもとになる蘇木(そぼく)、高価な香料の沈香(じんこう)、象牙、絹などが買い付けられ、日本からは刀や塗り物、銅などが持ち込まれる。支払いに一番喜ばれるのは銀だ。
日本で生み出される大量の銀が、アユタヤとの交易を回している。だから、銀を積んだ朱印船が年に何十艭も日本を出航し、アユタヤばかりでなく南洋の各地をめざして海を渡っている。南蛮船や明国の船も、日本の銀を求めて南洋各地と日本を往反(おうへん)している。
アユタヤには日本町があり、1000人近くの日本人が住んでいる。チャオプラヤ川に沿って南北に5町、東西の幅が2町ほどの矩形の中にある。アユタヤ産の鹿皮は、革袴や革羽織、馬に乗るときにつける行膳(むかはぎ)、甲冑(かっちゅう)の飾りなどに使われ、日本の武士のあいだで人気が高い。少し前まで鹿皮はルソンから日本に持ち込まれるものが多かったが、いまはアユタヤが最大の産地である。
イエズス会は、バテレンの元締めであるローマ教皇に忠誠を誓った熱心な信徒の集まりだ。いわば、ローマ教皇の直参馬廻り衆である。デウスの教えを世界に広めるために設立されたのだが、ポルトガルとイスパニアという世界に覇を唱えた強国の力を背景にし、信仰のためには、どんな危険な地域にも入り込む、忠実で優秀な人材を抱え、なおかつ軍勢のように上意下達の仕組みを持っている。
イエズス会が現にやっていることは、神の教えを広めるという崇高な建前とは裏腹に、ずいぶんと世俗の塵にまみれている。南蛮人が行く先々で、その地の人々に神の福音を説き、人々を手なずけて南蛮船が着く湊をしつらえ、商人が交易できるよう手助けする。
果ては、ゴアやマカオのように、他国の領土に南蛮人の居留地をつくってしまう。そして、宣教師たちも、当然のように商売をし、ぜいたくも蓄財もするのだ。
宣教師たちは、京都など宣教に訪れた日本各地では清貧な暮らしをして見せていたが、おのれの領地である長崎では下僕を使い、ポルトガルから運んだ酒や食物を飲み食いするなど、贅沢な暮らしをしていた。
宣教師になるのに必須であるラテンの言葉や教養を学ぶのは、資力に余裕のある家に生まれなければ出来ないこと。だから、宣教師たちは、もともと貴族か裕福な商人だった者ばかり。貴族だから、召使を身辺におき、贅沢するのは当たり前だと思っている。そこは、日本の位の高い坊主と変わらない。
しかも、南蛮の貴族は武人の一面も兼ね備えている。戦いとなれば、馬に剰従卒をひきいて出陣する。イエズス会が長﨑を守ろうとして大筒鉄砲を持ち込んだのも、もともと武人でもあった宣教師たちの目からすれば、何の不思議もない。
手に汗にぎる大海洋冒険小説です。著者のたくましい想像力によって海賊船とのたたかい、そして海上戦闘をしっかり堪能することができました。
(2015年7月刊。1800円+税)
2015年9月21日
イースター島を行く
アジア
(霧山昴)
著者 野村 哲也 、 出版 中公新書
モアイのいるイースター島を隅々まで紹介している、楽しい本です。
小さな島に1000体も石像があるそうです。洞窟もたくさんあり、夏至の日にだけ壁画を照らし出すサイトもあります。
著者はイースター島に住んでみて、しかも、現地の人と親しくならなければたどり着けないような秘境にまで出かけています。幻想的な写真とともに紹介されています。
モアイを宇宙人がつくったという説は信じられません。ポリネシアとかハワイの諸島から移住してきた人たちが墓や墓標として作りあげたものというのが有力です。
日本で関ヶ原の戦いが起きた1600年ころ、イースター島内部では深刻な食料不足から島民が12の部族に分かれてモアイ倒し戦争を繰り広げた。そんな悲しい歴史があったのですね、、、。
モアイには眼がはまっていた。その眼は黒曜石などでできていた。
私はマチュピチュに行っていませんが、行きたい気持ちはあります。同じように、イースター島にも行ってみたいものです。宮崎の都井岬でしたか、和製のモアイ像があるのは・・・。仕方ありません。それでガマンすることにしましょう。
イースター島の現地に行く人には欠かせない、絶好の手引書です。
(2015年6月刊。1000円+税)
2015年9月22日
古代ローマの庶民たち
イタリア
(霧山昴)
著者 ロバート・クナップ 、 出版 白水社
ローマ帝国で庶民がどんな生活をしていたのかについて、多角的に明らかにした本です。
なにより驚かされたのは、ローマの公衆浴場が、実は不潔だったという記述です。お風呂に入るというと、日本では、かけ流しの温泉のイメージで、清潔そのものというイメージです。ところが、マルクス・アウレリウスは、入浴の汚さを次のように記している。
入浴とは、油、胸の悪くなるような臭いのごみ、汚物まみれの水、吐き気がするようなものすべてある。
