弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年5月24日

サムライ・評伝・三船敏郎

社会


著者  松田 美智子 、 出版  文芸春秋

 「世界のミフネ」の実像に迫った本として面白く読みとおしました。
三船敏郎は大正9年に中国は山東省青島に生まれた。父親は秋田県出身で、漢方医の息子だったが、親と不仲になって、満州で一旗揚げようと思って中国大陸に渡った。それで、 三船は少年時代の大半を大連で過ごした。
 昭和15年で、19歳で軍隊に召集され、終戦まで6年間の軍隊生活を過ごした。軍隊では徹底的に殴られ、シゴかれた。三船は万年上等兵だった。九州は熊本の特攻基地で教育係として、特攻隊として飛び立つ少年航空兵を見送った。
 戦後、世田谷にあった東宝撮影所で撮影の仕事に応募した。しかし、ちょうど空がなかったので、俳優のニューフェイスの方に応募した。
 そのとき、怒れるものなら怒ってみろと言われ、三船はバカヤロウと怒鳴って、たまりにたまっていたうっ憤を発散した。
 「ああいう風変わりなのが一人くらいいてもいいだろう」
 という言葉で、応募者4000人のなかで、補欠合格となった。
三船は、俳優の声がかかったとき、「僕は俳優にはなりません。男のくせにツラで飯を食うというのは、あまりに好きじゃないんです」と言って断った。
 すごい言い草ですよね、これって・・・。
 三船は、除隊するときにもらった毛布を自分で裁断して縫ってコートに仕立て上げた。
 三船は掃除が好きで、自宅内の清掃も自分でしていた。
三船は自宅では着物を一切着なかった。いつも洋装で、身につけるものは、自分なりのこだわりをもって選んだ。靴をふくめて、欧米ブランド品を好んだ。
 三船敏郎は、生涯150本の映画に出演した。そのうち、黒澤明監督と組んでつくった映画は16作。最初の『酔いどれ天使』のときに三船は28歳で、最後の『赤ひげ』のとき45歳だった。この17年間で、「黒澤天皇」となり、「世界の三船」と呼ばれた。
『無法松の一生』をとるとき、三船は毎朝7時に撮影所に入り、大太鼓を叩いた。蛙打ち、流れ打ち、勇み駒、暴れ内野4種類をマスターした。本番は一発で決まった。
三船が黒澤監督と組んでつくった16本の映画で、もっとも多く競演した女優は香川京子で、次が司葉子だった。
 三船は台本をもたずに撮影所に入った。セリフをすべて覚えてから撮影にのぞむ。スタートの合図が出たときには、すでに役になりきっていた。
 撮影所に入る時間は、他のキャストより1時間早く、持参した椅子に座って待っているのが常だった。三船は、スターと呼ばれる存在になってからも、一番乗りで撮影所に入り、衣装に着替えて待機するという姿勢を守った。手抜きを嫌い、なにより現場で他人(ひと)に迷惑をかけることを嫌う性格だった。
 三船は乗馬と車が好きだった。三船の乗馬術は誰しも認めていた。
 三船の殺陣(たて)の特徴は、迫力とあの眼光。異様なほどの目の鋭さ。立ち回りでは、刀でバシャバシャと生身の身体に当ててくる。身体にあてて、その反動で次の相手を切る。だから、着られ役は、撮影の後、全身にミミズバレが何本も入っていた。三船は飲酒すると豹変した。酔った三船が暴れるのは日常茶飯事だった。
 三船は、常人には計り知れない怒りのマグマを腹の底にすえており、飲酒によって噴出したようだ。それでも朝はきちんと出社し、二日酔いで現場に来たことはなかった。
 極端なまでの潔癖、生真面目、律義、几帳面さ。
 三船は、他者が黒澤監督の悪口を言うことは許さなかった。愛情があって不満を言うのと、ただ現場で見聞きした人間が黒澤監督への不満を話すのは、三船にとって、まったく異なった次元の話だった。
 晩年の三船は認知症にかかっていた。そして、平成9年12月24日、77歳で亡くなった。
 三船敏郎の出演する映画の多くを、残念なことに、見ていないことが分かりました。ぜひ、時間をつくってみたいものです。
(2014年2月刊。1500円+税)

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