弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2015年3月29日
小西行長、史料で読む戦国史
日本史(戦国)
著者 島津 亮二 、 出版 八木書店
小西行長の実像に触れた思いのする本です。秀吉の有能な部下、キリシタン大名、関ヶ原の戦いで敗れて斬首された武将・・・。
小西行長は官僚として有能ではあっても武将としては、いまひとつだったというイメージがあります。でも、武将としても、それなりの人物だったことが本書で明らかにされています。
小西行長の史料は抹殺などされていなかった。
小西行長の両親、兄弟、子そして血縁関係にある堺の日比屋(ひびや)氏のほとんどが、洗礼名をもつキリシタンである。
日比屋氏は6世紀の堺で活躍した豪商である。九州と堺を結ぶ海上輸送ルートと資金力をもつ日比屋氏と小西行長の父・立佐は強力なコンビを組んでいた。
小西行長は、青年期のはじめ、宇喜多氏に仕官していた。それまで宇喜多氏に仕官していた行長が、天正8年(1580年)ころから秀吉のもとで活躍しはじめた。ここから行長の立身出世が始まった。
行長は信長方に、秀吉の配下となった直後から海上交通で活躍し、後に「海の指令官」と称された能力の片鱗を示していた。
行長は瀬戸内海の海上輸送の一端を担う任務をつとめ、秀吉の家臣の中で頭角をあらわしていった。行長は、小豆島の支配にも関与していた。書状が、それを裏付けている。
行長が水軍の将として奔走して功績を挙げるのと同時に、父の立佐は秀吉の側近として財政管理能力を発揮して地位を高めていた。
秀吉は九州攻めをするときに、現地での兵粮徴収ではなく、もっとも確実な大坂からの兵粮輸送という方法を選んだ。そして、この重要な役割を任されたのが行長だった。
秀吉は、各地の諸大名とのやりとりをするにあたって、大名ごとにその仲介・交渉を担当する人物(取次)を特定し、その人物に命令を詳しく伝達・補足させるという方針をとっていた。
秀吉のキリシタン弾圧が始まったとき、重要なことは表向きにしろ、行長は「秀吉家臣」としての立場を優先させている。行長の信仰とは、常に政治的立場が優先される「信仰心」であった。秀吉の在世中に、行長が秀吉の命令に背き、自らの「信仰心」を優先させたことは一度もない。
行長の主たる属性は、「秀吉家臣」であり、行長の第一目標は豊臣政権の発展と安定そして自分自身の地位向上だった。
強制的な布教さえしなければ、イエズス会宣教師と日本における共存は可能だと行長は予測していたのだろう。行長はイエズス会との関係を維持しつつ、秀吉家臣としてイエズス会の行動を監督する役割を果たしていた。
秀吉は大陸侵攻の「先勢」として小西行長と加藤清正を選んだ。行長には、海上輸送能力や交渉能力が求められ、清正については高い軍事能力が期待されたのだろう。
文禄の役において、行長は、あくまで交渉による朝鮮国王の服属、そして明との講和交渉の開始を狙った。行長は、「征明の実行不可能」を秀吉にあえて進言した。行長は、明との直接戦争は避けるべきだと考え、秀吉の「唐入り」を「冊封要求」へとすり替えて交渉をはじめた。行長は、平壌から先へは侵攻しようとはしなかった。
当初は、電撃的に明国に迫ろうとしていた秀吉の戦略は、沿岸部に城塞(倭城)を設置して、じっくり朝鮮を侵略していく方針へと転換した。秀吉自身、それまでの戦況報告によって、明の征服などは非現実的だと悟り、当初の「唐入り」構想は大きく転換していた。
秀吉は、ある程度は、対明交渉の実情は承知していた。明は、秀吉を日本国王に封じると同時に、日本の大名や武将へ官職を与えることにした。行長による官職要請と授与の結果は、秀吉と諸大名とに受け入れられている。
この侵略戦争を日本の勝ち戦として終結させなければならない秀吉にとって、朝鮮服属の象徴である朝鮮王子日本への渡海と朝鮮南部四道の割譲だけでは譲れない条件だった。
行長は、とにかく明勅使による秀吉の日本国王任命と冊封さえ実現すれば、実態は収拾できると見通ししていた。しかし、最終的に朝鮮からの日本軍撤退をめぐる双方の利害の矛盾調整ができないまま、明勅使は日本に渡った。これが講和破綻の主要因となった。
秀吉は、9月1日、大阪城で明勅使と対面し、明皇帝から書面と金印・冠服の進呈を受けた。行長を筆頭とする諸大名にも、明皇帝から官職任命書と衣服が与えられた。このように、秀吉は、はじめから明と冊封を受け入れる方向で行長に交渉させていた。
秀吉は明の冊封は受け入れつつも、朝鮮皿道の割譲が命じられず、朝鮮要請されたことに激しく抵抗した。これに失敗したとき、秀吉の権威は揺らいで、政権の瓦解につながる芽が出てきてしまう。
朝鮮からの日本軍撤退と朝鮮王子の日本末渡海の二点が秀吉には受け入れられず、講和は破綻した。
行長が対朝鮮・明との交渉において果たした役割は大きく、厳しい戦況と多大なストレスのなか、戦争終結のため秀吉が求めた明勅使の派遣を実現させた手腕は評価されるべきだろう。明との講和が破綻したあとも、行長は戦争を回避すべく朝鮮王子の日本渡海を条件として、朝鮮との講和を模索していた。行長は、その過程で朝鮮側に清正の朝鮮渡海ルートと日程を知らせて、朝鮮軍に清正を迎撃させようとしたこともある。この行長の行動からは、すでに清正との確執が決定的なものになっていることを意味する。
清正は、行長によるこれまでの対朝鮮・対明交渉の実態を知り、行長への不信案をさらに募らせた、
小西行長と石田三成には共通点が多い。行長が2年年上だが、ほとんど同世代。両者とも、父子そろって秀吉に仕えている。三成は、奉行として朝鮮に渡り、日本軍の統括にあたっている。行長は、実質的な朝鮮出兵の現場担当者だった。
江戸時代の前期までは、武将としての行長の才能は積極的に評価されていた。ところが、やがて清正の行動などが強調されるようになったのと反比例して、行長のイメージは低下の一途をたどった。
行長が熊本の宇土にお城を構えていたことを初めて認識しました。小西行長のイメージを一新させてくれる本です。
(2010年7月刊。480円+税)