なんだか恐ろしい浴場ですよね・・・。
何もかもが混ざった場が接触感染者を蔓延させていた。病気を治すはずの場から、人々は新しい病気をもらっていた。それでも、ローマにおいて浴場は、貴重な社交の場になっていた。日々の生活の根本的な部分だった。酒と女と浴場こそが人々の楽しみだ。
ローマには正規の警察組織はなかった。ローマに住む人々にとって、窃盗は重大な関心ごとだった。あらゆる種類の物品が盗まれた。泥棒も多種多様だった。
ローマの女性は、法的な地位がなく、投票できず、高等教育からも排除されていた。
結婚は、男中心の性質のものだったが、女性は積極的な伴侶だったし、背景に押し込められてはいなかった。
女性は3人か4人の子どもの母親になることで、完全な司法上の人格を獲得することができた。そして、財産の所有権や契約書・遺言状の作成ができた。嫁資をもつことで、結婚したあとで夫の支配力を和らげるのに役立った。
古代ローマだからといって、現代に生きる私たちとまったく別次元で生きていたわけではないということも、よく分かる本となっています。
(2015年6月刊。4800円+税)
2015年9月23日
奴隷のしつけ方
ローマ
(霧山昴)
著者 マルクス・シドニウス・ファルクス 出版 太田出版
ローマには奴隷であふれている。イタリア半島の居住者の3,4人には1人は奴隷だ。ローマ帝国全体では8人に1人が奴隷。首都ローマの人口100万人のうち、少なくとも3分の1は奴隷。
奴隷とは、戦争捕虜か、女奴隷が産んだ子。このほか貧しい者が借金返済のために自らを売ることもあれば、人買いにさらわれてきて奴隷になる者もいる。
ローマという大帝国を支配してきた者の多くは、実は奴隷の子孫なのである。
奴隷は家族をもたず、結婚の権利と義務から切り離され、存在理由そのものを主人から押しつけられ、名前も主人から与えられる。
奴隷は自分の個人財産をもつことが一般的に許されていた。ただし、法律上はあくまで主人の所有者とされた。結婚も、法律上は認められなかったものの、一般的には主人が事実婚を認めていた。
主人の措置に耐えかねたとき、奴隷が神殿に逃げ込むことが許されるようになった。
奴隷による反乱はまれだった。そして、スパルタクスの反乱を例外として、たやすく鎮圧された。スパルタクスたちは、奴隷の大国を目ざしたのではない。できるかぎりの略奪をして、なんとか地方の故郷に帰ろうとしただけ。背景にあったのは、奴隷所有者たちの行きすぎた残 忍性だった。
奴隷の解放は、ただではない。奴隷価値の5%を税金として納めなければならなかった。つまり、多くの奴隷が解放されると、それだけ国の税収も増える仕組みになっていた。
解放奴隷のなかには、人並みはずれた頭脳の持ち主もいて、学術研究に多大の貢献をなした。解放奴隷とは、これ見よがしに富をひけらかすのが好きな連中だ。
ローマ帝国は大量奴隷の存在を抜きにしてありえなかったようです。
(2015年6月刊。1800円+税)
2015年9月24日
オキノタユウの島で
生き物(小鳥)
(霧山昴)
著者 長谷川 博 、 出版 偕成社
アホウドリという名前は、人間がいかに無知で馬鹿な存在であるかを意味しています。
実際の鳥は、賢く、優雅です。ですから、著者は、昔のようにオキノタユウと呼ぶことを提唱しています。これには私もまったく同感です。
著者は私とまったく同じ年に生まれ、長く20年以上も無人島に渡って、一人で1ヵ月に及ぶ生活をしながらオキノタユウの繁殖を手助けし、観察を続けてきました。
その苦労には、心より敬意をささげます。すごいです。
オキノタユウは、長く一夫多妻で連れ添う。片方が亡くなると、しばらくして再婚はする。
オキノタユウは、荒れくるう海をものともせず、悠然と飛翔する。きっと、荒れる海が好きなのだ。
火山島の鳥島には、沢など淡水の流れはない。雨水をためて生活用水を確保する。雨水を飲料水にはしない。生息しているクマネズミのふんが貯水槽に入り込んでいるかもしれないから。
着陸の不得手なオキノタユウは、けっして無理に着陸することなく、何回も慎重に進入を試みて、安全を確信したときに初めて着陸する。
オキノタユウを近づいて観察するときには、なるべく低い姿勢をとり、すこしずつ、ゆっくりとコロニーの縁に近づく。そこにすわってじっとしていると、鳥たちは次第にこちらを気にしなくなる。
オキノタユウのコロニーには病気を媒介するダニやツツガムシなどが生息している。そこで、コロニーの中を歩いたあとは、全身を石けんで洗い、着換えをするほうが安全だ。
はじめのうち、島には、オキノタユウを招き寄せるため、デコイや音声装置を設置していた。しかし、2006年5月に撤去し、今はない。
今や成鳥と若鳥の数は200羽をこえ、ひなは80羽いる。長年の苦労がついに報われたのです。大きな心からの拍手を送りたいと思います。
