弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年5月31日

加藤清正の生涯

日本史(戦国)


著者  熊本日日新聞社編 、 出版  熊本日日新聞社

 加藤清正の発給した文書をもとに、加藤清正の実像に迫った本です。意外な人間像に接し、驚きました。
 加藤清正って、最前線の戦場で戦う勇将とばかり思っていました。しかし、実は後方で最前線を支援する智将として秀吉に重用されていたようです。わずか49歳で病死した清正ですが、晩年は茶の湯や連歌をたしなむ文化人でもありました。
加藤清正が10代までの少年期は、秀吉と同じ名古屋市中村区(尾張国愛知郡中村)で過ごしたことは間違いない。しかし、それ以上は不明で、謎に包まれている。
加藤清正は秀吉の下の武将として名をあげていくが、軍事力より物資調達能力や事務処理能力を期待されていたのではないか。加藤主計頭(かずのえかみ)となり、財務担当者となった。清正は、戦よりも、そろばん勘定に長けていた。
大陸進出をもくろむ秀吉にとって九州は重要な軍事拠点だった。佐々成政が肥後国一揆を招いたとして、その失敗から切腹させられ、その後任として清正は4千石から19万5千石の大名へ一気に大出世した。
秀吉の朝鮮出兵で、加藤清正も朝鮮半島に渡った。そして、加藤清正は朝鮮北部まで進出し、そこで、逃げていた朝鮮王子2人を捕縛した。
しかし、1万人いた清正の軍勢は、逃亡が相次ぎ、漢城(ソウル)に撤退した時点では5500人にまで減っていた。
 清正の虎狩りは有名だが、実のところ、朝鮮に在陣していた多くの武将が虎狩りをしていた。それは、秀吉の養生のため、虎の頭、肉と腸を塩漬けにして送るように指示されていたから。当時、虎は不老長寿の薬として重用されていた。要するに、朝鮮での虎狩りは、秀吉の滋養強壮の薬を調達するためのものだった。ところが、虎の捕獲は危険で、人命をなくすことがあったため、秀吉の命令で中止された。
 要するに、清正が勇敢だったから一人、虎狩りをしていたというのではなかったのです。
関ヶ原の戦いの後、清正は家康に忠義を尽くすようになった。そして、キリスト教の禁圧令が出る前から、家臣団についてはキリスト教の信者であることを認めず、改宗に応じないものは家族ともども見せしめのために処刑した。ただし、一般庶民の信仰は認めていた。
 この本には、加藤清正が夢でみた情景をつづった自筆の書状が紹介されています。これは本当に珍しいものですね。その内容は、秀吉が登場してくるものです。そして、清正は僧に祈祷を依頼しているのです。今でも、ありそうな話です。大恩のある秀吉を、その死後に裏切ったという、うしろめたい気分のあらわれではなかったでしょうか・・・。
 今も、清正公(せいしょうこ)と呼んで加藤清正を愛敬する人の多い熊本県民の愛するシンボル的存在を新聞連載で紹介し、一冊の本になっています。たくさんの写真もあって、とても読みやすいブックレットでした。
(2013年12月刊。2000円+税)

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