弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年6月 4日

川上音二郎と貞奴

日本史(明治)

                              (霧山昴)
著者  井上 理恵 、 出版  社会評論社

 オッペケペ節で名高い福岡生まれの川上音二郎について、劇場人としての歩みをたどった本です。
川上音二郎の生まれた年は確定できない。明治維新のときには、4歳か5歳だった。
 川上は、明治の終わり前に、50歳にならずして亡くなった。
川上音二郎は、明治の男、明治の演劇人だった。
川上音二郎は、新時代の政談を演説し、事件を舞台に上げて民衆の絶大な人気を獲得し、海外巡業に行き、その身体で西欧を感じとった最初の演劇人だった。
 明治の半ば、人々の貧しさや不当な扱いを許さない憤りが、暴動につながり、宗教に救いを求めた。宗教劇が流行し、仏教演説会を可能にした。
 明治20年(1887年)に俳優としてデビューしたあと、川上音二郎は一座を組んで社会的事件や政治的内容の芝居を舞台に上げていた、各地で講談、政談を口演しながら滑稽演劇も上演し、壮士上がりの素人たちで一座を組んだ。
川上音二郎は明治26年(1893年)、フランスへ行った。1月に日本を出て日本に帰ってきたのは4月末のこと。40日の船旅なので、パリに滞在していたのは2ヶ月ほどでしかない。
日清戦争が始まったのは1894年(明治27年)のこと。この日清戦争に日本が勝ったのが日本にとって、大きな災いをもたらしました。小さな島国の日本人が中国大陸に住む中国人に優越感をもってしまったのです。
 宣伝戦がうまくいって、日本人の多くが有頂天になってしまいました。日清戦争を舞台で演じると、みていた観客が舞台に上がって清国兵の役者を殴りつけたのでした。
 川上音二郎には反体制の意識はなかった。しかし、権力や権威を利用しつつも、それにこびへつらう気持ちもなかった。
川上音二郎が川上座を開場してから、不入り失敗したというのは間違い。いつも大入り満員だった。
 それでも、川上音二郎は高利貸への返済に追われていた。川上音二郎は、俳優たちとの離合集散を体験しながら、一座を運営して、常に「大入り」を取っていた。
 川上音二郎は、舞台を構成する演出者として能力を発揮した。川上音二郎は、アイデアマンで、構成能力があり、状況把握に長けていた。
 川上音二郎は、衆議院選挙に2回立候補したが、当選できなかった。当時は制限選挙である。この立候補と高利の借金返済のため、川上劇場の維持が困難となり、売却せざるをえなくなった。
 「金色夜叉」で、川上音二郎は高利貸になる貫一の役を演じたが、生身の川上音二郎は高利貸の取立に苦しんでいた。
 演劇人の川上音二郎の半生を丹念に紹介した本として、面白く読みました。
(2015年2月刊。2700円+税)

  • URL

カテゴリー

Backnumber

最近のエントリー