(2015年5月刊。1800円+税)
シルバーウィーク、久しぶりに近くの小山にのぼりました。ところが、ちょっと前に直撃した台風のために至るところ倒木だらけで、いつものコースがのぼれず、危く道を間違えそうになりました。といっても間違えたからといって遭難するような状況ではありません。汗びっしょりになって頂上にたどり着きました。
秋の終わりを告げるツクツク法師の声を聞きながら、山頂でおにぎりを美味しくいただきます。山では梅干しおにぎりが最高です。360度のパノラマ光景で下界を見おろして英気を養います。黄金色のススキの穂が風に揺れています。山頂のコスモス畑は、まだ花がちらほらとしか咲いていません。山をおりる途中のミカン畑は、まだ青いミカンが鈴なりです。今年は台風直撃によって梨は8割も落果してしまったと聞いて心配です。
ふもとまでおりてくると、見渡す限り緑のじゅうたんです。いえ、黄色の稲穂が垂れはじめていますので、黄色の混じった緑色が広がっています。それを縁取っているのが紅い蔓珠沙華です。空をカラスの群れが飛びかい、アオサギが一羽、悠々と飛んで行きます。
いかにものどかな田園風景。心が和みます。
2015年9月25日
独裁者は30日で生まれた
ドイツ
(霧山昴)
著者 H・Aターナー・ジュニア 出版 白水社
ヒトラーが首相になったのは、ヒンデンブルク大統領ほかとの対人関係のなかで生まれたものだということを明らかにした面白い本です。
ヒトラーは、本人以外は誰も首相になれるとは思っていなかったのに、同じく落ち目だったパーペンと手を組んで、逆転して首相になったのでした。本当に悪運の強い男です。そして、それによって全世界にとんでもない災いをもたらすのでした。
ヒトラーを嫌っていて、渋々、首相に任命したヒンデンブルク大統領について、次のように評しています。
ヒンデンブルクには、強靭な独立不羈の精神が欠如しており、自分から滅多なことでは主導権を握らなかった。その全生涯を通じて、ヒンデンブルグは周囲の助言に大いに依存し、その特徴は年とともに一層顕著になった。無感動に見えるその外見とは裏腹に、ヒンデンブルクはストレスがかかると感情の爆発に負け、口ごもり、とめどもなく涙を流した。ヒンデンブルクは、軍事問題以外には知的関心をまったくもたず、政治をふくめて極度に単純化された見解以上のものをめったに持っていなかった。
ヒトラーのナチスは、通常の意味での政党ではなかった。それは、ヒトラーが繰り返し主張したように、党員に党への全面的かつ無条件の献身を要求する運動だった。ヒトラーはビヤホール一揆が失敗して1年以上も刑務所生活を余儀なくされたが、その後は、武力で共和国を制圧するという希望を捨て、合法的に選挙によって権力を奪取しようとした。
ドイツにおける大恐慌が数百万人の不安と絶望を引き起こしたとき、ヒトラーは見境のない扇動と計算し尽した嘘八百を並べ立てて、多くの支援者を獲得した。まるでアベですね。
熟練の写真家に自分の実物以上の、ひたすら自らの大義に殉する人物として撮影してもらうことによって、深遠な思想を伝え、無私の精神によって、困窮した数百万のドイツ人のために尽力するというイメージを作りあげた。
ヒトラーは、不安感と偏見を巧みに利用した長広舌の情熱的な演説によって、影響を受けやすい聴衆を大衆ヒステリーに近い状態に投げ込み、言葉の奔流で圧倒し、翻弄した。
ヒンデンブルクは、ヒトラーを非公式には「伍長」と呼び、深い不信感を抱いていた。1931年11月の国会選挙は、ヒトラーとナチスにとって痛撃となった。多くの国民が、とどまることを知らないナチ突撃隊の暴力行為に仰天した。このとき投票所に向かったドイツ人のうちの3分の2以上がナチズムを拒否した。
ヒトラーの狙いは、議会主義にもとづく内閣の首相ではなく、大統領府内閣の首相となること。他党との連合に依存する必要がなく、大統領緊急令によって統治できるもの。
ナチ突撃隊は40万人。ベルサイユ条約によって制限された小さなドイツ国防軍(10万人)を4対1の割合で上回った。
1932年暮れ、ナチス党のナンバー2(シュライヒャー)がヒトラーに反対した。このとき、ヒトラーはパニック寸前の状態にあった。
1933年1月、ヒトラーは43歳だった。ヒトラーは自墜落で、半ボヘミアン的な生活を送っていた。ヒトラーは不況に苦しめられていた多くのドイツ人が夢想すらできないような贅沢三昧の生活を過ごしていた。
ヒトラーは権力の共有ができない、壮大な使命感に燃えた狂言者だった。
1933年1月、ヒトラーは小さなリッペ州で大博打に出た。ヒトラーはドイツの苦しみの犯人は、ユダヤ人とマルクス主義者に支配される共産主義的な「体制」にあると非難した。そして、人種的に純血で誇り高い強力なナチ化されたドイツを建設すると公約した。
