弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年11月11日

歴史を繰り返すな

社会


著者  坂野 潤治・山口 二郎 、 出版  岩波書店

 2014年は、戦後の終わり、あるいは新たな戦前の始まりという転機になるかもしれない。
 安倍首相による、あまりに没理論的な集団的自衛権行使容認の閣議決定を目の当たりにして、そのような思いが頭をよぎる。もちろん、ここで戦後を終わらせてはならない。
 そのためには、1930年代以降の日本の歴史と、戦後の歩みを理解することが出発点となる。歴史を繰り返さないという決意を固めることが必要である。
 いま、最も大切なのは、日中友好。問題は、中国の反日感情が歴史的に深い根を持っていることを、多くの日本人が分かっていないことにある。
 山県有朋のような権力の中心は、中国の強さを意識してきた。しかし、一般の日本人は、1905年以来、一貫して中国を蔑視してきた。その前は、大国として中国を恐れ敬っていたのですよね。ところが、戦後は、ずっと下に見てきた中国が、今や目の前で巨大な存在になっている。
日本の政治家が、一般国民と同じ目線で中国問題を考えると、対応不能になってくる。
安倍首相は戦争ごっこをやってみたいのだろう。何か戦争ゲームというか、テレビゲームでもやっているつもりで考えている。
迷彩服を着て、腕で小銃を構えて、泥沼をはいずり回ってという経験をもっている国民と、もっていない国民とでは、戦いにはならない。
 今の安倍政権は、近代的な立憲主義を一切無視し、論理がなく、矛盾だらけだ。本当に平和を守りたいのなら、九条を守るだけでなく、近隣諸国と仲良くしなくてはダメ。
日本はアジアの国々に攻めこんでいって、たくさんの人々を殺し、最後には負けてしまった。この現実を見ないまま、戦後体制をつくってきたことのツケが非常に大きくなっている。
 日本人はアメリカと戦争したとは思っているけれど、その前にずっと中国と戦っていたことを忘れてしまっている。
 19年戦争論というけれど、多くの日本人の中には1941年12月から4年戦争論でしかない。
 1941年12月より前の日中戦争期の「失敗の研究」がない。
 日本は、平和国家という日本のアイデンティティを自ら捨てるべきではない。
 戦前の軍事ファッショに、日本の貧困層が期待を託してしまった。
 今の日本では、国民はむしろ平和志向を強めている。
 政策よりも政治の安定性を優先するという志向がある。現状をあまり変えたくないという安定志向が安倍政権を支えている。
 知性を軽んじることは、歴史を軽んじることと表裏一体。未来を考えられない社会では過去にも関心がない。
 大学時代に世の中について問題意識を持っていた人たちも、会社に入って30年もすると、そんな問題意識はすっかり摩滅してしまって、ひたすら成長戦略みたいなことばかり論じるようになってしまっている。政治を変えて、社会の矛盾に立ち向かうという姿勢を維持している人がほんとうに少なくなった。
 もちろん、これではいけませんよね。社会の矛盾を直視して、変えるべきところは大胆に変える。そのため、少しずつでも行動すること。これが自分のためでもあり、世のため、人のためでもある。
 そんな初心を思い起こしてくれる本でもありました。
 この状況でモノをいわないのなら、学者、知識人が世の中に存在している理由はない。
 本当にそう思います。まったく同感です。
(2014年8月刊。1500円+税)
私と同世代の作家である赤川次郎が岩波書店の広報誌『図書』11月号に次のように書いています。まったく同感ですので、ご紹介します。
 「戦後生れの私にも、「戦争中ジャーナリズムはこんな空気だったのかな」と思わせる、この何k月かの「朝日叩き」の異常さである。
 「慰安婦」をめぐる報道の一部に間違いがあったといっても、国連が発言しているように、事の本質巣は少しも変わらない。もともと「強制」という点を世界は問題にしていないのであって、「慰安婦」の存在そのものが人道的な罪なのだ。「朝日叩き」で、慰安婦の存在自体を否定しようとするのは、国際社会と日本の人権感覚のずれの大きさを浮き彫りにするばかりである。
 「日本の信用を傷つけた」というなら、「フクシマ」の原発事故こそ、今も収束の見通しさえ立たず、汚染水の流出を止められずにいる。それでいて、「原発はコントロールされている」と国際舞台で発言し、「欠陥商品」と承知で海外に原発を売り込む安倍政権こそ日本の信用を傷つけている。
 今も数日に一度はどこかで地震のある日本。そこに「原子力の平和利用」と世論を誘導し。原発建設を推進したのは、正力松太郎氏ひきいる「読売グループ」である。「フクシマ」の後、読売新聞は全世界に向けて謝罪すべきだった。
 「朝日叩き」に熱中する「読売」「産経」、そして「週刊文春」「週刊新潮」はジャーナリズムの第一の役割が「権力の監視」であることなど全く忘れてしまっているようだ。社内に「これでいいのか」と疑問を持っている記者は一人もいないのだろうか?
 文春、新潮という、私も長年付き合って来た文芸出版社が、この騒ぎの中に加わっていることは悲しい。確かに、どちらももともと保守的な性格の出版社だが、かつては知性と良識を具えた保守だった。「売国奴」だの「非国民」だのと言う汚い言葉を平然と使うのは、民主国家の出版社として恥ずべきことだ。
 それに、これらの新聞も週刊誌も、今まで「誤報」したことがないと言うのだろうか?自ら誤ちを検証して掲載したことがあるのか。
 人を非難する前に、まず我が身を振り返るべきだろう」

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