弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
2014年10月 2日
日清戦争
日本史(明治)
著者 大谷 正 、 出版 中公新書
日清戦争が、いつ始まり、いつ終了したのか、明確になっていないということを初めて知って驚きました。
日本と中国(清)が戦争したのは朝鮮戦争の支配権をめぐるものだったわけですが、台湾についても戦争があり、その終期が不明確だったのです。
日清戦争の始まりが曖昧なのは、日本政府の先制・奇襲攻撃をごまかそうとする隠蔽工作の結果でもあるのです。
中国では、地方の郷勇組織が近代的軍隊へ転換しはじめ、それを中央政府が認知した。日本は、中央政府が主導して徴兵制軍隊をつくった。この違いは大きい。国土の広さの違いからくるところもあるのでしょうか・・・。
日本では、1873年の徴兵令公布とともに徴兵制による近代軍が誕生した。
1893年、日本軍の師団編成が完結したものの、兵站部門には問題が残り、日清戦争においてトラブル多発の一因となった。
1892年8月、第二次伊藤博文内閣が成立した。
1894年、伊藤首相は日清協調を主張したが、外相の陸奥宗光が開戦を主張した。
対清・対朝鮮強硬論が高まり、ジャーナリズムの多くも、これに同調し、9月の総選挙を前にして、政党の多くが対外強硬論を競うなか、伊藤内閣は朝鮮半島からの撤兵に踏み込みきれなくなった。
当時の清政府の内情は、日本人以上に複雑だった。清の光緒帝は、1887年から親政を始めていたが、依然として重要国務には西太后が関与した。そして、直隷総督・北洋大臣の李鴻章が重要な発言力をもっていた。李鴻章は、日本との開戦回避に動いた。西太后も同じ。主戦論は、光緒帝と若い側近たちが唱えた。
李鴻章が2300人の兵士と武器を牙山(朝鮮)に送るという情報に接し、7月19日、日本政府と大本営は対清開戦を決定した。しかし、この段階でも、明治天皇や伊藤首相は清との妥協の可能性を探っていた。
7月25日、豊島付近で日本の連合艦隊が清海軍と遭遇し、戦闘が始まった。豊島沖開戦である。
宣戦布告あるいは開戦通知の前に日本海軍は清軍艦を攻撃した。その前の7月23日、日本軍が漢城(今のソウル)の朝鮮王宮を攻撃して占領。朝鮮国王を「とりこ」にした。
後日、不都合な事実は隠され、歴史の書き換えがなされた。王宮占領は、先に射撃をしてきた朝鮮兵に反撃して日本軍が王宮を占領した自衛的・偶発的な事件だとされた。
7月29日、日本軍が清軍と戦闘するなかで、「死ぬまでラッパを吹きつづけた木口小平(当初は、白神源次郎だった)」の話がつくられた。
海陸で戦闘が始まると、日清両国とも、宣戦布告に向けて動き出した。
日本政府部内では、開戦の名目をどうするかで議論続出となり、まとまらなかった。
ようやく、8月2日に閣議で8月1日に開戦と決まった。
9月10日の閣議では、それより早く、7月25日を開戦日とすることになった。とすると、7月23日の戦闘は日清戦争ではなくなる。
「石橋を叩いて渡る」慎重な性格の明治天皇にとって、日清戦争は不本意な戦争だった。清に負けてしまうかもしれないことを、天皇は大いに心配していた。
「朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」と明治天皇は高言した。相当にストレスがたまっていた。
広島に大本営が翌4月まで置かれた。明治天皇が出席した大本営の御前会議は、実際に作戦を立案決定する場ではなく、多くは戦況報告を聞く場だった。
開戦前の明治天皇は対清戦争に消極的だったが、広島では次第に戦争指導に熱心になっていった。心配に反して、日本軍が清軍に勝っていったからです。
台湾では、日本の領土になることを拒否する地元有力者らが独立を求めた。唐景松は5月25日、台湾民主国総統に就任した。「虎旗」を国旗とする、アジア最初の共和国が生まれた。台湾の抗日軍は激しい戦い、日本軍を悩ませた。そのうえ住民の激しい抵抗と台湾の風土病のマラリアや、赤痢や脚気が蔓延した。このようにして日清戦争の死者の過半は台湾でのものだった。
10月、日本軍が全面攻撃すると、劉永福はイギリス船で大陸へ逃亡し、台湾民主国は滅亡した。
1896年春、日本軍が占領していたのは、台湾の西部のみだった。台湾の南部、東部そして原住民の暮らす山岳地帯は未占領だった。山地住民の制圧は1905年ころまでかかった。
日清戦争に参加した日本軍兵力は25万人に近い。軍人軍属は40万人。そのうち30万人以上が海外で勤務した。そして、死亡したのは1万3千人。その原因は、脚気・赤痢・マラリア・コレラの順に高かった。
清軍の戦力となったのは「勇軍」(郷勇ともいう)と練軍で、総員は35万人だった。
日清戦争は、閣議決定によって8月1日に始まったとされているが、誤りだ。
日清戦争は三つの戦争相手国など、相手方地域の異なった戦争の複合戦争だった。
第一に、日清戦争は朝鮮との戦争、清との戦争、そして台湾の漢族系住民との戦争という三つがあった。
日清戦争は1894年7月23日の日本軍による朝鮮王宮攻撃に始まった。そして、日清戦争の終期は、1895年3月30日の休戦条約調印、5月の講和条約調印によって法的には終了した。しかし、朝鮮との戦争、そして台湾住民との戦争は1896年4月の大本営の解散でも終結しなかった。
日本にとって、日清戦争はもうかる戦争だった。一方の清は、日本へ支払う賠償金2億両(日本円で3億1100万円)を自力で捻出できず、外債依存の泥沼に陥った。
そして、日本政府が得たお金(3億円)は、陸海軍の要求を8割まかなうというものだった。清からの賠償金の8割が、その後の日本軍の軍備拡張に充てられた。
歴史の真実を知ると同時に、日本軍の野蛮な侵略作戦は許せないという気分にもなりました。
(2014年6月刊。860円+税)