ヒトラーは40万人いる突撃隊内部の不満の増大に直面した。党内の士気喪失と対決しなければならなかった。そして、ヒトラーとナチスは、リッペ州で4割の得票を得て、21議席のうち9議席を占めることに成功した。
1933年1月、ナチ陣営は、まさしく危機に瀕していた。このころ当時のドイツ首相・シュライヒャーは、ヒトラーを飼い慣らせるという幻想を抱いていた。ナチ党が慎重かつ理性的に行動するという幻想だ。しかし、ヒトラーは、尋常な政治家ではない。そして、シュライヒャーはヒトラーが政治的に孤立していると考えていた。
1933年1月22日、警官隊が共産党本部を襲撃した。ナチスは、法と秩序を維持する警察権力と協力して共産主義者に対抗する、社会的に信用できる党という評判を獲得した。これは、ドイツ左翼への痛撃となった。警察はナチスと暗黙の協定を結んだ。この協定によって、警察は、この数年、首都その他のドイツの都市の街頭で傷害致死事件を引き起こしてきた凶悪犯の保護者となった。
1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーをドイツ首相に任命した。いかなる客観的な基準から見ても、偽誓行為であったが、ナチ党指導者・ヒトラーは、長年にわたって粉砕すると誓ってきた共和国の憲法と法律を守り、維持すると宣誓した。これはまるで、アベ首相が明らかに憲法に違反する安全法制法を憲法に違反しないと国会で答弁したのと同じことです。つまり、ヒトラーもアベも二人とも国民をだます点で共通しています。
民主主義の不倶戴天の敵が首相になったにもかかわらず、共和国の擁護者たちは、ナチ党指導者(ヒトラー)が首相になったことに抵抗したり、示威行動を行ったりしなかった。
ナチスが暴力に訴えることは前から予想していたが、政治的暴力がこの社会の常態となっていたので、彼らは油断した。多くの政治評論家たちは、内閣においてナチス3人に対して保守派の大臣が数のうえで勝っていることに安堵した。甘かったのです。
一般のドイツ人がヒトラーの首相任命に対して示した当初の反応は、現実に生起したことのとてつもない重大性を考えてみれば、驚くほどに無関心だった。このころ、次から次への首相交代は珍しいことではなかったので、一般の多くのドイツ人は興味を失っていた。映画館で流されるニュース映画でも、新内閣の発足は6つの出来事の最後だった。
首相に任命されるほんの1ヶ月前、ヒトラーは終わったと思われていた。ヒトラーの党は最後の選挙で大きな後退を余儀なくされ、3人に2人がヒトラーの党を拒否した。
そして、経済回復の兆しが、不況以来、ヒトラーが巧みに利用してきた問題を奪おうとした。ところが、それから30日後、ヒトラーを繰り返し非難してきたヒンデンブルク大統領が、正式にヒトラーを首相に任命したのである。ヒトラーは、万事休したと思われた、まさにそのときに自分が救済されたこと自ら驚いた。
1933年1月30日は、ヒトラーによる権力の掌握だったという見解は見せかけにすぎない。実際には、ヒトラーは権力を掌握したのではなかった。それは当時のドイツ運命を左右した人間によってヒトラーに手渡されたのだ。
ヒトラーは2月1日、議会を解散した。2月末の国会議事堂放火事件のあと、内閣の権限を大幅に拡大した。それでも、3月の選挙でナチスは過半数はとれなかった。44%の得票率だった。
3月23日、ヒトラーは共産党の国会議員を追放し、脅迫と虚偽によって全権委任法に必要な3分の2の議席を国会に確保した。
このようにヒトラーは1933年1月、選挙で選ばれて首相になったのではない。ヒンデンブルク大統領が首相その他の大臣の任命権を有していた。
1933年3月の全権委任法によって、ドイツ・ワイマール共和国憲法は失効した。
この全権委任法は、市民の基本権を停止するものであり、社会民主党や共産党の国会議員を強制的に排除して、暴力的に成立したものである。
いいかげんな答弁を繰り返し、自席から品のない汚ない野次を飛ばすアベ首相の姿をテレビで見るたびに、情けないやら、腹だたしいやら、本当に身もだえしてしまいます。
それにしても、マスコミのひどさはなんとかなりませんか。アベ様のNHKであってよいはずがありません。日本国憲法の持つ力を今こそ生かしたいと思います。
(2015年5月刊。2700円+税)
シルバーウィークは、ずっと仕事をしていました。人が動くときには、じっとしているのが私の若いころからの習性です。
たまった書面をやりあげ、排戦中の小説を書き足し、庭の手入れをしてチューリップを植え付けました。
そして、最終日の23日は北九州まで出かけました。安保法制法を廃止させようという市民集会に参加したのです。
