弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年12月30日

「戦場体験」を受け継ぐということ

日本史(戦前)


著者  遠藤 美幸 、 出版  高文研

 元日航・国際線スチュワーデスだった著者(現在は歴史学者)によるビルマ戦線における日本軍全滅戦を記憶・再現した貴重な本です。
戦争というものの悲惨さ、というより、むごさをじわじわと実感させてくれます。というのは、拉孟(らもう)の陣地にたてこもる日本軍守備隊1000人近くが中国軍によって全滅させられた事件を丁寧に掘り起こしているからです。
 それができたのは、数少ない生存者がいたこと、その生存者にインタビューできたこと、さらには、現地に出向いて、現地の攻めた中国軍からも取材できたことによります。10年という長い歳月をかけての取材が本書に結実しています。
日本軍の将兵の無残な戦死を記録する貴重な本だと思いました。そして、それらの将兵の多くは、九州出身だったのです。本当に哀れです。
 1944年6月、米中連合軍4万が日本軍の拉孟陣地を包囲した。
 3ヵ月あまりの死闘の末、9月7日、日本軍の拉孟守備隊は全滅した。その拉孟全滅戦の実情が本書によって明らかにされているのです。
 1944年3月、北ビルマを起点としたインド侵攻作戦(インパール作戦)が始まった。これは、ビルマ奪回を狙うイギリス軍の作戦拠点であるインド東北端のインパールを攻略し、さらにはインド独立運動に乗じてインドの反英独立運動の気運を醸成し、イギリスの支配からインドを分断しようということだった。ところが、補給をまったく無視したインパール作戦は史上最悪の作戦となり、日本兵の「白骨街道」を残して終わった。
 1944年7月3日、日本軍大本営はインパール作戦の中止を命じた。
 インパール作戦の失敗後、中国雲南西部の山上陣地であった拉孟の戦略的な重要性が一挙に高まった。
 1944年6月から、拉孟守備隊1300人と、4万人の中国軍とのあいだで、100日間の攻防戦が続いた。日中の兵力差は15倍以上だった。
 連合軍(アメリカ)からの軍事援助で補強された中国軍に日本軍の拉孟守備隊は全面的に包囲され、武器・弾薬そして食糧の枯渇のなかで、1944年9月7日に拉孟守備隊、そして続いて9月14日に騰越守備隊が相次いで全滅した。これによって、日本軍は北ビルマから完全に排除された。
拉孟守備隊1300人と言っても、傷病兵300人をふくんでいるので、実質的な戦闘力は900人もいなかった。それに対する中国軍の総兵力は4万人を上まわっていた。
 この拉孟陣地にも、従軍慰安婦が20人ほどいた。朝鮮人女性15人、日本人5人だった。
 これらの女性の存在理由は、日本軍将兵の性欲はけ口以外のなにものでもなかった。女性たちの恥辱と苦恨は、心身から生涯、消えることはなかった。
 そして、日本軍の拉孟守備隊のなかに、朝鮮人志願兵がいた。それは全体の2割を占めている。
 著者は1985年8月のJAL御巣鷹山事故のとき、JALの社員でした。そして、飛行の安全のためにJALの第二組合を脱けて第一組合に加入したのです。それは、「当然のように」、さまざまな嫌がらせと差別を伴ったのでした。若い女性には耐えられない、ひどさでした。
 日本軍の無謀な戦争と、現代日本における違法・不当な大企業における労務管理の生々しい実態を図らずも結びつけた貴重な本です。
(2014年11月刊。2200円+税)

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