弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2015年2月 6日

日本政治とメディア

社会


著者  逢坂 厳 、 出版  中公新書

 敗戦直後のNHKには、「出獄者に聴く」という番組があった。1945年10月のこと。徳田球一などの共産党の大物をはじめ、敗戦で解放された思想犯、反戦主義者を次々にラジオに主演させた。特高警察の拷問や刑務所内での虐待、そして自らの信念を自由にしゃべらせ、多くの日本人にショックを与えた。
 1945年12月に始まった番組、「真相はかうだ」は、戦時中の日本軍の残虐行為の実態を描き出し、日本人の再教育と非軍国主義化を狙った。このシリーズは、自衛のための戦争だと信じこまされていた日本人に、それが軍部のたくらんだ侵略だったことを、順を追って解説していった。
 今となっては、NHKがそんなことをしていたなんて、信じられませんよね。今や、NHKは、籾井会長以下、安倍政権の御用達放送と化しつつあります・・・。残念ですね。
 1960年の安保報道について、新聞が抑制的だったのは、そもそも安保改定を是認していたからだ。うむむ、そうだったのですか・・・。
 池田勇人は、大蔵大臣当時、「貧乏人は麦を食え」と失言するなど、高圧的で「荒武者」のような人物と思われていた。官僚出の、性格の激しい池田に対して周囲が心配して、池田は側近と議論を重ねたあげく、「寛容と忍耐」、「話し合いの政治」をモットーとし、「低姿勢」が採用された。
 「庶民になりきる」ため、池田勇人はゴルフと料亭への出入りを止めた。荒武者・高姿勢から、ニコニコ・低姿勢にキャラクターを変更したのだ。
 佐藤栄作は、新聞記者を嫌っており、生真面目な性格で、口も堅く近寄り難い雰囲気の佐藤を記者も嫌っていた。
 「テレビ・カメラはどこかね。テレビ、どこにいるかと聞いているんだ。テレビにサービスしようというんだ。新聞記者の諸君とは話しないことにしているんだ」
 「偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接。国民に話したい」
 田中角栄のスキャンダルについて。外国メディアが報道するまでは、日本のマスコミは報道しなかった。それは、新聞やテレビなどが田中となれあい、「身内意識」があったからではないか・・・。
 1976年7月27日午前、東京地検は田中角栄を逮捕した。私は、この日、偶然にも東京の裁判所に行っていて、騒然とした雰囲気を身近に体験しました。
このころ、NHK経営陣には、政治、とりわけ田中派への配慮が目立った。
NHKの会長職は、法律的には経営委員会で任命することになっているが、実質的には首相ないしその意を体した人物が決めるのが慣例になっている。
 竹下登内閣のとき、15代のNHK会長になった島桂次(シマゲジ)は、大平や田中、鈴木善幸について、「心のそこからの友人」と自称し、晩年の池田勇人に宏池会の今後を託され、「派閥の一員として活動するように」なったと自ら語る大平派の派閥記者だった。
自民党と社会党の「野合」からなる村山政権は、「野合」への嫌悪感から、3割という低い支持率からスタートした。理念なき「野合」は政党そのものへの信頼を奪い去った。
 山田洋次監督は、「政治の裏切りは、人間の心の奥底に染み込んでいき、退廃的な気持ちにしていく」と指摘した。
 1998年の参院選の敗北は、自民党にショックと困惑を与えた。
 自民党は、団体・組織に加入していない一般の国民にとって縁遠い存在になっている。
 小泉純一郎のメディア対策については、第一に、派閥というコミュニケーション・ルートを攻撃して弱体化させ、総理としてのコミュニケーション・ルートを開いて世論に対峙した。第二に、ワイドショーやスポーツ紙、週刊誌などの「軟派メディア」を盛んに活用した。
無党派層が増えたのは、自民党が社会党と「野合」したためだった。無党派へのアプローチを限定的にしたのも自民党だった。というのも、戸別訪問を解禁しようとしたのをつぶしたのは自民党だった。だから、「空中戦」、つまり、テレビに頼らざるを得なかった。
 政権とメディアは、基本的に対抗関係にある。
 いえ、メディアが対抗関係になかったら、単なる政府広報でしかありません。独自の存在価値はないのです。
戦後の日本政治とメディアの対抗そして共同関係の実情を掘りおこした労作だと思いました。
(2014年9月刊。920円+税)

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