北九州市役所前の勝山公園には大勢の市民が参加していました。年配の参加者がほとんどでしたが、前の舞台で活躍していたのは若者たちです。私も、若者から元気をもらいました。
団塊世代の私たちだって、20歳前後は、毎日のように集会やデモ行進をしていましたが、あのころはリーダーに率いられた大衆の一人でしかありませんでした。今日の若者は、みな自分の言葉で語っているところが素晴らしいと思います。
私は大学生のころ、何百人とか何千人という大勢の前で発言したことはありませんし、考えたこともありません。アジテーターは、いつも決まっていました。そして、私の知る限り、そのアジテーターは、今、ほとんど沈黙してしまっています。残念なことです。
やはり、みんなで、少しずつでも、自分の言葉で語るのが大切なんだと思います。
それにしてもアベ政権の強引な安保法制の成立は許せません。憲法違反の法律は、誰がなんと言っても無効です。その無効を国会でも早く表明させたいものです。
2015年9月26日
豊臣大坂城
日本史(戦国)
(霧山昴)
著者 笠谷 和比古・黒田 慶一 、 出版 新潮選書
大坂城と豊臣秀吉・秀頼について、最新の学説が展開されている面白い本です。
城内の対面所は、表御殿のなかで最大かつ最高級の殿舎だった。なぜなら、対面は近世封建制度上、大名たちの地位と格式を現出させる、もっとも重要な儀式であったから。
豊臣大坂城は、増大な惣構え掘を有していた。これに対して徳川大坂城は外郭の防御施設をもたない裸城同然の城である。基本的に、外郭の防御施設をまったくもたないところに、徳川大坂城の最大の特徴がある。
朝鮮の役の当時、秀吉軍の火縄銃の精確さに恐れをなした朝鮮正規軍は逃散した。しかし、火砲については、明(中国)・朝鮮側に一日の長があった。朝鮮の火砲は基本的に大型だった。ただし、これは主として艦載砲だった。
関ヶ原の戦いなどで用いられた大砲は、朝鮮の役のときの歯獲品だろう。
日本軍の大砲は「石火矢」の名前の通り、大石を砲弾として、火薬の爆発で飛ばす「射石砲」だった。
関ヶ原合戦の果実をもっとも享受したのは、実は徳川ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将だった。石田三成(19万石)、宇喜多秀家(57万石)、小西行長(20万石)、長宗我部盛親(22万石)ら88の大名が改易され、その領地416万石が没収された。領地削減された大名分をあわせると、632万石にのぼる。これは全国の総石高1800万石の3分の1をこえる。そして、この没収高の80%、520万石が豊臣系大名に加増された。
徳川と家康は日本全土の3分の1の領地しか有しておらず、豊臣系大名が3分の1を占めるなど、3分の2は外様大名であるので、その支配は容易ではなかった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂を本質としていた。
関ヶ原合戦の勝利への貢献度にしたがって、恩賞として領地が配分されたのであって、これは家康の深謀遠慮でも何でもない。そして、全国規模での領地再分配に際して領地宛行の判物・朱印状の類は一切発給されていない。
これって、明らかにおかしい、いわば異常事態ですよね・・・。
関ヶ原合戦における家康方東軍の勝利は、豊臣体制の解体をもたらしたのではなく、合戦後における家康の立場は、依然として豊臣公儀体制の下における大老としての地位を抜け出るものではなかった。すなわち、家康は、幼君秀頼の補佐者、政務代行者にとどまっていた。
西国は、そのほとんどが豊臣系国持大名の領地によって占められている。
西国支配は、もっぱら豊臣系譜の大名によって構成される特別領域として扱われた。
この地域の支配に関する第一義的責任は大坂城にある秀頼と豊臣家に委ねられ、家康と徳川幕府は、それを通じて間接的にこの領地に対する支配を及ぼそうと構想していた。
秀頼は、秀吉の嫡子であること、それによって秀頼が成人した暁には、武士領主の上に君臨して政権を主宰するべき存在であると考えられていた。
当時の人々は、秀頼がいずれ関白に任官するであろうということを、当然のこととして受けとめていた。秀吉が構築した豊臣公儀体制は関ヶ原合戦のあとも、解消されることなく持続していた。したがって、秀頼が一大名に転落したという理解は誤りなのである。秀頼は、いずれ成人したら公儀の主催者の地位につくであろうことも、人々の通念として遍在していた。
家康にとって、関ヶ原合戦の勝利は自前の徳川軍事力によってではなく、家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力に依存してのことだった。それもあって、関ヶ原合戦も、「太閣様御置目の如く」と表現されたように、秀吉の構築した豊臣公儀体制は持続していた。
