弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2014年5月16日

植民地朝鮮と日本

朝鮮(韓国)


著者  趙 景達 、 出版  岩波新書

 1910年8月、韓国併合条約が調印され、大韓帝国は滅亡し、日本帝国の一部となった。
 首都の漢城府が京城府と改められた。
 韓国統監が初代の朝鮮監督に就任した。総督は陸海軍大将から選任された。
 天皇に直隷する総督は、実際にも総理大臣の指揮を受けなかった。その地位は、各省大臣と同格のはずだったが、実は総理大臣と同格とも言える政治的地位にあった。
 朝鮮総督は、軍事はもとより司法・行政・立法の三権を掌握し、天皇直属のもと小天皇ごとき存在として朝鮮に君臨した。憲法上においても、朝鮮は、それを施行しない異邦域のごとく見なされた。
 朝鮮総督の政治的地位は、内閣の監督下に置かれた台湾総督とは異なるものだった。
 総督府は、1907年に竣工した、南山麓の倭城台にたつ総督府庁舎をそのまま庁舎とした。
 1912年3月、総督府は朝鮮笞刑令を交付した。犯罪即決令によって笞刑に処された数は、総刑罰の5割近くを占めた。日本人には、当然のことながら適用されなかった。
 同じく、1912年3月の朝鮮刑事令では、判事が証拠を示さずに判決を言い渡すことができた。これによって、政治犯を恣意的に裁くことができた。
 朝鮮には、日本国籍法が適用されなかった。これは、台湾や樺太とは違っている。朝鮮人から国籍離脱の権利を奪い、第三国への帰化を認めなかった。
 帝国憲法が施行されなかったため、朝鮮半島にいる朝鮮人、そして日本人にも参政権が認められなかった。
 総督府の諮問機関として中枢院があったが、会議が開かれない時期もあり、議長は政務総監だった。
 1919年1月、高宗皇帝が亡くなった。高宗の国葬にあわせて、朝鮮独立運動の示威行動が企画された。それは、当初、3月3日を予定した。
 3月1日、パコダ公園には数十万人の市民が集まり、独立万歳を高唱した。
 当時、京城の人口は25万人ほどだったが、3月3日には、全国から50万人が京城に結集した。
 この3.1運動のなかで、16歳の女子学生、柳寛順が逮捕され、獄死した。
 3.1運動は、アメリカのウィルソン大統領が揚げた民族自決主義への期待を契機として展開された。しかし、アメリカ国務省は正式に朝鮮独立の要求を退けた。
 3.1運動に理解を示したのは、日本の大正デモクラシーの中心人物であった吉野作造だった。このころ、日本の社会主義者は大逆事件(1910年)のあと、「冬の時代」にあった。
 独立派の一部は日本支配層へテロ行為に走りました。
 1932年1月、桜田門外で天皇暗殺未遂事件が起こり、同年4月には上海で白川・陸軍大将が爆殺され、日本公使も重傷を負った。
 1925年12月、新しい総督府庁舎が景福宮の前に竣工した。光化門は移築された。
 939年11月、朝鮮民事令が交付され、創氏改名が決められた。創氏は義務(強制)であり、改名は「任意」とされた。それでも、20%の朝鮮人は創氏しなかった。
朝鮮人の労働動員は計画では86万人だったが、実際には70万人以下だった。
朝鮮人慰安婦は、数万人と考えられている。戦地で「性奴隷」とされた。
 日本帝国が支配していた植民地朝鮮の実情の一端を知ることのできる貴重な通史です。
(2013年12月刊。820円+税)

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