弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年8月 8日

豊臣秀次

日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  藤田 恒春 、 出版  吉川弘文館

 かの秀次について、著者は次のように評しています。
 戦いの場における獅子奮迅の活躍もなければ、一領主として領地支配に専念した形跡もなく、といって秀吉の影法師的役割を果たせたわけでもない。要するに、至って凡庸なる青年にすぎなかった。
 秀次28歳の人生をかえりみると、操り人形のごとく操られていたとはいえ、秀次なりに公家たちへの学問の奨励をとおして、自らも漢和連句などに関心を見出し、また古典の蒐集などへも関心を示し、それが軌道に乗り始めたと思う矢先に降って湧いたような事件に巻き込まれてしまった。志半ばにして、汚名を着せられたまま葬り去られたことは、無念だったろう。
 秀次は、生前から悪者に仕立てられてきたきらいがある。本人の行状に帰するところでもあるが、秀次が書き残した書状には、世評とは別の細やかなる心をもちあわせた青年の一面をのぞかせている。不出来の甥子が叔父(秀吉)になんとか気に入ってもらおうと努力はしていたのである。
 いずれにしても、秀次を葬り去ることによって一番の痛手を蒙ったのは、ほかでもなく、当の秀吉本人だった。
 これは、まったく同感です。我が子(秀頼)が可愛いばかりに甥をばっさり冷酷・無惨に殺してしまったら、その一家に未来はありえません。
秀吉は、家康との小牧・長久手の合戦のとき、みじめに敗退した。そのときの秀吉側の大将が秀次だった。
秀次は、剣術や射術へ人並み以上に関心をもち、腕前も人並み以上だった。それは、秀次の失態に激怒した秀吉が、鍛錬のために、それぞれの武芸者を秀次につけた成果と考えられる。
 中納言秀次は、ひと月のあいだに、秀吉が体現していた関白職を、みずから望むことなく譲られた。秀吉は、みずから天下人として関白職を体現していたが、秀次には、その度量も器量もないままで関白職を継職したことになり、ここに秀吉の理解しえないムリがあった。
 禁裏内の手練手管に富んだ年上の公卿たちを相手の矢面に立たされたら、何人といえども、気が滅入ってしまうだろう。武士としての実績も少なく、叔父の秀吉に担ぎ出されただけの、しかも年若の秀次には、あまりにも重すぎる荷であったろう。
 秀次は切腹させられ、その秀次の首を前にして、秀次の妻妾30数人がことごとく首をはねられた。この秀吉のとった行動は、「悪魔の仕業」以上のものだったが、次第に秀吉の行為は問われることなく、秀次のみ「殺生関白」の異名が定着・形成していった。しかし、秀次の武将たちがほとんど処罰されていないことは秀次事件が冤罪であったことを裏付けている。
なるほど、なーるほど、そうだったのか、そうだよね・・・、と思いながら、一気に読み通しました。
(2015年3月刊。2200円+税)

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