家康は、この豊臣公儀体制を解体したり、乗っとたりはせず、そこから離脱した。
家康は、その体制から抜け出して征夷大将軍に任官することによって、自らを頂点とする独自の政治体制、すなわち徳川公儀体制を構築したのだった。
こうして豊臣系譜の諸大名は、豊臣秀頼に対する忠誠を維持したままで、かつ徳川家康の指揮・命令に服することになった。
朝廷から年賀慶賀の勅使は慶長8年以後も毎年、大阪の秀頼の下に派遣されていた。
豊臣の家臣は、徳川家を慕って臣従しているわけではない。家康がいなくなったあと、秀忠につき従わなければならないという義理はどこにもないのである。
慶長14年を境として、家康はこの併存体制から抜け出そうとした。「国家安康」の字は、意図的なものであった。それを口実として家康は動き出した。
大変面白く、知的刺激にみちみちた本でした。
(2015年4月刊。1400円+税)
2015年9月27日
遊廓のストライキ
日本史(戦前)
(霧山昴)
著者 山家 悠平 出版 共和国
戦前、女性を縛りつけていた遊廓でストライキが頻発していただなんて、驚きます。
第一の波(ピーク)は、1926年5月から10月までの半年間。このとき、広島、大阪、下関、品川などで娼妓たちの集団逃走と自由廃業要求が続いた。第二のピークは、1931年2月から2年間も続いた。全国9ケ所の遊廓でストライキが起こったが、うち半数が九州だった。佐賀武雄、小倉旭町、門司馬場、佐世保勝富、大牟田新地町。
1930年(昭和5年)、遊廓が全国に542、娼妓が5万2千人、芸妓8万人が働いていた。当時、日本には公娼制度があった。公娼制度とは、政府公認の管理売春制度である。
女性たちは、所轄の警察署に娼妓として登録し、鑑札を受けることで売春営業が許可された。鑑札料として、「賦金」と呼ばれる特別の税金を月々納める義務を負っていた。
遊廓の女性は、奉公契約をむすんだ奉公人であり、多額の前渡金に拘束されていた。奉公契約の形はとっていても、鞍替え(実質的な転売)の権利は抱主にあり、実際には人身売買だった。
娼妓たちは、貸座敷免許地内に居住しなくてはならず、警察署の許可がなければ、免許地の外に出ることも出来なかった。
女性たちには強制的な性病検査を義務づけられた。この目的は女性の保健・治療ではなく、兵士の保護にあった。
女性が前借金を返すためには、1日平均して3人の客をとる、年間1000人近い客をとらなければいけない。これが6年のあいだ続く。多いときには一晩で10人以上の客を相手にすることも珍しくはなかった。
6年で遊廓のなかの女性はだいたい入れ替わっていた。
娼妓の9割が10代後半から20代の女性で、30代後半になると遊廓を離れていた。
戦前、全国各地にあった遊廓の実情を調べた本です。大正期の労働運動の高揚期にあわせて遊廓でもストライキなどがあっていたとはまったく知らず、呆然としてしまいました。
(2015年5月刊)
2015年9月28日
骨が語る日本人の歴史
人間
(霧山昴)
著者 片山 一道 出版 ちくま新書
日本人とは何者なのか。アイヌ民族と同じように、琉球民族というものが存在するのか、、、。
骨考古学の知見から日本人を解明した、画期的な新書です。
現代日本人は、身体特徴に限ってみても、日本人の歴史のなかでは突飛すぎる存在である。背が異常に高く、顔が小さく、顎(あご)が細く、脚が長く、足が大きい。これは、日本列島の人々の歴史においてはすばらしいのだが、それも、ここ70年ばかりの現象でしかない。
では、江戸時代の日本人は、どんな身体をしていたのか、、、。男性の身長は166~149センチ。女性は152~136センチ。江戸時代の日本人の背丈の低さは記録的だった。
大顔で、大頭、長頭、寸詰まりの丸顔の人が多かった。
江戸時代の人々は、鉛汚染による健康被害に悩んでいた。鉛白粉(おしろい)によるもの。そして、虫歯が多く、梅毒も流行していた。
乳児の死亡率は14%と高いけれど、55歳にまで達していたら、70歳までの寿命があった。
明石原人、高森原人、葛生原人、牛川人。いずれも、今では虚像とされている。
沖縄本島で発見された港川人は、琉球諸島に限定された人々と考えられている。
日本列島に住んでいた縄文人の起源を東南アジア方面に限定する説は、もはや了解事項ではない。
縄文人は、骨格が全体に骨太で、頑丈である。頭骨は、さながら鬼瓦の風情である。
縄文人は、短軀、下半身型でがっしりとした体型、大顔で大頭のユニークな顔立ち。豆タンク型だ。縄文人は、鼻と顎が特徴的。平均身長は、男性158センチ、女性147センチ。
日本人の歴史における平均身長は、男性で160センチ内外だった。縄文人の歯には、抜歯と研歯の風習があった。
縄文時代は1万年と長い。それに比して、弥生時代は700年ほどと短い。
弥生時代よりも、次の古墳時代のほうが、多く存在したのかもしれない。
日本人の歴史では、古墳時代のころまでは「中頭型」だった。鎌倉時代から江戸時代にかけて「長頭型」が多くなる。そして、明治以降、だんだん短頭化し、戦後は、「過短頭型」の人が大半を占めるようになっている。
日本列島に、北から西から少数の人々が流れて来た。それらの人間が長い時間をかけて風土マッチしながら、練金術師がブレンド・ウィスキーを溶けあわせるように混合融合し、独特の身体特徴をした縄文人が生まれていった。
弥生時代には、朝鮮半島を平穏な海路が開けていた。だから、多くの人々が行き来していた。いつも渡来人はいたし、中世の倭寇のころまで、渡来人はいただろう。
縄文人が雲散霧消して、弥生時代の渡来人に総入れ替えしたというものではない。
琉球諸島に住む人々は、文化基盤は違うものの、身体特徴は本州域の日本人と大差ない。言語は、日本語の流れにある。アイヌとは、事情を異にしている。
日本人を骨考古学の立場から、じっくり観察していますので、納得できる内容になっています。
(2015年7月刊。820円+税)
2015年9月29日
ある反戦ベトナム帰還兵の回想
アメリカ
(霧山昴)
著者 W.D.エアハート 出版 刀水書房
私と同世代(団塊世代)のアメリカ人の相当部分はベトナムの戦場へ送られ、死んだり負傷したり、また心に深い傷を負って帰国しました。
著者もその一人です。なんとか生きて帰り、大学に入ったのですが、あまりに過酷な戦場体験がときとして暴発してしまい、恋人から逃げられるのです。
詩人でもある著者による、小説のような体験記です。
電車の行き帰りと裁判の待ち時間をつかって、一日で一気に読了しました。ずしんと重たい読後感のある本です。
アメリカ兵が長くいればいるほど、ベトコン(ベトナム人のアカ)が増える。年々、ベトコンは強くなる。アメリカ軍のおかげだ。アメリカ人は、戦車やジェット機、ヘリやらを、その傲慢さと一緒に持ち込んでくる。そのおかげでベトコンは、まるで田んぼに新しく米が育つように成長していく。
オハイオ州兵がケント州立大学の学生6人に発砲した。それで4人が死んだ。
地球の反対側にアメリカの青年を送り込んで死なせるだけでは終わらなかった。アジア人と戦わせるだけではすまなかった。今度はアメリカの兵隊たちを、アメリカの子どもたちにまで向けてきたのだ。そのとき、オレは悟った。今こそ、長くかかったが、言い訳やプライド、むなしい幻想を捨て去るべきときだ。
3年近くものあいだ避けてきた、厳しい、冷酷な、このうえない苦い真実を直視すべきときだ。この戦争(ベトナム戦争)は、恐ろしいほどに間違っている。オレの愛する国は、そのために死にかけているのだ。オレは自分の国に死んでほしくはなかった。
オレは何かをしなければならなかった。戦争を今こそ止めるべきだ。そして、オレがそれをすべきなのだ。
ダニエル・エルズバーグによって「国防総省白書」(ペンタゴン・ペーパーズ)が暴露され、著者もそれを読んだ。
間違い?ベトナムが間違いだって?冗談じゃない。調子のいい二枚舌の権力者たちが、力ずくでこの世界を造り替えるための、計算ずくの企みだったのだ。アメリカの支配者層は邪魔なものは何であろうと破壊してもいいとする道徳心をもった偽善的犯罪者集団なのだ。三つ揃いと、いくつもの星のついた軍服の冷血な殺人者の嘘つきどもだ。彼らは、毎年毎年、善良な家庭の子どもたちを、コメづくり農家と漁師の国(ベトナム)を相手として戦わせるために送り込んだ。
その間、自分たち自身は、上等な真白い陶器の皿で、うまいものを食っていたんだ。農民も漁民も、外国人(アメリカ人)から自分たちの国を解放しようとしていただけだった。生きるために穀物を育て、魚を獲ることだけを願っていたのだ。ベトナムに行く前に、そのことを知ってさえいたら、、、。
オレはバカだった。無知で、お人好しだった。ペテン師、そんな奴らのために、オレは殺人者になってしまった。そんな奴らのために、おのれの名誉、自尊心、人間性まで失ってしまった。
そんな奴らのために、オレは自分の生命まで投げ出そうとしていたのだ。
奴らにとって、オレはほんの借り物の銃、殺し屋、手下、使い捨ての道具、数のうちにも入らない屑でしかなかった。真実がこれほど醜悪だとは想像さえできなかった。
ベトナムなんて氷山の一角でしかなかった。アメリカは、自由、正義、民主主義と言ってはきたものの、誰にも何もしてこなかった。アメリカが望んだのは、こちらの望みどおりの条件でビジネスを展開する自由だった。つかみとれるだけの大きなパイの分け前だった。それは、共産主義も社会主義も、それ以外のどんな主義とも関係ない。
戦友たちが次々に死に、傷ついていくなかで、生きて帰ったものの、深く心に傷ついていた著者がベトナム反戦運動に参加するに至る過程は、実に痛々しいものがあります。
いま、日本はアメリカの言いなりになって自衛隊を海外の戦場に送り出そうとしています。それこそ、日本の政財界のためです。金もうけのためです。日本を守るためという名の下で、汚い金もうけを企んでいるのです。
アベ首相のすすめている戦争法の危険な本質をよく理解できる本でもあります。
(2015年5月刊。3500円+税)
2015年9月30日
エンタテイメントの作り方
社会
(霧山昴)
著者 貴志 祐介 、 出版 カドカワ
小説の本質は妄想である。
この言葉を読んで、のっけから、私はとても小説家になれそうにはないと腰が引けてしまいました。いえ、私が妄想しないというのではありません。しかし、すぐに現実論が妄想を追い払ってしまうのです。
いかに詳細に説得力をもって妄想できるかが、勝負の分かれ目なのだ。そして、どこまでオリジナリティのある、つまり異様な妄想を紡(つむ)げるのかが重要なのである。
うひゃあ、ここまで言われたら、モノカキ思考の私としても新たな壁に挑戦せざるをえません。難しいですが、がんばります。
小説のアイデアというものは、じっと待っていれば天啓のように降ってくるものではない。アイデアの種を拾い上げるためには、こまめにメモを取ること。アイデアらしきものが脳裏をよぎったら、すかさずメモして、ストックしておく。常にメモを携帯することは欠かせない。
アイデアメモが、着想を掌中に引き込むための第一の役割を果たす。
アイデアは、一瞬のひらめきのことが多い。浮かんだら、そのつどメモしてつなぎとめておくことが重要。忘却とのたたかいだ。そして、なるべく早くアイデアノートに整理する。面倒くさがらすにこまめにメモを取り、それをアイデアノートに昇格させていくことを習慣化する。
実は、私も長年これを実践しています。トイレの中にこそメモ用紙は置いていませんが、寝室のそばに、また車中にメモ用紙と太ペンを常時おいています。寝ているときに浮かんだアイデアは、起き上がって明かりをつけてメモします。車中では、交差点で停まったときに素早くメモしています。いいアイデアが生まれたと思ったとき、かえってスムースに車が流れてメモができず、そのうち忘れることがあります。そうならないため、走行中でも、脇見運転にならないように注意しつつ、太ペンでメモに殴り書きします。このときのメモ用紙はカレンダーの裏紙を使います。ちょうどよい固さなのです。
想像力を膨らませる思考訓練をする。日常生活によくあるフツーの出来事を「ひとひねり」してみるのだ。アイデアには、熟成期間が必要だ。
想像力をめぐらせて、現実にはありえない世界をつくり出していく。これこそが小説の大きな醍醐味と言える。
ジャンルやメディアを問わず、多くの作品(前例)に触れておくことは、クリエイティブを志す人間にとって大切なこと。いつか必ず血となり、肉となる。
私が書評として、こうやって毎日一冊の本を紹介しているのも、いつかきっと私の小説(ベストセラーを目ざしています)の血となり肉となる、こう信じてのことなのです。
すべての判断基準は、面白いかどうか、なのである。
これまでの私には、この観点がまったく欠けていました。自分として訴えたいこと、そればかりが先行していて、読み手の身になっていなかったのです。それで、いま挑戦中の小説には「面白味」を最大限もり込みたいのですが、日々の生活が面白味に欠けると、それもまた困難です。
実在の舞台をつかうときには、できるだけ現地をつぶさに、足で歩くように心がける。すると現場にしか存在しない、無形の情報が価値を持ってくる。取材はディテールを深めるために有効な手段だが、知ったことをすべて使わないのも鉄則だ。
キャラクターの名前は、意外に重要だ。主人公には、現実離れしない程度に「華」のある名前をつけたい。
私も、小説の登場人物のネーミングには、それなりに気を使っています。
主人公は、読み手がごく自然にその心中を想像できる人物でなければならない。読者の感情移入を促すためには、読者に近い立場のキャラクター設定するのが有効。
一行目の書き出しがスムースに口火をきれるかどうかは、自分自身がどれだけその世界に入り込めているかにかかっている。
文章における読みやすさとは、万人にとってストレスなく読み進められるものであることが第一条件である。
文章におけるスピードとは、各スピードではなく、あくまでも読むスピードだ。
やたら漢字を使いすぎると、読む人に過度のストレスを感じさせてしまう。
モノカキをモットーとしている私にとっては頂門の一針という点が多々ありましたが、小説家を目ざす人にとって必読文献だと思った本です。
(2015年8月刊。1400円+税)